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なぜ「好きを考える」のか。(考好学研究室の今年の抱負)

今年は「考好学研究室」の活動をもっと活性化したいと思ってます。「好きを考える学問」、僕の勝手に作った造語なんですけど、最初は「どういうこと?」という反応が多いけど、趣旨を話すと、「え、それめっちゃ大事なことじゃないですか」とほぼ言ってもらえる感触は去年1年で得られたので、自信を持って笑、いろんなとこに出て行こうかなと。なので、改めて、なんでこんなことやるのかっていう整理をこのマガジンの一本目として描いてみます。

なんで「好きを考える」のか

一言でいうと、「好奇心があらゆる問題の根底の一つだ」という暫定解が出たからです。日本財団が実施した2019年の18歳意識調査「社会や国に対する意識調査」が話題になりました。

将来への夢もなく、社会に期待もせず、変えられるとも思っておらず、なかなかな結果だけど、個人的には驚かなかった。それは、若者研究をする中で大勢の「好きなことがわからない学生さん」に出会ったから。そして、それはかつての自分だからです。「好きに生きてる大人が少なすぎる」「偏差値教育」「失敗に不寛容」などなど、これには色々な背景があって(そのうち考察します)、悪いところを潰していくのは気が遠くなるほど大変だけど、要するに「好きに気づくきっかけが不足している」という一言に尽きる。だとしたら、きっかけを自ら作ったり、それに気づける考え方や態度がわかれば、人は何歳からでも「好きに生きる」を自分でできるんじゃないか、というポジティブな仮説にたどり着いたわけです。それに、それをちゃんと考えずに、学生さんや自分より若い人に「好きに生きるといいよ」とか無責任なことは言いたくないのです。そんなnoteも去年書きました。

なんでみんな「もっと好きを大事にしろ」というのか

正直、「もっと遊べ」「好き嫌いを大事にしろ」「個人のWILLが最強の差別優位性になる」など、いろんな人が言ってます。全部そうだよなあと思う。丸っと俯瞰してみると、大きく3パターン、その根拠がある気がしたので整理してみると、

1.  ダイバーシティが高まるから(他者との関係性視点)
物事を「良し悪し」で考える人は、自分と違う考え方の人と一緒になった時に、「どちらのほうが良いか」という視点で、ぶつかりにいってしまう。マウンティングになったり、いちいち摩擦係数が上がったり、誰だってそういう人とは一緒にいたくない。良し悪しではなく、「好き(と嫌い)」で捉えられれば、それは優劣ではなく種類の違いになる。どうなるかわからないこれからの未来は、そういうチームのほうが強いし楽しいじゃん。
2. AIが色々やってくれちゃうから (テクノロジーとの関係性視点)
AIをはじめとするテクノロジーが高度発展したら、「やりたくないけどやらないといけないこと(=MUST)」の総量はどんどん減っていく。これまでMUSTを代行することで価値を世に生み出していた人は、仕事がなくなるかもしれない。人間じゃないと生み出せない価値は、MUSTからWANTにシフトしていくに違いない。だから、自分のWANTと向き合うことでそれが人のWANTを喚起し満たす。そんな人間になったほうがいいよ。
3. そのほうが遠くまで行けるから (自分自身の未来との関係性視点)
世の中なんでも不確実性が高まって、しかも移り変わりが激しい。だから、「必勝法をしっかり勉強して、その通りに手を打っていく」みたいな作戦が機能しなくなったどころか、悪手になってしまうのが今そしてこれから。突き抜けるには、「正解探し」ではなく「自分の理想を自ら持てるか」にかかっている。自分はどんな暮らし方をしたいか。世の中もっとどうなって欲しいか。現状からの積み上げでなく、自分なりの理想からバックキャストして今をとらえて動き出せる人しか、たどり着けない距離があるのである。

・・・こんな感じでしょうか。「他者」「テクノロジー(社会)」「自分」みたいな軸を無理やりだけど取れる気がします。

僕(というか考好学研究室)はどう考えるか。

じゃあお前は考好学とかいって、どう考えるのさ?と。僕は要するに「意思決定」の話だなと思ってます。何が好きで何が嫌いか。何を大事にしたくて、何をどうでもいいと思うのか。誰が好きで、どこが好きで、土曜日はこんな時間の使い方が好きで、急に時間ができたらこんなことしたくて・・・ これってほとんど、「そこまでの人生でその人がどう意思決定して、何を都度感じたのか」の年輪なんだと思うのです。他人に決めてもらったり、食べログに決めてもらっているだけでは、「情報リテラシー」はつくかもしれないけど、「好きを考える筋力」は実はつかない。世の中がどんどん未知になるのであれば、”まだ食べたことがないものを、好きかどうか想像する力”や、”それを食べてみたいと思える気持ち”が全てじゃないですか。

いってみれば、

意思決定する力=好奇心×勇気×戦略性

なのだと思うのです。
好奇心 = 対象に興味をもつ心
勇気  = 不確実性を乗り越えてやってみようと思う気持ち
戦略性 = 不確実性を下げて実入りを最大化しようという頭脳
として考えると、シンプルにこういうことだと思います。で、さっきまとめた通り、この中の「戦略性」のウェイトが下がっていくわけです。考えて、情報集めて、他のみんながどう決めたのかを見渡して、事例集めて、打率高めて、正解を選択して行くことの意味が、どんどん下がって行く。無料化されて、公開されて行く。だとしたら、好奇心と勇気が、その人の意思決定を形作って行くように、どんどんなるのだと思うのです。

もちろんこれには反論もあるようで、この仮説を話した時に、ハフポスト編集長の竹下隆一郎さんが教えてくれた事によると「アメリカではむしろ客観性の重要さが見直されている」ということ。オルタナファクトや好き嫌いでトンデモ意思決定をしている大統領の台頭で、「もっとちゃんと事実とロジカルシンキングに基づいて物事考えようよ」というムーブメントは強くなっているそうです。僕も、「好き嫌いだけでなんでも意思決定すればOK」なんて、無法地帯な未来をサイコーと思っているわけじゃない。どちらかというと日本人は、「自分がそもそも何をしたいのか」という意思決定をおろそかにして、「相手とうまいことやっていくためにどう振る舞うか」ばかり優先してしまいがちで、それが結果として、「誰も主体性や意思を反映していない、主語不在の意思決定」が、忖度を雪だるまにしたように可決されて行くほうが色々な問題を、少なくとも現時点では生んでいるように思う。アメリカの警鐘は、「自分の好き嫌いを他者や社会とどう折り合わせて行くのか」という重要な視点として忘れずにしつつ、まずは「そもそも」の方を考えても、日本にはいいんじゃないかなと改めて考えます。

さて、改めて考好学研究室は何してこう

パソコンの父と言われるアメリカの計算機学者(かつジャズ演奏家っていうのが最高)のアラン・ケイの言葉、僕も大好きかつ畏怖なんですが、

“The best way to predict the future is to invent it.”
未来を予測する最善の方法は、未来を開発することだ。

やっぱりここに戻ってきた気がします。開発には、無数の困難と、ものすごい回数の意思決定をしまくらないといけない。それって、義務感とか必然性とかだけじゃ、できないはずで、だから「好奇心と勇気」なんだと思います。

人の心の中の、「なぜその物事を好きだと思ったのか」「その好きをどう深めてきたのか」を、いろんな人の”好き遍歴”をフィールドワークで採集しながら、ここに研究記録として書いていけたらなあと今年は思ってます。来月にはある活動の場を開催できそうなので、それもまた後日。

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