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『父と私の3/66』

それまで仕事が面白い、楽しいと言っていた昭和ー平成ビジネスマンな父。

彼が転勤を機に「仕事はもういいんだ」と言って、転勤先の北海道・釧路の人に教えてもらってカヌーやキャンプ道具一式を揃え、荷物を積んであわよくば車内で寝られるでっかい車に買い換え、大自然の中に漕ぎ出した時から、私たちの家族の新しい幕が開いた。

と同時に、このときに過ごした時間が父と私のその後の人間としての関係に大きな影響を与えることになるとは、当人たちは全く想像していなかったと思う。

北海道、釧路のある春の日。まだ肌寒いどころじゃない季節に、釧路川沿いの背丈より高いススキの間に小さく見える紫色のカヌースーツ。私たちを見つけて近寄ってくる、ずぶ濡れでガタガタ震えて唇真っ青な父。

声が届くところまできたとき
「寒い!本気で死ぬかと思った!」
と叫んだ顔には、なぜか満面の笑顔。
ガチガチに震えて、死にかけながら、この人、笑ってるよ•••!!

私が割と無謀で、割とどこでも生きていけると思われている(実際かなりそう)のは、多分この時の笑顔の威力のせいだ。

先の記事のForbes Japanの動画のように、昭和〜平成の働く大人だった父。
花形の旅行業界で、1年の3分の2は出張で不在。大事なときにはだいたいいない。幼い頃の記憶の中の、どっしりでっかい温かな手と背中はじーちゃんのもの、私は筋金入りのじーちゃん子だった。

そんな父と私の関係性に変化が訪れたのは小学校3年生のとき。

道東の街・釧路への転勤を機に、それまでギラギラと駆け上ろうとしていた昇進コースから外れた父は、かなりやさぐれたらしい。
暮らしのほとんどを仕事に捧げていた人がその情熱の行き先を失った。

私も人生で初めて生まれた土地を離れ、じーちゃんばーちゃんたちの元を離れ、新しい環境に入っていくのに時間がかかった。北海道はでっかいどう、山間で雪の多い札幌と平野に吹き渡る風と寒気の厳しい釧路は、土地も風も全然違う。
得意だったスキーは活躍の場がなく、校庭に先生たちが徹夜で作るお手製スケートリンクは衝撃で(札幌では雪山だった)、身体能力、遊び方も違って、見えないけど歴然とある「地元の壁」を超える糸口が見つからなかった。

それぞれの生活の核にあった仕事と学校との距離感が変化して、思いがけずそれぞれにぽっかりとスペースが生まれた。(つまり暇になった!)
そして、その”まだ何も入っていない空間と時間”の隣には、北海道の力強い自然と生き物たちと、それを心から楽しむその土地の先人たちの姿があった。

自宅の裏には釧路湿原(生物の多様性で有名な湿原)、遠くに雪をいただくのは阿寒岳(透明度で知られる阿寒湖の源流)、冬には満天の星空を見る地元の博物館のワークショップがあり、夏には湿原をガイドさんと歩く。

母のアンテナが自然の中で行われるおもしろそうなイベントを探してくる。
博物館で極寒の冬に星を見る会。
恐ろしく寒い中、学芸員の先生の懐中電灯の明かりが夜の空に伸びていくのがどこまでも見える。
父が地元の同僚たちに誘われる。
馬を育てている人のところに行き、馬に乗って森の中を走る。
カヌーで釧路川を下り、難所を超えたところでアイヌネギを採集してBBQ。
いずれにせよ、その舞台のほとんどが豊かな自然の中で、なんだか豪快で愉快な人たちとの出会いに満ちていた。

あるときは、氷の張った湖でワカサギ釣り。
オサレな道具をたくさん持って行ったのに、一匹も釣れず、ちっちゃなテントと最低限の道具でバンバン釣っている地元のおじさんたちにワカサギを恵んでもらった。吹きっさらしの湖の寒さの中にいた体に、揚げたての小さな魚の熱と味が骨身に沁みた。

小3から小6までの間の記憶には父の姿が豊かだ。

週末はとにかくキャンプに行ってカヌーを漕ぐ。
もう全ては思い出せないほどの川や湖、町々・村を回った。
温泉もたくさん入った。北海道の大地の味をたくさん食べた。教わった。
ぬくぬく育った座敷犬も私も、カヌーに乗せられ、大自然に放り込まれた。

凛々しい座敷犬と少年のような私


不思議なことに記憶に残っているのは父そのものよりも、一緒に見た景色。そして、失敗したりうまくいかなかったり、うまくいかないのに誰かに助けられて結局楽しかった場面ばかり。

自信満々で固定したタープが風で飛ばされて悔しがる父。
高いところの山菜のタラの芽を取ろうとして怪我をした父。
突然現れた雄鹿にそっと車から降りて近づいていく父。
屋外で眠るにはまだ寒いのにキャンプをして、寝袋に犬と一緒に入っている父。

その中の父の一言や太くてずんぐりした器用なのか不器用なのかよくわからない手元、いろいろ無理やり進めて母に怒られる背中が、記憶の中にある。

冒頭のカヌーも、単独では下っちゃいけないと言われていたのに、GWの北海道はうっかりすると凍るほど寒いのに、絶対大丈夫とか言って自信満々で出て行って、見事に沈。

計画的で、事前リサーチに余念がなくて、梱包材をプチプチするように嬉々としてリスクを減らしていく母は絶対しないような、紙一重の大失敗。

大人が失敗して、さらにそれでもやりきってなんか楽しげという事件、それが私の記憶にある「パパにしか見せられない姿」。
そのときはわからなかったけど、今でも人生のちょっと高めの階段を登るとき、あの「やりきった満面の笑顔」がふいに思い出されて、まあ失敗してもたぶんなんか楽しいだろう、と思わせてくれる。

注)写真は父と孫(私の息子です)

※追記
この記事を書いたときから4年の月日が経ち、父は長い長い旅に出ました。それに伴い、分母を80から66に書き換えました。

釧路で過ごした日々のあと、父はまた仕事への情熱が再燃し、いつもいたずら小僧のように顔を輝かせて、食卓で仕事の話をしていました。

生きることはダイナミックで楽しいんだと教えてくれたのは、でっかい大地とそこに生きる人。

仕事をすることは楽しいのだ、と知らないうちに思い込んでしまえる幸せをくれたのは父。

想定より早い別れがきたけれと、きっとあなたのエッセンスはこちらの細胞に刻まれている。


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