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どうなるかわからない未来のことを、それでも想像することの意味

今週末は月イチの富士見町。先日書いたこの企画のDAY2のメンターとして、生憎の雨の中、それはそれで気持ちのいい八ヶ岳にお邪魔した。

一泊して翌朝、朝だけやってる「朝喫茶ちっと」でトースト定食を食べながら、ignite! 主催の津田さんとモーニングトークしたのは、まさに終わったばかりの御柱祭の話。諏訪エリアを代表する奇祭で、6年に一度の開催が今年。首都圏からの移住の津田さんは始めてディープに運営から関わって、当日も柱に乗って「人生観が変わった」と表現するほどの集団トランスを体験されたという話で。ほぼ全ての事柄が口伝によって1000年以上続いているとか、亡くなる人が出るのは珍しくないとか、意味とか価値とかで説明がつかない、言語化が追いつかない存在感について考えさせられて。今、ゼロから「1000人で柱を引き摺って叫んで鳥居をくぐらせる祭りやりましょう」とか、絶対企画通らないもん。町で会う人会う人、「御柱、どうだった?」と聞かれる津田さんを見ると、共同体を連帯するための儀式の存在感の大きさを生で感じさせてもらった気がします。

Ignite! 本編でも「10年後の社会を想像して見よう」という問いかけを参加者にしたのだけど、これに対して「これだけ不確実性が高くて未来は読めないと言われている中、10年後のことを考える意味はどこにあるのか?」という質問がきて。ごもっともではあるのですが、「わからないから考えなくていい」ということではないのですよね。占い師のように10年後の出来事を「当てたい」訳でも、タイムマシンで未来の正解を先回りして見つけてそれに応える企画でボロ儲け、みたいなことをやろうとしている訳でもない。10年後の社会がどうなっているのかという想像力を、日々の生き様に持っていられるかどうかで、気づくことが増えるということだと思うのです。次の御柱祭は6年後で、そのとき長男は19歳だからどう関わってくれるか、そこで何を感じるかが楽しみだと津田さんは言っていて。そうやって先人たちは「ある程度、遠い射程の未来」に予定を組み込んでおくことで、今さえよければ未来なんかどうなっても知らねえっていう、場当たり的で子孫に迷惑をかける思想が跋扈することを抑止しようとしてたんじゃないかとふと思う。「10年後を想像することで、自分のWILLに気づける可能性が上がる」という津田さんの言葉がとてもしっくりくる。

どうなるかわからないことはハナからやらない、関わらないという構えでは、楽しいこととは出会えない。そんなことを、その後の協働農園プロジェクトに参加する人たちが苗を選んで自分の畑が実る未来を嬉しそうに想像しているのをみながら考えたよというメモ。今年初アマガエルを見つけたのでそれだけでハッピー。

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