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「瞬間的な快楽」への態度

※この記事は、僕が運営しているウェブサイト、『あの日の交差点』に掲載しているものです。ウェブサイトの方では、参考資料もたくさん掲載しています。

マルチバースというサプライズ


劇場を背に、心だけ座席に置いてきてしまったような気がした。
GWの唯一の予定だった『ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス(以下、MoM)』を見終えた私は、なぜか心と体が落ち込んでいた。しかし、一体何に落ち込んでいるのかがわからない。心と体が不一致で、まるで感情がなくなったかのようだった。


この事実は自分にとって大きなショックだった。好きなキャラクターで待ちに待った新作が出て、きっと「おもしろい」のに、なぜか自分は楽しめていない。この事実は私を、これまでのMCU フェーズ4を、これからのMCUをどう楽しめば良いのかという態度への省察へと向けた。 自分がMCUに求めるものは何か。それは見たこともない世界に連れて行ってくれることだ。特にそれはアクションやガジェットの進化への期待だった。その意味では、フェーズ3まで期待が高かったキャラクターは、アイアンマン、ドクター・ストレンジ、ブラックパンサーだった。アイアンマンがガジェットの進化のわくわくを担っていたし、それはスパイダーマンにも引き継がれつつある。ドクター・ストレンジは魔術を使うこととそのエフェクトの多様さが期待されたが、今年公開された『MoM』である程度、そのアクション描写は頭打ちかもしれないと思った。そして、ブラックパンサー。このキャラクター及びワカンダへの期待はまだまだ続いており、それゆえに『BLACK PANTHER: WAKANDA FOEVER(原題)』をとても楽しみにしている。

フェーズ4に入ってから物語が一体どこに向かっているのかというのがわからない。むろん、これは批判ではない。作り手側もきっとそういうものとして作っているからだ。大きなサーガ(フェーズ1〜フェーズ3は”インフィニティ・サーガ”として位置付けられている。)が終わって、その影響をしっかりと描くことと新しい物語への準備をじっくりと進めている。2021年からDisney+が本格始動したことによってドラマシリーズと映画でほぼ常にMCUの新作に触れているのが現状だ。それに伴って、MCUの世界への新鮮味が薄れてきている。そして、『MoM』の一件もあって、いま、まさにMCUとどう向き合えば良いか(どう楽しめば良いか)を試されているような気がするのだ。
フェーズ3までは少なくとも物語としての推進力が大きくあった。インフィニティストーンの存在が少しずつ明らかになってゆくと共に、サノスというヴィランの影も少しずつ濃くなってゆく。心地よい謎といつか来る強敵の予感は物語に大きな推進力を与えていた。しかし、インフィニティ・ストーンとサノスをめぐる大きな物語はフェーズ3で一旦終了し、次の物語が始まったいま、そのようなどこか大きなものに収斂してゆくような物語の推進力はない。そして、期待もしていない。この「期待もしていない」というのが重要な気がする。もちろんこれは批判ではない。そういう態度だということだ。フェーズ3まで(インフィニティ・サーガ)でさえ、後半になってその向かう先が見えたはずだ。アベンジャーズのようなクロスオーヴァー作品さえ見えない今の状況は少しもどかしいが、物語を仕切り直している現代段階では大きなものに収斂してゆく物語の推進力は生まれなくて当然といえば当然である。

フェーズ3までの圧倒的なクロスオーヴァーと物語の推進力に身体が慣れきってしまっているからフェーズ4にも同じ態度で望もうとしていたのではないか。クロスオーヴァーとそれに伴う物語の推進力は快楽的なのだ。とても。フェーズ4から一旦そうい快楽性が薄まることに製作者は自覚的であったと思う。だからこそ、マルチバースという概念を劇薬、ドーピング的に導入して、興奮を持続させようとしたのだ。


マルチバースという劇薬でうまく誤魔化されていたのが『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム(以下、NWH)』だ。大学受験の結果が芳しくなく、なんとかドクター・ストレンジの魔術を使って解決してもらおうと思ったトム・ホランド演じるピーター・パーカーだったが、その無計画さからうっかりマルチバースの扉を開いてしまい、ヴィランを並行世界から呼び込んでしまう。これまで、ややこしい権利状の理由と商業的な理由で幾度とリメイクされたスパイダーマン。それらの映画に出ていた歴代ヴィランたちが、トム・ホランド演じるスパイダーマンを一斉に狙うのだ。だが、魔術で呼び込んでしまったのは、ヴィランだけではなかった。なんと、これまでの歴代スパイダーマンがそれぞれを演じたトビー・マグワイア、アンドリュー・ガーフィールド、その人がスパイダーマンとしてトム・ホランド演じるMCU版スパイダーマンと共闘する。 スパイダーマンがMCUにやってくる?そんなアホな、、と言っていたつい10年ほど前からしたら何度、目を疑ったら良いかわからないほどの夢のようなシーンだった。 これは明らかに、マルチバースという劇薬がうまく機能した例だと思う。そして、奇しくもマルチバースをうっかり開いてしまったドクター・ストレンジが、今度は自分が主人公として、マルチバースに挑んだ『MoM』。期待しないはずがないのだ。

結局、MCUの何を楽しんでいる?


『NWH』の成功を目にした時私は、マルチバースのドーピング性に気づかずに浮かれすぎていた。しかし、それに気づかず、表面的なサプライズや物語性に気を取られてばかりいた。そのズレが違和感として大きく心に残ったのが『MoM』だったのだ。いまとなってはあの時の落ち込んだ感情がなんだったかがわかる。私は『MoM』を見ながらこう思ったのだ。「ああ、(サプライズとしての)マルチバース描写は『NWH』がひとつの頂点だったんだな。」と。マルチバースはもはやサプライズとして機能しないことを実感した瞬間だった。


もう一度、冷静に自分が今のMCUの何を楽しんでいるかを考えてみる。
それは、新しい映像的な快楽である。
新しい映像的な快楽として記憶に残っているのが、『ファルコン&ウィンター・ソルジャー』と『シャン・チー/テン・リングスの伝説(以下、シャン・チー)』である。前者は、特に1話の冒頭、ファルコンがメインになった空中戦闘シーンはこれまでキャプテン・アメリカの補佐的な立場をとっていたファルコンではみることができなかったものであり、そして、それはとてもわくわくするものだった。そして、シャンチー。シャンチーを見に行く前は正直それほど期待をしていなかった。そのため、全く情報を入れていなかったし、予告編すら見ていなかった。これが功を奏した。ごく一般的なホテルマンが実は高い戦闘力を持っていたことがわかるバス内でのカンフーアクションはMCU屈指のものだったと思う。そのままカンフーアクションを地で行くのかと思いきや、ファンタジー世界に飛び込み、龍をはじめとする幻獣と共に魔界の怪物と戦うアクロバティックな展開は想像もしなかったことであり、度肝を抜かれたしとても楽しかった。この予想だにしない超絶展開は『THE Witch / 魔女』を思い出す。しばしば苦言を呈されがちな『シャン・チー』だが、確かに最終決戦がドラゴンVS龍になるのは勿体無いと感じるものの、個人的には総じてフェーズ4で一番おもしろいと思っている。エキセントリックな展開もそうだが、言うまでもなくテンリングスを駆使したカンフーアクションがこの映画の白眉だろう。あんなアクションは見たことがない。ドラゴンボールを想起させる要素は何度もあったが、それにとどまるものではなかった。そして、謎が謎を呼ぶ、物語だけが推進力を持っているのではなく、「いま目の前で何やら新しいことが起こっている」というおもしろさは、現在配信中の『ミズ・マーベル』にも見てとれるし、無自覚に私は『ミズ・マーベル』をそういう点で楽しんでいた。


こうして振り返ってみると「サプライズやストーリーではなく、ただそこでどう新しいことが起こるかを見たい」という意味では、とても素朴な映画・ドラマへの向き合い方に戻ってきているのではないだろうか。私は、フェーズ4の、作品数の割にはゆったりとした展開を、視聴者がMCUとの新しい付き合い方(楽しみ方)を捉える期間だと私は勝手に考えている。おそらくフェーズ4の終わりから5にかけて、つまり2023年〜25年あたりにかけて、次なるサーガの全貌が少しずつ見えてくることになるだろう。そういった示唆も既に製作者サイドからちらほら聞こえてくる。しかし、ただ私はそれを悠長に待っているわけにはいかない。この、あらゆるものが練り上がっていく一大スペクタクルと次なるスペクタクルへの準備というテンションの落差を、快楽性の落差を、受け身ではなく前のめりに乗りこなしたいし、そのことについて考えるきっかけにしたいのだ。
MCUへの思い入れから少々熱く語ってしまったが、要するにクロスオーヴァーやマルチバースといった劇薬は「サプライズこそおもしろい」という錯覚を観客に植え付け、そして更なるサプライズを要求させてしまう側面がある。そして現に、MCUの一部のファンはサプライズ・ジャンキー的になってしまっている。

乃木坂46とサプライズ性



このサプライズ・ジャンキー性というキーワードで思い出すのが『MoM』と時をほぼ同じくして開催された乃木坂46の『10th YEAR BIRTHDAY LIVE(以下、10th)』だ。毎年、乃木坂46の結成日前後に開催される恒例のライブが、今年は5月14,15日の二日間で日産スタジアムにて開催された。今年は10周年ということもあって、グループ史上最大規模の会場での開催となった。
私は友人と二日目の5月15日公演に現地で参加した。2016年以降の曲が披露された二日目は、私がグループを見始めた時期とも近く、思い入れのある曲が順に披露された。バースデーライブといえば全曲披露というのが恒例になっているようだが、さすがの10年、29枚のシングルと4枚のアルバムをリリースしていると全曲披露はなかなか難しいのか、今回は特にシングル表題曲をメインに披露する形となった。そういう意味では、意外性やこのライブだからこそといった劇的なセットリストが組まれることはなく、非常に脱色されたベストアルバム的な年表的な様相をしたセットリストとなった。
私自身は乃木坂46を一つの大きな流れとして捉えており、どのように変化してゆくのかを楽しんでいる側面があったので、ここ2年ほどの過剰なまでの懐古主義に少し、いやかなりお腹いっぱいになっていた。いまの乃木坂46のおもしろさは『乃木坂どこへ』から『ノギザカスキッツ』そして『乃木坂スター誕生!』までの3年間で個人としての魅力とチームとしてのおもしろさを同時に織り成してきた4期生が、いかに「乃木坂46」に回収されずに4期生でいることができるか、というところだ。そして「あの頃のようなおもしろさ」ではなく「いまおもしろい」を彼女たちは実現している。また、ここ1、2年で急速にラジオのレギュラー番組が増えていることも新たなおもしろさを生んでいる。それぞれの個の領域で萌芽したミームが、全体へと波及し、そしてまた個へと戻ってくる面白さがある。これは、teamlab の「Tea Time in the Soy Sauce Storehouse」的な、動的平衡が固体と全体の二項対立を解体したのと類似するプロセスがラジオによってうまく表出しているとも言える。こういった側面で見ていたからこそ、ライブ当日、「今日のライブが、懐古主義的エモいでしょ演出」だったら嫌だなぁと思っていた。そして、実際のライブは懐古主義的なそれではなかった。

→『Tea Time in the Soy Sauce Storehouse』について書いています。


このライブで大きく話題となったのは卒業生の出演だろう。両日合わせて5名以上の卒業生が出演した。エースと呼ばれたその人たちがサプライズ出演した瞬間の盛り上がりをこの身で体感した。そして、次は誰がくるかな?あの人も来るかな?といった期待感がライブ中盤以降、会場全体に満ち満ちていた。
「あ、この感覚知ってる」と私は思った。そう、散々ここまで書いてきた、MCUのサプライズ演出だ。MCUでそれなりにサプライズとどう向き合うかを考えてきたつもりの私は、サプライズ・ジャンキー的になってしまったらおしまいだし、ましてやサプライズがハイライトになってしまった日には、もうこのライブは失敗だと思った。だが、このライブで(卒業生のサプライズ登場はしっかり盛り上がったものの)最も盛り上がったのは『Actually…』だった。センターに選出された直後のメンバーが活動自粛に入り、変則的な編成で披露され続けてきた本曲。数ヶ月振りとなる完全体での披露のエネルギーとトランス感はいま思い出しても鳥肌が立つ。活動自粛明けのメンバー本人を含むグループ全体としての、有無を言わせぬ矜持が身体中を駆け抜ける。どことなくMitskiを思い出させるダークで身体の内側から湧き上がってくるようなエネルギーに満ちた曲を、今でも鮮明に思い出せる。いや、もはや湧き上がってくる。


他にも2021年にリリースされた『ごめんねFingers crossed』や『君に叱られた』ではもう、すべてがどうでも良くなるくらいにフロアを沸かせていたし、2022年に加入したばかりの5期生によって披露された5期生楽曲『絶望の一秒前』では、確実にその日一番の夜風が横浜の地を吹き抜けた。

パチンコのごとく興奮に興奮を重ねる演出だった『10th』のハイライトは、明らかに、『Actually…』であり、『ごめんねFingers crossed』であり、『君に叱られた』であり、『絶望の一秒前』であった。ずっと以前の曲が、ましてやサプライズがこのライブの白眉だったのではなく、いまの乃木坂46によって作られてきた形が、そしてこれからの乃木坂46が作っていく形が、記憶の中でも燦然と輝いたライブには、(細かく指摘すればいくらでもできるだろうけど、総じて)懐古主義的エモさの押し付けの後味は一切なかった。

瞬間的な快楽


奇しくもほぼ同時期に体験した『MoM』と『10th』。その両者に共通するキーワード「サプライズ」について、ここからもう少し考えてみたい。

この両者に共通するのは、歴史を積み上げてきたからこそできるサプライズ演出であるということだ。MCUシリーズの集大成である『アベンジャーズ/エンドゲーム(EG)』も『10th』も10年という歴史の蓄積が、そのキャラクターに多くの意味と感慨を持たせていた。しかし、そういった情に訴える形の歴史性はライブや映画全体に対してスパイスでしかない。メインではないのだ。『EG』と『10th』でそれらはスパイスとして機能していた。

サプライズは往々にしてインフレが起こる。『NWH』でメタ的にも物語としても特大のサプライズを用意し、それを見てしまった私は『MoM』のサプライズをどう捉えたか。マルチバースの演出として、多くの別世界のキャラクターが登場した今作、スクリーンに映った姿を見て私は、何も思わなかった。(キャラクターへの思い入れが十分に影響するので極めて個人的な感想であることは重々承知している。)
そしてこう思った。

マルチバースはもはやサプライズとして機能しない

サプライズキャラが出てきても何も思わないし、それをかなり呆気なく退場させてしまう様に驚いた。しかし、暴力的なまでの制作者の思い入れのなさ(?)は自覚的であっただろう。そして、そこまでのメッセージは込めていないかもしれないけれど、「マルチバースはもはやサプライズとして機能しないし、一種のファンサービス」であることをMCUは『MoM』を通じて観客に伝えているのではないかとさえ思えてくる。

こうして、サプライズという劇薬的な演出とどう向き合うべきなのかという問題が提起された。このような問題はこれまでもずっとあらゆるところで表出していたのだろうけど、こうしてMCUと乃木坂46という(どちらかといえば)メインストリームで表出したことに意味があるように思う。

サプライズは劇薬。これは重要なキーワードではないか。
予期せぬタイミングで予期せぬことが起こって、そして興奮する。
瞬間的に。とても瞬間的に。
サプライズはいわば、瞬間的な快楽である。
そしてこの、「瞬間的な快楽」というキーワードはサプライズだけでなくショートムービーや倍速視聴などといったファスト教養やコミュニケーション消費という問題と絡み、そして、その根幹は「暇と退屈」と「自分自身に向き合うこと」というキーワードへとつながるはずだ。

興奮・快楽は加速度?


以前、散歩することで孤独な夜を乗り越える可能性を見出した私は、興奮の後に大きな揺り戻しとして鬱的な落ち込みがあることを書いた。
当時は、興奮度合いに鬱も比例するのではないかと考えていた。高く高く興奮するほど、低く低く落ちていく。
しかし、実際にはそうではない。高く興奮するほど、その快楽性は強まるのでちょっとした下降が鬱を引き起こす。つまり、興奮の度合いの差が鬱状態の大きさに関与しているということだ。
では、果たして、興奮の快楽性はその絶対値の大きさなのだろうか。興奮と鬱の振れ幅に関与しているのは絶対値の差なのだろうか。そうであれば、興奮した際には必ず鬱という揺り戻しがあることになる。しかし、いくら揺り戻しが多い私でも、興奮するたびに鬱になっているわけではない。

興奮、快楽にはおそらく2種類存在する。上昇的な快楽と充足的な快楽だ。前者は身体的な興奮が主で、後者はそのものがただあるだけで身体的な快楽というより心が満たされる。私はサプライズやショートムービー、ギャンブルは前者に当たり、ラジオやPodcastなどの音声コンテンツ、演劇、お笑いライブなどが後者に当たると考える(もちろんそれぞれの中に例外は存在するので必ず二分されるわけではない)。

充足的快楽と上昇的快楽の違いを決定づけるのは興奮=快楽の絶対値ではない。同じ高さであっても、充足にも上昇にもなり得るからだ。では、両者の違いを決定づけるのは何か。興奮の加速度である。どれくらいの加速度で興奮するかによって充足か上昇かが決まる(もちろんこれはグラデーションである)。そして、興奮への揺り戻しとして鬱を引き起こしがちなのは、上昇的な快楽である。そうすると、大きな加速度で興奮するほどに大きな加速度で鬱になる。

このことから、この充足的興奮や上昇的興奮とその揺り戻しによる鬱は、上に凸の二次関数の開き具合でイメージできるようになる。
インスタントに、瞬間的に興奮できてしまうものが世の中に溢れているいま、私の二次関数の開き方は極めて小さくなり、大きな負の加速度を打ち消すためにまた、大きな加速度として強く瞬間的な快楽を求めようとする。周期の短いサインカーブのように興奮と鬱を繰り返しているのだ。私はこのことに自覚的にならなければならない。


『MoM』と『10th』によって問題提起されたサプライズとの向き合い方は、実は自分がかなり瞬間的な興奮によって日々ドーピングを繰り返していることを教えてくれた。


では、負の加速度を打ち消すためにドーピングするという終わりのないサイクルからどのように抜け出すか。完全に抜け出す必要はないにしてもどのように距離を取ることができるのかを次回以降考えてゆく。
先ほど「インスタントに、瞬間的に興奮できてしまうものが世の中に溢れているいま」と書いたが、この問題の根本はおそらく環境ではない。
自分の内面の何かが私を興奮へとむけている。
そこで次回は、いったい何が私を興奮へとむけているのかを探る。

(おわり)
※本稿は2022年6月29日に書いた文章を加筆編集したものです

最後まで読んでいただきありがとうございます。ウェブ版『あの日の交差点』、Podcast『あの日の交差点』も覗いてみてください。


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