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神頼みは自己分析

我が家の恒例行事のひとつに、元旦に茨城の一言主神社というところに初詣に行くというイベントあって、朝もはよから父親が車を出して、神奈川に住んでるというのにそこまで2時間くらいかけていくわけです。もともと茨城に住んでいたときに行くようになって、彼としては商売がうまくいったことはそこのおかげ、ということらしいのだけど、ほんとかどうかは誰もわからない。ただ、名前の通り、「一言だけなら、かなえてくれる」という、なんでもどうぞってスタンスじゃないところは、ほかの神社よりもなんだかかえって信頼がおけるニュアンスは感じていたけど。

信心深いかどうかとかは人によるし、人によっていいとも思う。願うことが意味あるとかないとか、そういうのも好きにすればいいと思うのだけど、一つだけ明確に祈ることに効果があると最近気づいたことがある。「言葉にすること」です。神が願いをかなえてくれるかどうかはまさに神頼みだけど、『何を願うか』について自分で内省し言語化することは必ず、願う前に誰もが通る作業であって、そこにこそ、願うことの意味があるように思うのです。だったらだれか友達とか家族とか、人間に話すのでもいいじゃないかという説もあるけど、人間の叶える力を大きく超えた神の力をいったん信じてみることで、人は初めて「率直に、恥とか外聞とかを取っ払って、自分の願いを内省できる」のかもしれないと考えると、神っていう機構をこさえることでご先祖さまたちは一年の中で定期的に『内省』を生活に組み入れてきたのかもしれない。

伊勢神宮にも熱田神宮にも熊野本宮大社にも、そういえば「いちどその存在を肌で感じてみたい」と参ってきましたが、そのたびに、神様あんたほんとに願ったら何かしてくれるのかい?っていう神頼みマインド以上に、「さてこれはなかなか来れないところにきたので、何を願おうか?」と考える、その一時にこそ価値があったのかもなあ。神頼みは自己分析かもしれませぬ。

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