[日日月月]6月29日、循環を手助けできるのは人間に与えられたギフトだという仮説
八燿堂のある長野県の小海町というところは、この集落の標高は1000メートル、真冬の厳寒期はマイナス20℃になることもある、寒冷地である。
しかし、西を北八ヶ岳、東を奥秩父山塊がそびえているため、雨雲が遮られ、年間晴天率が全国でも非常に高い。近隣に天文観測所がいくつかあるほどだ。
したがって降雪は少なく、積もっても膝下程度。ただし、雨雲がない代わり放射冷却のようになり、相当冷え込む。そんな土地だ。
豪雪地帯ほどではとてもないが、今年の年初も何度か雪が降り、朝早くから敷地の雪かきをした。一家の父に課せられたミッションである。
ところが、汗だくになって雪かきをしているうちに、ふと思ったのだ。
これって、ただ雪を移動しているだけじゃないのか?
と。
車が通る道に積もった雪を脇に寄せる。ただの移動だ。なぜ俺は、ただ雪を移動させることに、こんな汗だくになってまで粉骨せねばならないのか? 私の頭には昔本で読んだことのある、ナチスの強制労働の場面が浮かんでいた。一日目はひたすら穴を掘り、二日目は昨日掘った穴をひたすら埋め、三日目はまた穴を掘る、という……。
……というのは冗談まがいの話だが、今日書きたかったのはこういうことだ。
雪かきは残念ながら「移動」だったけれども、周囲には「循環」があふれている。例えば、秋になって森の葉が落ち、地面に積もり、虫や微生物の食料となり、やがて土になり、土の養分を吸い上げて森が育つ。これは移動というより循環だ。
循環は物質的なことだけに限らない。太陽の光、熱、空気の流れ(そもそも微生物だって目に見えない)。あるいは、輪廻転生とか、そういう話だって「循環」だと言えないか。広く言えば、「エネルギー」。エネルギーは循環している。
そしてもうひとつ。地面に積もった落葉は、時間が経てば微生物たちが勝手に土にしてくれるが、人間がコンポストをつくったり米ぬかを撒いたりすれば、循環を早めたり深めたりすることができる。
つまり、循環のお手伝いをすることは、人間に与えられたギフトなのではないか。循環を促すのも、停滞させるのも、人間次第なのではないか。
浜松の友人の言葉を思い出した。
「地球環境を破壊したのは人間だ。人間さえいなければ……」という考えもある。けれども、人間にしかできないこともある。必要ないなら滅んでいい。だが存在しているなら、その理由があるはずだ。それは何か。人間に与えられたギフトを行使することではないだろうか。
言ってみれば、人間はエネルギー増幅装置。ポンプかエンジンのようなものか。
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