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小さな小さな壁を乗り越えて

話すこと、書くことについて考えていた。
話したり、書いたりして何かが動き始める。
何かいいみたい。そう感じてきたし、やったらとても良いこと、そうずっと聞いてきた。

先日、コーチング仲間が言っていた。
セッションで一度、ただただやりたくないことをグダグダと言いまくったことがあったそうだ。愚痴を言いまくる回になったとのこと。
そう、コーチングセッションはクライアントの自由な時間だからどんな話をしても良い。
そして、それだけ言い切ったら、さすがにもういいかという気になって、その後その作業が進んだという。

それを聞いて、よく嫌なことをとにかく紙に書き出すと良いという話を思い出した。
私はネガティブなことを洗いざらい出すというのは、その時間それにずっと関わらないといけないかと思うと、ちょっと勇気がいってなかなかできず、自分ではやったことはない。

紙に書くと言うのも確かに良いのだろうけれど、安心安全な場で承認されて受け止められているという安心感のもと、話せるということが何より大きいのではないかと、先のコーチング仲間は言っていた。
相手が人であるということが良いのだと。
そして、その際に普通だったら言いたくないような自分でも認めたくないようなことを敢えて出すことになったりする。
言葉に出すって、そうその小さな壁、あるブロックを越えることになったりする。

あーそれなんだと思った。
敢えて口に出すという作業。心の中に留めておいても良いことを敢えて言葉にするということ。
コーチングのような状況は、承認される安心安全な場であるということが大きい。だからこそありのままの自分を出していくことになる。
それは自然なようで、それでもちょっとした勇気を出して話しているようにも思う。その勇気を勇気と感じさせない関係を作れるかはコーチにとってひとつの大きな課題にもなる。

noteについても考えた。
書くという事の大切さで言ったら、別に自分だけの日記に書き留めれば良い。
でも何が違うんだろうと思っていた。
公開するという、ある意味プレッシャーが何かいいように作用する。
私に関して言えば、誰に読まれるか、誰にも読まれないかくらいで、特定の誰にでもない。それでも誰かが読む可能性のある場に出していると、持たなくてもいいかもしれない責任感みたいなものを感じ、毎日投稿を頑張って続けられている。そしてきちんと証拠が残る。
自分の日記なら自分だけが知っているだけなのだが、公開していると、なんというか信頼度が変わってくるような感じになる。

そしてここで発する言葉も、出来たら出さなくても良いような、本心で言ったら、誰にも読まれたくないような気持ちもある。
それでもそこをエイヤっと出している。
これはまたコーチングとは一味違って、特定の誰もいないということが、かえってエイっといけている理由のような気もする。
でもこの壁の越え方は何になるのだろう。
自分自身への信頼なのだろうか。
書き出した自分を自分が見て、自分が承認してあげている作業と言えるのかもしれない。

今日は100日目の投稿となる。
特に気合を入れた訳でもない。
書き続けて何がどうわかったのだろうか。
でも実は知らないうちに、この見えない小さな壁を乗り越えてきているのかもしれないのだと思った。
だから見える世界が少しずつ変わってくる。
その壁は小さな小さなものだから、その変化をわかりにくい。
でもだからずっと「何か良いみたい」という感覚だけがあったのかもしれない。
その「何か良いみたい」の先を見ようと思って続けてみたが、その意味が少しだけ解けたのは100日目の収穫としよう。

まだもう少し私はこれを続けたいみたいだ。


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