生きる理由とかけがえのない人生
昨日、まるで妊娠が夢の終わりのきっかけだったように書いたけれど、今の私をこの世に繋ぎとめているのは間違いなく息子の存在だ。その価値は失った可能性や夢よりずっと大きく、息子を産まなければ私は無傷でその先の人生を生き抜くことはできなかったと思う。
その答えは「何かを成して、何者かにはなれたかもしれないが、間違いなく壊れていた」。
そんな結末を考えずに思い描く華やかな世界は、ただの甘い妄想でしかない。私は今、生きている。生きていなくては何も意味がないのだ。
私はずっと、消えたがりで死にたがりだった。
幼いころから叱られることが多く、自分自身にどうしても価値を見出せない。自尊心のなさから恋人のことを信じられなくなり、特に20代の前半は相手を試すようなことをしたり、不安に耐えきれずに連絡を断ったり、寂しさから浮気を繰り返したりと、破滅的な関係を自傷行為のように繰り返していた。
こんな自分には、生きる価値も、理由も意味もないし、ゆるやかに消えてしまいたい。
大学卒業後に就いた仕事は、どれもやりがいがあったし楽しかった。しかし一方で、仕事量や人間関係においてストレスのかかる仕事が多かった。消えたがりの女の背中は、そんなことですぐに押されてしまう。この世に留まるのもそろそろ限界かと思い始めた頃には、当時の恋人は元彼女との関係を切らずに私とつきあっており、それはもう、お前だけでは満足できない、一人に絞る価値なしだと言われている気がしていた。行き止まりだった。
特に精神の病を患っているわけでなくても、消えたい気持ちは生まれるものだ。これ以上、無意味に生きていたくない。世界が終わればいいし、とにかく明日を生きたくない。10年後の自分の姿なんて、全く想像できない。
私は昔からなぜか「飛び込みたい」欲が強く、信号無視して車の前に飛び出したい、大きな街道の歩道を外れて車道に身を投げたい、駅のホームに滑り込んでくる電車の前に飛び込みたい。日々、そんな誘惑と戦っていた。
そんな矢先に、妊娠した。
息子が誕生した瞬間から私の人生は再び動きだした。消えたがりの私に生きる意味が与えられたのだ。この愛しい息子のために生きようという使命感、世話をするためには健康でいようという決意、一日でも息子と長く一緒に生きたいという欲望。それらはもう、理屈ではなく沸きあがるものだった。
乳を飲んでうとうとと寝入る顔。お気に入りのおもちゃを振ってはしゃぐ笑顔。抱っこ紐の中で私の胸に何度も押し付ける頬。トコトコと走ってきて私の腰にぎゅっと抱き着く腕。「ママ、だいすき」という言葉を添えて書いてくれる似顔絵。寝る前に読み聞かせる絵本を、本棚から真剣に選ぶ小さな背中。自転車を漕ぐ私の後ろからそっと伸びてきておなかに添えられる小さな手。私へのハッピーバースデーを一生懸命に歌う幼い声。
幼い息子との日々はとてもここには書ききれない。想像できなかった10年後は、想像するのが楽しみになる10年後に変わった。そして彼も中学生になり、関わり方も庇護から尊重へと変わったが、この子のためならば何でもしようと思う気持ちは全く変わらない。彼のためならば、自分の命を捨てたっていいと、以前のやけっぱちな気持ちとは違った明るい気持ちで思える。
でも私は生きる。いつか息子が私から独立した後も生きていく。息子との幸せな日々の記憶は、いつまでも私に生きる理由を与え続けてくれる。
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