序 5. ホリスティックについて
そのような世界認識は、ホリスティック(holistic:全的、全体的)という言葉で表される。ホリスティックとは、物質的・非物質的世界においてさまざまな要素が始まりも終わりもなく循環していると考える。システム思考と言い換えてもよいだろう。例えば江戸時代、米を収穫し、藁で草履や草鞋や蓑を編み、または家屋の修繕資材や雑草を抑制する地被として用い、藁が古くなれば堆肥か暖をとるための火にくべ、灰となれば酒の原材料やまた堆肥として用いる[18]。生物学においても、自身の細胞を構成する原子が空気中に飛散し、風に乗って南極にたどり着いて、クジラに飲み込まれる可能性だってまったく想定されうる[19]。また、大乗仏教における阿頼耶識の概念[20]や、ハワイに伝わる癒しの方法「ホ・オポノポノ[21]」では、人間は、意識の深層において、個人の領域を越えた太古から連綿と連なるつながりのなかにあると考える。
こうした果てしないつながりは、近代都市文明によって絶たれてしまった。なぜなら、都市を動かし成り立たせる根本的な目的かつ手段である貨幣経済は、かつてそれぞれの生活において自律し完結していたさまざまな関係性を奪うことで発達してきたからだ。都市で生活する人々は、自ら畑を耕すのではなく、他人にその活動をアウトソーシングし、貨幣と交換することで作物を得ている。作物だけに限らず衣食住のすべてが同様だ。そして人間同士の関係も、例えば保育所に子どもを預けることで、資本主義経済は発達しても、親と子の精神的なつながりは奪われてしまう。貨幣は目的のための手段として考案されたが、いつしか目的そのものになってしまったのだ[22]。
芸術も同じである。近代以降の高度な専門化によって、いつしか芸術自体が目的化し、その成功は世界が資本主義経済下にあることが前提となってしまった。芸術と経済が結びつくこと自体はここでは問題としない。経済が成功のための大きな指針となったことが現代芸術の不幸なのである。そのような資本主義に声を上げる芸術ですら、資本主義という「敵」を想定しない限り矢を放てないという意味では、資本主義という構造そのものを脱する姿勢を獲得していない。そうして芸術は、多様性の名の下にすべてが許される一方、それぞれの表現へと小さく自足していった。芸術が深々と専門化していくかたわらで、それらを掛け渡すべきつながりは、こうして絶たれたのだ。
だが、ここで取り上げる表現は、途方もなく果てしないつながりを意識し、そしてそのなかで作品を位置づけようと試みている。自然と接しながら、あるいははるか彼方にいる誰かを想定しながら。ここではこうした表現を、ホリスティックな意識をもつ芸術という意味で、「全派芸術」と、仮に呼ぶことにする。
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