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「書き続ける人」の到達点

書き続けてこられた文字の量に圧倒された2時間。

行ってきました、「鈴木敏夫とジブリ展」。前回2019年の開催の時はなぜか完全に情報をキャッチし損ね、アンテナ力とかいう本を書いている著者にあるまじきスルーをかましてしまったので、満を辞しての寺田倉庫。かねてより、「プロデューサー」という世の中的に非常に理解されにくい、何をやってるのかわかりにくい職業における一人の偉人として、著書は大体全て拝読し、その度にジブリの数々の映画の背景にどれだけの無茶があったかを、尊敬と「自分には無理だなこれ乗り越えるの…」という途方もない気持ちでみてきた人が鈴木さんでして。久々にその「圧倒され疲れる」体感を楽しみに行ってまいりました。

書き始めるとキリがないほど色々得るものがあったのですが、一番印象に思っているのは、やはり「書く」ということ。何しろ、この人は書く人なんだなあと。メモを書く、企画を書く、自分の思いや感想を書く、進行表を書く、会社設立趣意書を書く…  「プロデューサーとは雑用のこと」とおっしゃってますが、その「雑な用の1つ1つを、書く」んだなあと。そして、書くことによって考えをまとめ、そこに「編集」という営みを加えていく。世の中にはたくさんの雑用があって、それを担当するたくさんの人がいるけど、「単に思ってるだけ」「口で伝えて済ませただけ」「こなしただけ」の人がほとんどだと思うのです。大量に無数にある雑用だからこそ、それらに編集を加えたときの、最終到達地点の差たるや。そして編集者がオリジンである事による「書くことに対しての億劫さのなさ」みたいなものが、とてもうらやましく思えたのです。書くことによって見えるようにする、そしてそれを自分以外の人と共有し巻き込んで大きなうねりに変えていくこと。やっぱパワポを触る時間はなるべくなるべく少なくしたいと改めて痛烈に感じました。あれはよほど、手と同化するくらいの習熟に至らない限りは「書く」のうちに入らないツールだなと。

加えて感じた、「領域規定をしないこと」の凄み。自らを雑用と定義する人の強みをそこにも見たなあと。「これは俺の仕事じゃない」を変に決めない。題字も書く、キャラクターの代案も出す、偉い人口説きもする、セリフ読みの代役もする、もちろん進行管理もするしなんなら新しい方法を発明する…  自己保身や見栄が先立ちすぎる人はいかに恥をかかないかが常に頭をよぎるので、領域規定をバチバチにして、それを周りに対しての期待値調整で合わせるという作業に結構な脳の容量を割くんだと思うんです。でもこの人はなんというか、もっと遠くをみていて、「そんなことより、どうやったら実現するか」なんだな常にって思ったんです。それこそ「書くことの億劫さ」なんて些末なことだ、くらいの。高畑勲と宮崎駿というわがままな子供みたいな人に「俺は嫌だ」的なことを言われ続け、その度にどう口説き返してきたかは、この展覧会だけじゃなくてラジオなり著書なりたくさん垣間見ることができるんですが、「その人がやりたがっているか嫌がっているか」という論理を軽く飛び越えてその先にある「そんなことよりあなたは今、これをやるべきだ」という論理を見ている印象で。時代なり社会なり、あるいは友情なり。その「自分が思う、今一番大事にしたほうがいいこと」がある人にしか出せない馬力みたいなものをたくさん浴びた気がしたんですよね。本人嫌そうだからやめとこう、とかじゃない。もっと大きな「必然性」みたいなものを見てる。本人を尊重するということを「今の時点で嫌そうじゃないか」みたいな円でみてない。最終的に良かったとみんなが思えるものを大事にして、目先で怒られたり断られたりすることを超える。その「大きな必然性」を伝えるために、書く。自分の行動原理と照らした時にその小ささに嫌になっちゃうくらい。誰かを仕事のチームに誘う時に「本人が嫌がってるみたいだから無理に誘うのはやめとこう」って、やっぱりなっちゃいますよね。

「書くこと」と「領域規定しないこと」の真骨頂はやっぱり手紙で。いちばん長い時間立ち止まってみた展示はそこでした。メール一本返すにも人見知りで億劫で後回しにしまくったり、いやいいややっぱり出さなくてって辞めちゃう自分は、猛反省です。


工程表きって予算管理する人が、哲学書から文学大全から人文科学から何まで8800冊本読んでるんだから、本当に嫌になりますね。久々の、圧倒されて若干凹む、いい時間でした。銭婆のおみくじの結果は、あーやっぱそうですよねーというハードでいい感じのコレでした、という今週の日記。

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