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「こってり」するから「はっきり」して、「あっさり」に至る。

最近自分が「あっさり」してきた。サウナに行っても前なら「10分3セットは当たり前。一日滞在するときはそれを4ループはやる」感じだったけど、「8分2セットでも、今いい感じだからもうあがろう」となる。映画も「年間100本、観てない作品を観る」と10年くらいやってきたけど、最近は「ああ、前観たことある作品だけど好きなやつだからもっかい観よう」となるので結果的に50本観れればいい方という状態。物事を突き詰めるときの執着が「あっさり」しているわけです。

歳をとったとか、時間がなくなって突き詰めできなくなったとか、執着を手離した理由は色々なんだろうけど、これでいいのだと感じていて。「お金かけたんだから元取らなきゃ」とか「SNSに載せるためにはもっとやんなきゃ」とか「自分のブランディング考えると…」とか、“混じりっけ“だよなと。本当にどうしたいかよりもそっちの混じりっけに気がとられて、自分の体が本当に欲している状態を通り越えてサウナ室で我慢するとか、それこそととのってない。こういう混じりっけってつまりは、自意識に矢印が向き過ぎているだなあと。「好き」という感情とは、対象に投じている時間やお金の量ではなくて、そういった「向き合っているときの動機の純度の高さ」なんじゃないかと。

ちょっと話は飛びますけどこれって、企業の経営とかでもおんなじで。仕事柄、クライアントの社内合意形成の支援をしてきましたが、いろんな部門の利害調整をして合意形成するために常套手段の一つに「メリットの多面化」がある。営業部門には「セールス支援になる」といい、人事には「学生へのブランディングになる」といい、経営企画には「中期経営計画達成の効率化になる」いうみたいなそういう手続きで、大人数で合意形成しながら運営する組織の常ではあるのだけど。やはりこれもやりすぎると「役員の方を向いて仕事する社員」みたいなことに陥って、“混じりっけ“だなあとつくづく思う。「動機の純度の高さ」を保った思考の時間を意識的にとっておかないと、どんどん純度は下がるので、経営者の方と向き合うときはたまに「そもそも、なんでこれやりたいんですか?」とお尋ねするようにしていて、その問いかけからプロジェクトがガバッと急展進展することも多々。

動機の純度が高くなると、態度としては「あっさり」する。なんだか逆転しているみたいで我ながら面白いのだけど言い換えればそれは「はっきり」しているということでもあるなあと。そして、また二転三転するようだけど、どうしてはっきりしたのかと言えば、無理やり10分3セット入ることを課したり、10年以上年間100本みたりした時期を経たからでもある。「動機の純度」は最初から高くはできない。“何がいいのかよくわからない“という状態を大抵通るわけだから、その状態の時に「良さはまだわからないけどとりあえずたくさんやってみる」という経験を経て、自分の動機がはっきりするということでしょう。守破離という言葉もそれだなと。みうらじゅんが著書で、なぜそんなにあたらしいことに次々にハマって行けるのかと問われて、「最初は無理やり。“ハマるって決めて“ハマりにいく」的な趣旨の返答をしていたのを思い出す。好きなことがたくさんあって自由に楽しそうに生きている人ほど、それぞれの好きの純度を高める最初の工程で、ある種の強制力で「こってり」と向き合ってるのかもしれない。

「こってり」やるから「はっきり」して、最終的には「あっさり」になる。

せっかくの、年に数度しか来れないトンボの湯の、相変わらず最高の露天水風呂に入りながら、まだ2周目なのにこのあとサッと出れちゃう自分に、いいあっさり感を感じながら考えたことの、今週のメモでした。

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