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人生の意味のもう半分

こないだの鎌倉オフサイトミーティングの夜に、小町通りから線路を越えたところにあったオシノといういい雰囲気のビストロで夕飯を食べた。久々に家族以外の人との夕飯でそれはそれは楽しく、映画の話で盛り上がり、昨年ディズニープラスに入ってMCU一気見を敢行した自分はこれで話についていけるぞとばかりにマーベル大好きな後輩にけしかけた。すぐに「どの順番で見たんですか!?」という話で斬りかかられ、理解重視で「公開順ではなく、ストーリー時系列順」と答えたところ、えーーーーわかってないーーー!というリアクションをされ、だってその方がゴジャゴジャにナンないじゃんとか、大体その妙な内輪ノリお作法というか全部見てない人を置いてけぼりにして突き進んでいく「1話2時間の連ドラみたいな形態」なのが元々好かん理由じゃとか言いそうになったけど、「じゃあスターウォーズはどう見たんですか?」と聞かれて、世代的にファントムメナスからがリアルタイムなので最初がアレではあるが、もし今から見るならエピソード4を見るなあと思った自分がいて、時系列ってなんだろうと思ってしまった。

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子供を育てていると、ふと自分が子供だった時に親にしてもらったことを反対側の視点から見ているような気分にあることが、ものすごくあって。その瞬間に、あの時の親がどんな気持ちで自分にそうしてくれていたんだろうかと思い馳せることばかり起こる。あの時の邪険な対応は申し訳なかったなとか、せっかく買ってもらったものをすぐ壊したり飽きてほったらかしたりしてガッカリさせただろうなとか、あの時の親はきっと自分が楽しんでたんじゃないかなとか、何年越しかに物語が逆サイドから再生される気分で、人生はしっかり伏線回収されるモンです。物心ついてからの記憶は親とのものとそうでないものとで半々か、それ以降どんどん後者の割合が増えていくけど、親との関わりの記憶の比重は、物心つく前の時代に大きいわけで、その時のなんだか判然としないぼんやりした、「悲しかった」とか「嬉しかった」みたいな粒度の感情が、自分が今、子と接することでぐわーーーっと彩度をともなってフラッシュバックすることがあって。自分の人生の意味の由来を知る順番も、4、5、6と見てから1、2、3に続く感じかもしれない。

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誰だって誰かの人生の途中から人生が始まる。特に親だと、その前提をすごく強く目の当たりにする。あの時の出来事の意味の半分はその時受け止めたとしても、もう半分は反対側の視点から数十年越しに回収されることもあるんだなあと。そんな年月が経ってから意味がわかればいいさと、目の前の人間と向き合って、時に嫌われても正しいと思うことを示す必要があるんだから、そういうのを大人になるっていうのかもしれないとふと思う。むしろ、そうやって数十年越しになって回収される方が自分にもたらされる意味の重さは大きいわけで、「理解しやすいだろう」という思いで最初っから理屈の全てを伝えようとせずに、「いずれわかる」という射程でコミュニケーションする難しさ。MCU時系列でみた自分には色々足りないなあと思います。

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初めて話した二語分が、「マッマ、マッマ(パパって言いたかったけど言い分けられたなかっただけだと目線を信じて受け取ってます)、だーいっきー!」だった記念すべき日曜日のメモ。MCUも今度、ちゃんと公開順に最初から見直します。スパイディがディズニープラスに入ってないのだけなんとかしてほしい。

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