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「目的なき手段」あるいは、「わたくし、つまり Nobody」

※この記事は、僕が運営しているウェブサイト、『あの日の交差点』に掲載しているものです。ウェブサイトの方では、参考資料もたくさん掲載しています。

春休みの一日

それは突然やってくる。
日中は晴れていると基本的に機嫌が良い。今日も外に出て、公園を転々と散歩しながら本でも読もう、とカーテンを開け、可能性で広がった世界に気持ちが浮き足立つ。この春休みになってから、よく歩いたり走ったりするようになったおかげで、この街のことが段々と好きになってきた。
例えば、こんな春休みの一日を送った。
春めいてきた陽気と心地よい風に揺られながら、もはや同時代史を描くことができなくなる最後の同時代史?としての与那覇潤『平成史—昨日の世界のすべて』(2021)をめくる。


政治、経済、思想、カルチャーなどを総括してゆく『平成史』は、おもしろすぎて1日で読んでしまった。断片的に知っている私淑するあの人や、よく聞くあの人(こと)が次々に登場し、文脈の中に当てはめられてゆき、徹底的に相対化される。
「ここ最近の関心ごとの怒涛の伏線回収」の爽快感は、ちょうど今年の1月1日に読んだ 竹田青嗣『現代思想の冒険』(1987)以来だ。


その冷徹な相対化の様に、並行して読んでいる中沢新一『カイエ・ソバージュ Ⅰ〜Ⅴ』(2002〜2004)も多くの示唆を与えてくれるが、あまり、手放しに引き受けてはいけないのだなとも痛感させられた。他にも、中動態と西田幾多郎に安易に接続を見るのは、まさに國分功一郎が避けたところ?で、少し冷静に見なきゃいけないんだなと。


その冷徹な相対化の様に、並行して読んでいる中沢新一『カイエ・ソバージュ Ⅰ〜Ⅴ』(2002〜2004)も多くの示唆を与えてくれるが、あまり、手放しに引き受けてはいけないのだなとも痛感させられた。他にも、中動態と西田幾多郎に安易に接続を見るのは、まさに國分功一郎が避けたところ?で、少し冷静に見なきゃいけないんだなと。


そして歩きながら次のようなことを考えてメモしていた。
「NHKでマルクス・ガブリエルのドキュメンタリーやっていたなと思って見てみたら、彼の提唱する新実在論は動的平衡としての生命≒西田幾多郎の生命論≒他力に通底するものを感じ、それは宮台真司の「少年漫画より少女漫画の方が偉い」(すべては「この俺自身が望み、選んだ」という理由によってこそ、実現しなくてはならない という近代的な「自立する強い主体」への固執=マチズモ、の超克?)的なものとも接続するようで、いろいろとクリアに見えて可能性を感じる。複雑なものを複雑なまま理解するという新実在論で、かえって世界がクリアに見えるという逆説。しかし、結局、自明なことを言ってるんじゃないの?と思ってしまうので、なにがどうプラクティカルな言説なのか、そのうちちゃんと新実在論を勉強したい。(とても難しそう…)
その上で自明だと感じるなら、そう感じる自分のバックグラウンドを掘らないといけない...」

いろいろなことを見たり読んだり聞いたり、、、関心のあることにアクセル全開で突っ走る一日だ。


可能性と向き合う


しかし、それは突然やってくる。

つらい。とにかくつらい。
生きているのはつらい。
夜になると実態のない”つらさ”に襲われる。
絶望感に包まれる。

何への絶望?
世界への、である。
未来への、である。
それはすなわち、可能性への、絶望である。

日中に、もうこれ以上幸せなことなどないのかもしれないという幸せに触れてしまうからこそ、この先、「これを超える幸せ」にはもう出会えないのではないか、そう思うのだ。
世界の天井に触れてしまったような感じ。
もっと、ずっと遠くにあると思っていた天井が、思っているより随分と手前にあった。天井は透明で、その先だけがイデアとして見えていたのか、はたまた、天井は鏡で、そこに映った”今まで過ごしてきた世界”に憧憬を抱いていたのか。

そして、単純な疑問が生まれる。
幸せの天井に触れたらそれは幸せなのではないか?なぜ、幸せの天井に触れた時、絶望するんだ?幸せの天井に触れた時、絶望するのだとしたら、常に可能性が広がっている時の方が幸せということになるではないか。そしてそれは、決して天井に、ゴールに行きつかない方が幸せという逆説を招いてしまうではないか…!パワーの胸を揉んで絶望するデンジそのものではないか…!!と頭を抱えてしまった。もしかしたら、天井なんて、上下なんてないのかもしれない という萌芽だけを残して。


何をしても楽しくない。何をしても満たされない。読みたいものも、見たいことも、山ほどあるのに、求めているのはそれらではない。しかし、求めている何かがあるわけではない。ああ、この世界に自分の求めているものなど何一つないのだ、という寂しさ。決して中心にはたどり着けないトーラス構造のように、対象aの周りを欲望だけが円環する。(斎藤環『生き延びるためのラカン 第10回 対象aを捕まえろ!』)

これじゃ1月24日に後戻りではないか。


おそらく、僕は興奮しすぎるのだ。
特に、読書という知的興奮は悪魔的である。僕にとっての読書の興奮は、そういう精神(ロゴス)と言葉(ロゴス)の一致という高尚なものだけでなく、「わからなかったことがわかるかもしれない可能性」への興奮というのが大いにある。
そう、僕はおそらく、「可能性」に興奮しすぎるのだ。

「わからないものがわかるかのしれない可能性」
「何か楽しいことがあるかもしれないという可能性」

それは、自我を離れた精神が興奮しているような感覚。
自我と自我を離れた精神の興奮が一致している時、自分でも驚くほどの力で没頭することができる。それは、何にも変え難い、超越へと触れるような感覚で、これを超える興奮は(たとえドラッグを使っても)得られないだろうという確信がある。
しかし、自我と自我を離れた精神の興奮にズレが生じた時、自我を離れた精神は身体のみの興奮へとすり替わり、自我は何も求めていないのに身体は何かを求めるという、欲望ゾンビへと化す。

欲望ゾンビになると、出口はない。なぜならば、何かを求めているのは身体だけで、自我、そして精神ではないからだ。これは原理的に、目的地がないために目的にたどり着けないゲームなのだ。だから、僕は1月24日の夜に、欲望ゾンビと化し世界へ絶望したのだ。そしてやはり、それは無邪気な絶望であった。

なぜ、無邪気なのか?
それは、「可能性」という落とし穴にはまっていたからである。
「可能性」は可能性であるとき、もっともおいしい。しかし、可能性を飛び越えて、その内実(可能性の出どころと言ったら良いのだろうか)を掴もうとした時、可能性は絶望へと変容する。原理的にその内実は掴むことができないからだ。
見えている(気がする)のに掴むことができないから、思ったより早く天井に達するのだ。可能性を掴もうとする時、その瞬間、その地点が天井になるのかもしれない。可能性は可能性である時は青天井なのだが、一度つかもうとすると今=天井にすり替わるのだ。これは、可能性に対して受動的である時それは可能性であり、可能性に対して能動的になった時それは空虚になると換言できるのかもしれない。

では、私たちは内実には決して触れられない空虚な存在なのだろうか。
可能性を可能性として生き続けなければならない空虚な存在なのだろうか。

私はそうは思わない。
ひとまず、可能性と欲望ゾンビの関係から次のことがわかった。
・「可能性」は可能性である時、もっともおいしい。
・青天井としての可能性はその内実を掴もうとした途端に天井へと、私は欲望ゾンビへと化す。

であるならば、「可能性」のもっともおいしいところだけ味わって、内実を求めようとした時に、内実を求めない方向に向かえば良いのだ。

内実を求めない方向とは何か。もう少し考えてみる。


目的なき手段


1月24日の例をとってみても、私は可能性の内実を求めた時、決まって散歩に出かける。
この、無意識な性質にはきっとヒントがあるのだ。
先日、日中はいろんなことを楽しんだのちに、夜に欲望ゾンビと化して鬱状態になり、またしても散歩していた時のことである。2時間ほど歩いたり座ったりしながら、この、「何かを求めているけれど決して掴めない空虚さ」について思いを巡らせていた。


Photo by まひる



人も少なくなった芝生に座って、この街の象徴に見下ろされていた時のことである。
楽しい時、つまり、可能性が可能性である時、その楽しさはどういうものだろうかと考えていた。
それは、自分にとって、身体が爆発するくらいに楽しい。いや、爆発するというより身体がなくなるということに近いかもしれない。いや、さらに、なくなるのは身体だけではなく、自分そのものがなくなっているのかもしれない。それが、自我と自我を離れた精神の興奮が一致している感覚であり、私=世界になっている感覚なのかもしれない。悦楽。

そして、その興奮状態(正の無限大)について考えていると、不思議と絶望(負の無限大)の淵から帰ってきている感覚があった。
どこに?
言葉で表すのが難しいけど、地平というか、ゼロポイントというか、そういう場所に。

そしてこう思った。
「もしかしたら、最も満たされている時、最も満たされていなくて、最も満たされていない時、最も満たされているのかもしれない」

「最も満たされている時」という正の無限大にいる時、「最も満たされていない」という負の無限大に触れる。まさに今だ。
でも、こう考えた。今まさに、「最も満たされていない」という負の無限大に触れているなら、「最も満たされている」という正の無限大にも触れているのではないか?
そうして、いま、芝生に座っている自分を顧みる。いま、この瞬間、あれだけ荒んでいた心が平穏になっていて、何かを求めていたはずの心は、もう何も求めていなかった。

そこには何もなかったのだけれど、全てがあったのだ。
全てがあるけれど、何もないのだ。

何かを求めていれば何もないし、何も求めなければ全てがあるのだ。
そして、これは、「何も求めないことで全てを手に入れること」=幸せであることを意味しないし、「何もないということは全てがあるということだよ」という綺麗事を言っているのでもない。そんなもの、他人から言われるものではない。自ら発見した時に初めて出会えるものなのだから。
これが示すのはおそらく「全てがあるところには何もなくて、何もないところには全てがある。」この両方が同時に存在している時に、幸せというのは生まれるということなのではないだろうか。
もう少し、表現を変えると「求めるものは全てあるが、しかしやはり、そのどれも求めない時」幸せというのが発生するのではないだろうか。
つまり、「求めている」と「求めていない」が同時に共存している時、そこにはしあわせがあるのだ。

全てがある感覚はどこにでも行ける感覚に近い。どこにでも行ける!と思うと幸せになる。
しかし、これは往々にして次のように揶揄される。
「どこにでも行けるというのは、どこにも行けないということなんだよ」
それは、「何にでもなれるというのは何にもなれないということだよ」「なんでもできるというのはなにもできないということだよ」よろしく。

しかし、この揶揄はどうもこの感覚を知らない人が言う的外れなものに思えて仕方がない。
僕が思うに、「どこにでも行ける」というのは、「どこにも行かなくて良い」ということなのだ。「なんでもできる」というのは「なにもしなくて良い」ということなんだ。

「どこにでも行けるというのは、どこにも行けないということなんだよ」というのは、「どこにでも行ける」という可能性の内実を掴もうとしているから、「どこにも行けない」のだ。
一方、「どこにでも行けるというのはどこにも行かなくて良いということだ」というのは、「どこにでも行ける」という可能性を可能性としておいたまま求めないので、「どこにも行かないでも良い」のだ。
つまり、可能性があって、可能性を求めても求めなくても良い時に、幸せというのがあるのではないだろうか。
これが、求めることで世界に無邪気に絶望して失敗した1月24日と、求めることと求めないことが同時に存在することで幸せに触れた先日との、決定的な違いだ。

もう一度整理すると、次の2つの幸せがあると思う。
・可能性が可能性としてある時の青天井=正の無限大に触れる幸せ
・可能性がありつつ可能性を求めなくて良いという、微正を漂う幸せ。まるで凪のように。

後者の方はまだうまく言葉にできない。なんとなく、可能性と不可能性の共存ではなく「可能性がありつつ可能性を求めないでも良い」という方がしっくりくるし、ゼロではなく微かに正な気がする。これに相当する言葉はこれから探してゆくとして、この話の出立点に戻ると、次のようであった。

まず、可能性と欲望ゾンビの関係から次のことがわかった。
・「可能性」は可能性である時、もっともおいしい。
・青天井としての可能性はその内実を掴もうとした途端に天井と化し、私は欲望ゾンビと化す。
であるならば、「可能性」のもっともおいしいところだけ味わって、内実を求めようとした時に、内実を求めない方向に向かえば良い。そして、内実を求めない方向とは何か考えてみた。

そして、この内実を求めない方向というのが、「可能性がありつつ可能性を求めなくて良いという、微正を漂う幸せ」であった。
この状態にはどうやって至ったのか?
何も求めずに、「ただ、歩く」「ただ、座る」「ただ、眺める」という行為によってだった。

つまり、可能性の内実を求めない方向=「目的なき手段」だったのだ。

これによって、過剰に興奮してしまう自分に対して、次のように対処すれば良いということがわかってきた。

・精神と自我の興奮が一致している時=可能性が可能性としてある時の青天井=正の無限大に触れる幸せ の時はそれに身を任せて、
・精神と自我の興奮が一致しない時=欲望ゾンビと化す時、目的なき手段によって、可能性がありつつ可能性を求めなくて良いという、微正を漂う幸せ に至る

この、「全てがあって何もない、何もないが全てがある」状態に至った時、私=世界のように感じる。世界が私になるというより、私が世界になるという感覚に近い。いや、むしろ、そこには私というものはなくて、ただ世界があると言った方が正確かもしれない。
これは、私と世界が対称的な関係になっているということではないだろうか。そして、この感覚こそ、中沢新一が言う、対象性に触れることで得られる悦楽であり、西田幾多郎が言う純粋経験なのではないだろうか。そしてこれは、感動への没入で世界に触れることで広げることのできない意識の壁に直面するというシュタイナー教育のいう実存の問題にも通ずるような気がする。


世界に可能性がないという絶望を抱いた時に、歩きに出かけようとするのは自分の無意識であり、おそらく自分の性質なのだ。そういう、無意識に触れる瞬間だから、目的なき手段として歩くことで救われるのだ。
絵を描いたり、物を作ったり、ゲームをすることが目的なき手段になり得る人たちは、家でできる。だけど、自分の場合はそれらはどうも目的化してしまうので、外に出て歩きたくなる。性質的にクリエイターではないのかもなぁと引け目に感じていたけれど、性質的に「歩く」からこそ見えてくるものにじっくりと目を向けてみたい。


身体性と「〇〇しない自由」


この「目的なき手段」というのには、別の角度からも至った。「ただ、走る」ことを通して。

コロナ禍によって他者がいなくなったことで、圧倒的に自己が強化された。一方で、他者に相対化されることで自己は生まれるので、同時に自己は希薄化していった。この矛盾の中で、今まさにそのバランスを取ることができなくなりつつある。具体的には、自我は圧倒的に強化されたのだけど、身体としての自分がもはや存在していないかのように感じるということだ。だから、今年の頭はずっと、「今年のテーマは『身体性を取り戻す』だ!」と言っていた。自我(いや、精神?)と身体は重要な対称関係にあるように思う。そう思うと、きっと『ドライブ・マイ・カー』もかなりのところまで行った自我(精神?)に対して、制約としての身体をどう捉えるかという試みだったのかもしれない。

現在の非対称な状況をどうにかしたいと思い、ヨガとランニングを始めた。思ったより私たちは呼吸でつながっていたのだと思い知らされたのがこの数年で、この際だから呼吸について捉え直すためにヨガを、この足ですぐそばの美しい世界の果てに触れるためにランニングを、始めた。
特にランニングは、歩くよりも高低差をはっきりと感じるし、自転車よりも街の解像度が高い。そして、体力や体づくりのためではなく「ただ、走る」ことを目的とすることで、それらを楽しむ余裕、すなわち日常の幸せは格段に増した。

対称性社会の産物の神話から非対称的な現代まで、人間の思索を踏破する中沢新一さんの連続講義『カイエ・ソバージュ』を踏まえると、年初めに衝動的に欲望した身体性回帰は、自我(精神?)と身体の対称性を取り戻そうとする引き込み現象の現れだったのかもしない。

そして、この「目的なき手段」というのは、「〇〇しない自由」に接近しているような気がする。
今まで、自分が自由を語るとき、どうしても「〇〇する自由」ばかり考えていた。だから、目的が必要だった。「〇〇のために、〇〇する」といったように。しかし、「〇〇しない自由」という言葉を見かけたとき(「モノノメ #02」坂本崇博「「水曜日ははたらかない」ための働き方改革」)、「〇〇する自由」と「〇〇しない自由」には言葉以上の差異を感じた。
ドミノに例えると、「〇〇する自由」はドミノの中から一個抜き取る感覚で、「〇〇しない自由」はドミノを倒す感覚に近い。
「〇〇する自由」ばかりを考えていた自分は、選ばなかった可能性をどう受け止めたら良いかがわからなくなって、どのように乗り越えたら良いか途方に暮れていた。

しかし、それは、「〇〇しない自由」によって、可能性をすてることを肯定することで、乗り越えることができたのだ。そして、これは、60年代にとっくに敗北した「自立する強い主体としての無自覚なマチズモ」が私の中で敗北した瞬間でもあった。(与那覇潤『平成史—昨日の世界のすべて』(2021)

さらに、前述の芝生に座っていた時のことである。
芝生はほぼ長方形で、いくつかベンチが添えられているだけで、どのように使うか、利用者に余白がかなり与えられていた。その中に日当たりやベンチの有無、他者との距離感でそれぞれ重い思いのところになんとなく座る。決断というのは、こういう「ちょっとした枠組み」と「なんとなく」で決まるもので良いのかもしれないと思った。
すごく居心地が良いと思う一方で、この余白すら設計者の意図通りなのだ、とも思う。まず、長方形というざっくりとした境界を与えることでその中でどう振る舞うか、という思考を与える。そして、天然芝にすることでその場に親近感を持ってもらい、座ったり寝たりできるようにする。ベンチを添えることで、芝に座ることに抵抗がある人もその場に滞在することができるし、空間にちょっとした動きが生まれる。そこに人がいると、自分も座ってみようと思える。なんなら、日陰や日光の入り方まで計算されているのではないか。そう思い始めた。居心地が良いと思っているのは、設計者の意図通りに「居心地良くさせられている」のではないか。そう思うと、つらくなってきた。
同時に、居心地が良いという事実は変わらない。であるならば、設計者の意図通りであったとしても、このように振る舞うことができて、その上で居心地が良いと思える空間を作ってくれてありがとうという気持ちが芽生えた。
初めての感覚だった。

そうか、すべては「この俺自身が望み、選んだ」という理由によってこそ、実現しなくてはならないという近代的な「自立する強い主体」への固執は感謝によっても超克できるのか。
そう思った瞬間だった。
自立する強い主体への固執から解放されることは、そのまま決断主義の諦念を乗り越えることにもなった。諦念を抱くのは自立する強い主体に固執していたから。

質量のある余白


ここで「余白」というキーワードが出てきたので、最近、余白について考えていたことをちょっと書いておく。これはまだ言葉にできない萌芽にすぎないが、最近は、余白に質量を感じるのが好きで、好きな余白は質量のある余白だと思うようになってきた。
星野源の「喜劇」が良かったので、「折り合い」「不思議」「喜劇」っていう、コロナ禍以降というか、「POP VIRUS」以降のラインが何かあるなーと、それが大好きだなーって思っていた。


「折り合い」で星野源がシンセを使うようになって、「不思議」はその結実だ!みたいな話や記事を読んだなぁと思って、振り返っていた。

星野源は全然詳しくないし、まだ曲もあんまり聴けていないんですけど、すっごく興味がある。
星野源自体は、ラジオで流れてくる曲は聴いている程度で、出てきたところからブレイクしていく過程まで一応見ていたが、ちゃんと好きになったというか、聴くようになったのは「POP VIRUS」以降だ。だから、「折り合い」「不思議」「喜劇」というラインが特別に見えてるのだが、その前から繋がってるものがきっとあるはずだなぁと。
というわけで、いろいろ星野源について調べながら、いろんな彼の曲を聴いていたのだが、その中で、タマフルという番組で、星野源が「YELLOW DANCER」の解説をしているのを見つけた。



その解説を読みながらアルバム聴いてたらなんだか涙が出そうになってしまった。
全く、泣ける話というか、良い話はしてないんだけど、なんなんだろう。こういうコミュニケーションがあるのか、というか、ものを作ってそれを受け取るコミュニケーションの根源的なものに触れた感じがするというか。難しいことばかり考えたり、殺伐とした世界に見えてしまうこともある中で、何か世界へ自由を手に入れた瞬間みたいなのがここにはあるなぁと。

そして、中学時代のことを思い出した。
中学の頃は、友達(2,3人くらい)と毎日夜9時からのFMラジオを聴いて、翌日学校でその話をするみたいな生活をしていた。たまに、メール読まれたりしながら。
校外学習か何かに行く、バスの中で歌詞から曲名を当てるというクイズをしていたら、友人が「さよなら 目が覚めたら 君を連れて 未来を今 踊る」という歌詞を出題して、みんな「聴いたけどあるけどなんだっけ!」みたいに盛り上がった。そしたら、担任の先生が「Week End」!って答えて、みんな「あ〜!」みたいな。そんなこともあったなと思い出した。


その先生は、通勤時にラジオを聴いていたらしい。僕も毎朝その番組にメール送ってしょっちゅう読んでもらっていた。先生にもラジオネーム教えていたので、「今日、読まれてたね」みたいな会話があったり。それは、卒業の日まで続いて、「今日、卒業式です。」みたいなメールを送って、読んでもらったか聴く前に僕は家を出たのだが、学校に着いたら先生に「今日も読まれてたね」って言われて。それ以上は何もないのだけれど、妙に覚えている。

そういう、音楽やラジオを共有したり、ラジオを媒介したコミュニケーションみたいなのあったなと、そしてその共通言語に星野源っていたなと思い出した。
星野源の曲は、なんなんだろう。すぐ隣にいるような親近感と絶対に近づけない距離感が同時にある感じというか。その矛盾が存在を肯定してくれるように感じるのが不思議だ。

「YELLOW DANCER」の解説でひたすら星野源の曲はスケベと言っているが、なんというか官能的というか、エロス的なものがあって、このエロスはスケベという意味だけではなくて、もっと、「タナトスとエロス」のエロスなんだと思う。生きてる感じというか、それは同時に死を感じることでもあるんですけど・他にも愛のようなものを感じます。恋愛だけではない愛。総じて、エロス。

丸さ(空間)と質量があるように感じる。星野源の曲には。それを、ずんと身体で感じるというか、むしろ包まれて浮遊するというか、それも矛盾だ。重力と無重力を同時に感じる、みたいな。特に、ドラムとベースに感じるのかもしれない。

そして、今年になって、今までは聴いてこなかったジャンルの音楽や海外の音楽をたくさん聴くようになって、聞ける音楽の幅、楽しめる音楽の幅がすごく広がってきている。それを踏まえて、星野源の曲を聴いていたら、「こんなに良い曲作ってたのか!!!」みたいな感じで感動してしまった。使う楽器で新たな地平を切り拓いてる感じはありつつ、作ってきた音楽というかいわゆるスケベなグルーヴはずっともっと前からあったんだっていう。「湯気」とか、「Snow Men」とか、「Nothing」とか、たくさん。と言うか、全部そうなのでは!?

「POP VIRUS」以降にリリースされたもので言うと、「折り合い」「不思議」「喜劇」ラインだけでなく、「Same Thing」のEPとか、「創造」「Cube」などあったが、多分僕は余白がある方が好きなのだ。だから「創造」「Cube」より「折り合い」「不思議」「喜劇」の方が好き。とにかく情報の量で圧倒される気持ちよさもわかるけれど、言葉ではまだ表せないのだが、余白には「余白」という質量のある情報があって、それがとても好きだ。これはきっと、『街の上で』のイハの家での、イハと青の定点長回しのシーンが好きなのときっと同じなのだ。余白は何もないのではなくて、むしろ時間と空間を超越する何か(質量?)を感じる瞬間がある。これも矛盾。多分、そういう矛盾が同時にあるものがすごく好きなんだと思う。

だとしたら、愛もそんなものなのかなぁと思ったり。
全てを分かり合えるけれど、何もわからないみたいな、一緒にいるだけで満たされるけど、それは決して満たされないことを知ることにもなる、みたいな。それを実感することができる時、そこに愛というのがあるというか、それを実感してもなお一緒にいたいと思えるときに愛があるというか。

(恋愛に限らず)運命の人ってよく言うけれど、僕の中では、運命の人には求めてしまう気がする。なんというか、求める求められるの関係が強くあるというか。求める求められるの関係だと、「一緒にいるだけで満たされるけど、それは決して満たされないことでもある」ことに耐えられないんじゃないかと思ったりする。

そういう意味でも「絶対にこの人だ!運命の人だ!」という人より、「もしかしたら、いわゆる”運命の人”ではないけど、求める求められるみたいな関係の外側からやってきた人との間に最も愛は生まれるのかも」って思ったりもする。
しかし、友人にしても恋人にしても、きっと自分にとって”特別な人”たらしめているのは、結局は「僕は僕の大事な部分を誰かに託したいだけなんだ」という「素敵だけど 残酷」な、自分のエゴにすぎないのではないか。


しかし、その「残酷」なエゴという絶対に越えられない絶望的な距離があってもなお、「託したい」と思えるからこそ、それは「素敵」なんだと思う。

そういう絶対に越えられないあなたと私の距離はきっと、感謝、ないし、想像力で乗り越えていくのだ。『ドライブ・マイ・カー』も「決して埋められない絶対的な距離感を想像力で越えていく」という話だったなぁとハッとした。

悩んでいることを相談して、的外れなことを言われたなと思う時でも、きっと言葉は違ったかもしれないけど、相手も「期待はずれの言葉を言う時に 心の中ではガンバレって言って」(THE BLUE HEARTS『人にやさしく』)くれているのだと想像できれば、きっともっと、相手の優しさに触れることができる。

自分が孤独になって夜を徘徊して、世界に絶望した時、この寂しさを「きっと君も持っている」と思えれば、きっと世界に対して優しくなれる。目の前の人が、何かを抱えていたり、悲しんでいたとして、それを自分がどうにかすることはできないけど、想像することはできる。あなたも私ももっているその寂しさを、決して共有することはできないけど、お互いに同じものを、「きっと君も持っている」という想像力によって、きっと越えてゆけるのだ。


まぶた閉じてから寝るまでの
分けられない一人だけの時間で
必ず向き合う寂しさを
きっと君も持っている

秘密のなため息は 夕日に預けて
沈めて隠してたこと
どうしてわかるの 同じだったから

BUMP OF CHICKEN『Small world』


「よき消費者になる」ことで「わたくし、つまりNobody」へ


ちょっと脱線したが、話を戻す。2021年から今まで、自由意志で「選ぶ」ことと、何かから「選ばされる」ことの間でどうしたら良いかずっと考えてきたが、その間とはひょっとしたら、「〇〇しない自由」と他者への感謝(想像力)なのかもしれない。
2021年から今まで、自由意志で「選ぶ」ことと、何かから「選ばされる」ことの間でどうしたら良いかずっと考えてきたということは、「自立する強い主体」へ固執しながら、その限界にも気がついていたということでもある。
順序的には、まず、私は「自立する強い主体」へ固執しており、次第に、その限界に気がついていった。

この、「自立する強い主体」というのは、先にもあるとおり、「〇〇する自由」と密接に関係している。そして、「〇〇する自由」は「あったかもしれない可能性」を全てそのままにしているのだ。当然、「あったかもしれない可能性」を全て受け止めるのはつらい。そして、このつらさは、昨今の自己責任論と密接に関係しているように思える。

自己責任論と新自由主義が密接に関係していることは自明だが ——ここは、自己責任論はきついから新自由主義はダメという短絡に至らないように慎重に行きたい。それは、「事実」→「当為」の問題を産んでしまうからだ。(「モノノメ #02」苫野一徳「社会構想のための哲学的思考」)——新自由主義には根本に「生産する」という考え方があるような気がして、そしてこれが、あらゆるつらさを産んでいる気がする。
いや、「生産する」のがつらいのではなく、「生産する」”しかない”のがつらいと言った方が良いかもしれない。

「よき人間になる」を考える上で、「よき消費者になる」が大事だと思うんですよね。今はあらゆる場所で「よき生産者」になることが推奨される。

臨床心理学者の東畑開人さんの言葉だ。(「tattva vol.5」東畑開人『人生の学びは「聞いてもらう技術」からはじまる』)


「よき生産者になる」ことばかりが推奨されることで、周りの人がライバルになってしまい、そしてそれは、相手に対し恐れを感じ、聞く耳を持たなくなってしまう。そして、その結果、私たちは対話できなくなっているのだと、東畑さんは言う。そして、対話をするためには、話を聞くには、いや、話を聞いてもらうには、「よき消費者になる」ことが大切ではないかと。「よき消費者になる」ことで、周りの人がライバルではなくなるし、「ただ受け取る、ただ勉強することが楽しい」ということがあってもいいじゃないかと。そして、その先で、「よき人間になる」ことができるのだと。
この東畑さんの「よき消費者になる」という言葉はすでに十分に開眼する言葉だが、それ以上に示唆を与えてくれる。
「よき消費者になる」ことで、つまり「よき受け手」になることで、良いものが残っていく。「文化を守る」と言うのは、短絡的にバズを批判することでも、文化施設を単に作ることでもなく、まずは自分が、「よき消費者」になることなのだ。

そして、「よき消費者になる」ことで相手の話を聞くことができるようになってゆき、対話が可能になるというのは、本質を捉えることで自分の「確信・信憑」を持つことでき、他者へと聞く耳が開かれてゆき、他者の「確信・信憑」と自分の「確信・信憑」の共通了解を探ろうとする哲学的思考の現象学にも似ている。

何より、これらの意味で、「よき消費者になる」ことは、私がいまここにいて良い理由になる、つまり存在自体を肯定してくれるのだ。
私が、今、ここで世界を楽しむことで、それが結果的に精神を連綿と繋いでゆく場所となる。楽しむこと、感動すること、そのものが、そのものをここ(私)に存在させることになるのだ。
まさに、私が目指したい、「わたくし、つまりNobody」へと向かってゆく(わたくし、つまりNobody賞)。そして、この「わたくし、つまりNobody」と東畑さんの「よき人間になる」というのは自分の中でほぼ同じ意味である。

この情報化社会で誰もが発信者・生産者になる時代、なることが奨励されている時代に、むしろこの世界を豊かにしていくには、良い消費者、良い受け手になっていくことではないだろうか。それは、決して即効性のあるものではないかもしれない。ただ、着実に、そしてプラクティカルに、より良い世界へと向かっていくことにつながるだろうし、それは、流動的知性としての対称性無意識の先に次なる形而上学革命が待っていると言う中沢新一さんの考えにも、ひょっとしたらつながるかもしれない(つながらないかもしれない)。

世界をよくすることも、「わたくし、つまりNobody」として生きることも、簡単にはできない。だけど、ひとつひとつ丁寧に、考えることで、勉強することで、楽しむことで、つまり、まずは私たちがより良い受け手になることで、「わたくし、つまりNobody」として生きることに、世界を豊かにすること、よくすることに、きっとなるのだ。


Photo by まひる



(おわり)
※本稿は2022年4月8日に書いた文章を加筆編集したものです



最後まで読んでいただきありがとうございます。ウェブ版『あの日の交差点』、Podcast『あの日の交差点』も覗いていってみてください。


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