自分は何を面白いと感じる人間なのか。
数年前、若者研究の延長で大学生にヒアリングしていたときに、ドロリッチの話になった。ドロリッチはイケてると。なぜイケてるかという話の中で、細かい具体的な発言はヒミツだけど、要するにあれは、「ドロドロしているから、人に話しやすい」ということでした。仮に「これおいしいよ!」と友達にすすめて、もし「いやいや、これはないっしょー」と言われたら、自分の味覚やセンスに直接打撃を受けてしまう。でも、「これめっちゃドロドロしてる!」というのは事実だから、それに対して友達も、「マジだ、めっちゃドロドロしてる!」と受け止めてくれる。そこに解釈や価値観のすれ違いが起こりにくい。だから、コミュニケーションの道具として扱いやすい、そんな趣旨でした。情報が洪水のように増え、いつでもどんな人とでもつながり得るコミュニケーションの混沌の中で日々の人とのかかわりあいを構築することを反復していくと、どんな相手に対しても最低限のわかりあいを生み出せるのは、ファクトでしたっていう話だなあと。主観で人にものを薦めるのは、ハイリスクなんですね。
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三谷幸喜さんが、喜劇を創るときによく「見た後に、お客さんの中に何も残らないものを作りたい」と考えることがあると、彼のエッセイで読んだことがある。”何も残らない”の意味するところを僕なりにもう少し踏み込んで考えると、「”言葉で記録できちゃうもの”で表現を作りたくない」ということなのかなと思う。よほどの文才や、情緒のチャクラを上手に開ける人じゃないと、言葉で残せるものはどうしても「ためになった」とか「どこがどういう理屈で笑えた」とか、打算とか見返りとかに寄りがち。それが見た後だけの脳のモードならまだしも、次に「何を観ようか」と観る前の選ぶときにおいても、「これはタメにもなりそうだ」「あの人が好きなタレントが出てるから、話のタネにできそうだ」とかついつい、打算をはじめる。もう、考えてみるスイッチが入ってしまう。三谷さんはなんとなく、そういう「考えて楽しまれる」「考えて観られる」ものを作りたくないといいたいんじゃないかな。それは一番、笑いから遠い頭の使い方だからなんだと思う。お笑い芸人に、「あなたの今のネタ、どう面白いか説明してもらえます?」っていう質問がいかに酷かっていう話と同じかなと。
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でも、今の世の人はドロリッチを求めがちである。面白いものを、ただ面白いと人に伝えるのは勇気がいる。主観や感情で物事を人に話すのは、裸を見られるより時として恥ずかしいと思う。だから、理論武装という服を着たがる。「だってこれはこういう面で勉強になる」「今、日本一番売れてるらしい」「この成分は健康によい」とかとか。強いファクトはもちろん、あっていいと思う。でも、何もかもをファクトに頼って選んだり薦めたりしているうちに、結局何が自分の「面白いと反応する琴線」なのか、分からなくなることだってありうるのだと思う。山ちゃんが自伝の中で、ネタが書けないスランプの時に、それを後目にコアな評価を積み重ねていた千鳥に恥を忍んで「どうしてあんなに面白いネタが書けるのか?」と聞いたら、「自分が客席にいるとして、自分が笑えるネタをやっとるだけじゃ」と返されて、それまで理詰めで構造的にネタを書いていた山ちゃんは衝撃を受けたという話を思い出す。自分が自分自身、何を面白いと思うのかということに自覚的でいられるというのは、できている人には当たり前で、できない人にとっては一大問題なんです。彼みたいな創り手としての苦悩はなおのことそうだろうとして、受け手としては少なくとも、面白がりたくて選ぶものはもう、「おすすめにそのままのる」か「直観で選ぶ」のどっちかだけにしていきたいものです。
あとはもう、この粋な心を大事にしたい。
ただ「だって面白いじゃん」といえる勇気、抱きしめてたい。
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