見出し画像

「マラソンなんか阿呆がすること」と思っていた34歳が、ホノルルを走って気づいたこと

2019年の頑張ったことに「ホノルルマラソン完走」は確実に入ってくるなあと、その後遺症の腰痛に悶絶しながら迎えた年越しの時に思い返していた。陸上経験ほぼなしで、走り始めたのは一昨年の正月。「走るだなんて物好きか暇人のすること」だと完全に思っていた自分が、6時間半という全く大したことのないタイムで完走しただけのことなんだけど、この体験からめちゃくちゃ経験値の入るボスを倒して一気にレベルが2〜3上がった感覚が疲労と共に体と脳みそを駆け巡ったので、全ての「走るとか馬鹿でしょ」と思っているかつての自分のような人と、「走るの億劫」と言い出すであろう未来の自分のためのメモとして、「フルマラソンしてよかったこと」書いておこうと思います。

画像3

こんな記録でした。「完走した」以上の意味はほぼないですが・・・

「一夜漬け」的に生きてはいないか、という自戒

社会人になってから特にそうだけど、「何か一つだけのことにじっくりと向き合って物事を錬成していく感覚」が、ものすごく減った。まるで小さな敵がたくさんいて、効率よく一つ一つにとらわれ過ぎずにやっつけていくことこそ大事だという感覚。自分のなかで「直前の準備か、あるいはその場のアドリブでなんとかすること」こそ実力というような感覚が、知らず知らずのうちに当たり前になっていた。ミーティングの1時間前に資料の準備をするとか、前の日に急いで参考資料の本を流し読みするとか、締め切りの前の日にそれっぽい情報をネットから探してコピペの切り貼りをこさえるとか、そんなことばっかりで日常を流しているということ自体にそんなに意識を向けてすらいなかった。こんな日常って「なんとかなってるじゃん!」ということではなく、実は「自分の可能性をなんとかなる範囲に納めて、周囲の期待値もダウンチューンしているだけ」なのかもしれないなあと。ちゃんと中長期的に準備をして自分の基礎を錬成しないと相対せない物事や人との接触を、無意識のうちに避けたり、あるいは避けているつもりはなくても自分の気づかないところでそういうバッターボックスに呼ばれなくなっているのではないか。30キロ地点で膝裏痛に苛まれて苦しみ、ゆっくりながら着実に等速で進み続けていたであろうおじいちゃんに追い抜かされた時に、そんなことに気づいた。

フルマラソンは、才能とかセンスとかビギナーズラックとか、そういうものが全く起こらない「一夜漬けではなんともならないこと」のシンボルだと自分は思い知らされた。でもその分、準備と努力の積み重ねが確実に全て、結果に跳ね返る。身体は、びっくりするほど原因と結果がクリアでそこに理不尽さがない。ハムストリングスが硬いから中盤で膝裏が痛くなったし、骨盤の左右さが左脚の力みに繋がったし、時差ボケを直しきれなかったことがだるさに繋がった。そこには、例えば上司の好みとか機嫌の良し悪しのような、自分の力ではどうしようもないような理不尽な変数はない。「俺のせいじゃない」という言い訳の余地が全くない。自分よりも20も30も年上のランナーに中盤にゆっくりと抜かれるのは、若さでもセンスでもなく、単にその人の方がよく準備をし、よく自分の体を理解し、乗りこなして、黙々と進んでいるから。

思えば、走ることを小馬鹿にしていたのは、直感的に自分がこういう「ノリやセンスだけではどーにもならないことが苦手」という弱みを突きつけられることを避けようとしていただけのことだったのかもしれない。そして、今回、たとえそれが自分の性格や芸風と合わなくても、世の中にはそういうフィールドがマラソン以外にもたくさん存在していて、そこにリスペクトに値する人や物事がたくさん存在することを自分自身に思いしらすためにも、定期的にそういったことを自分のに降り懸からせた方がいいと、めちゃくちゃ痛感しました。

「振ってもらえる旗」に付いて行ってみる

人の人生とか日々の暮らしって、大いに「慣性」が働いて決まっている訳で、僕の場合はその慣性からの逸脱をフルマラソンという装置で結果としていい方向にすることができたんですが、そもそもの逸脱は、「誘いに乗った」ことだったりする。

苦手なこと、楽しさがまだわかってないこと、慣れないことは、年をとればとるほど、あるいは自分で自由に物事を決めていい立場になればなるほど、やらなくなる。もちろん、わざわざそういうことばかりやるのはツライので基本的にやらないで良いと思うのだけど、その積み重ねの慣性が強くなりすぎると、自分のバイアスが強くなって、しかもそれに気がつくきっかけごと排除した状態になる。他者からの強制的なきっかけって、その荒療治になるんだなあと。誘われでもしない限り、なかなかホノルルまでマラソンしようって思わないじゃないですか。

そう考えると、幾つになっても新しいことにチャレンジしていく感性が若い人って、つまり「友達の多様性が高く」、かつ「あまり後先考えずに、そいつらの誘いに乗っかる」人っていうことなのかもしれないね。

また自分はマラソンするのだろうか。

真面目にマラソン自体を振り返ると、20km地点まではこれまでで一番、まともに走れたと思う。ただそこからがいつものように、左膝裏痛を徐々に悪化させ、30km地点でもう走れない状態に。最後の10数キロは歩いてなんとかゴールにたどり着いたので、完走というよりは、正しくは「完歩」。そこに悔いは残った訳です。こんなにも運の要素が少なく、努力と準備が結果にダイレクトに反映される6時間半を、激痛というファクトをからだで受け止めながら、ああこれはやっぱり阿呆がやることだと何度も思いながら、「何もかも全ては自分の招いた結果」だと思うにつれ、その悔いを埋めに今年も一回くらいエントリーしてしまう気がします。体力づくりとか、ダイエットとか、走ってて気持ちいとか、そういうことというより、自分にはこういう「中長期的な努力の積み重ねを明らかに必要とする所為」が必要だと思う訳です。世の中便利になればなるほど、そういうことは阿呆のする無駄な努力かのように思われがちで、だからこそ自分で意図して生活に組み込むことによって得られる強さがあると確信したので。

腰痛が治ったら、また走り始めよっと。

画像1



サポートありがとうございます! 今後の記事への要望や「こんなの書いて!」などあればコメント欄で教えていただけると幸いです!