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アイデンティティの不安定さをめぐって-『花束みたいな恋をした』から『暇と退屈の倫理学』へ-

『花束みたいな恋をした』に打ち砕かれるアイデンティティ

 私とは何かという問いは、決して池田晶子のような形而上学的な問いであるだけでなく、もっと生活レベルの問いである。今、目の前の苦しみに直結する。

 立っている地面そのものが今にも崩れ落ちそうだと気づいた時、必死に何かを掴もうとするのは生存本能だ。

 『花束みたいな恋をした』の上映が終わったスクリーンを見つめて、崩れ去ってゆく地面に抗うように必死に座席にしがみつく。

言葉を失った。いや、言葉どころではない。自分を失っていた。

真っ先に浮かんだ感想は「この世から自分がいなくなった」というものだった。

2021年の2月は、大学1年も終わりかけの頃だったが、大学生になってから何か成長できたことはあったかと言われてみれば何も思い浮かばないという、ひどく精神的に没落した状況にあった。独りでいることに向き合い、ただひたすらに病み、ほとんど行かない大学の課題をなんとなくこなす毎日に、生の実感などなかった。

生の実感とは、居場所と密接に結びついている。


高校までは、クラスと部活という半ば強制的な共同体の中に自分の居場所を保持していた。それは、自分は「◯年○組の◯◯である」とか、「◯部の〇〇である」と言ったように客観的な名前をつけてくれた。これはコミュニティによってアイデンティティを築いていたことを意味する。

翻って、大学生になってからの生の実感のなさは、アイデンティティの喪失にあり、そしてそれは、コミュニティの喪失にあるのだと考えた。


と、書いて仕舞えば一行で済んでしまうのだが、これに至るにはかなりの時間を費やした。なぜ『花束みたいな恋をした』を見てアイデンティティが不安定になったのかを説明するには当時の自分の状況を説明しなければならない。そして当時の自分の状況は2021年3月8日に投稿した『釈然としない』に記してある。


アイデンティティの不安定さの正体


『花束みたいな恋をした』によって感じたアイデンティティの不安定さとは一体なんだったのか。

今年はこの問いに向き合う一年だった。

そして、差し当たりの答えを見つけた。


それは、「個性を市場や情報環境の流れの中で無理やり求めようとした結果、自己主張は消費の一部に回収されて無害な記号化に陥ってしまう。」ということである。


これは、『これからの吉本隆明の話をしよう』という対談の中に出てくる一節である。


ここからは、この対談を読み解きながら、アイデンティティの不安定さを見つけ出してゆこうと思う。


『これからの吉本隆明の話をしよう』は日本思想史が専門の先崎彰容さんと評論家の宇野常寛さんが、今の私たちはどこにアイデンティティや私らしさを求めたら良いのかを、吉本隆明の『共同幻想論』を軸に対談したものである。


私たちの社会は自分らしさとかアイデンティティをどこに求めればいいのかという問題に非常に悩んでいる。
これだけ多くの人が曲がりなりにも論客として発信できる中で、本当に確信を持って自分らしい意見を立てるというのは難しい。
こうなると、多くの人は罵詈雑言とか否定形のコミュニケーションによってしかアイデンティティを確保できないという非常に不健全な状態になっている。
 情報化社会は、個人の発信を促すと同時に、自己同一性を解体してもいるということだ。


これは実存の問題、つまり関係の問題に集約されるのだという。

『共同幻想論』が出版された当時の60年代でいうなら、、映画『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』でも見られる討論はまさに関係の話をしている。

ここで、「関係」という言葉をさらに平易に「つながり方」に変えるとしたら、 僕たちは今、ネット上への書き込みという行為によって社会と容易につながってしまう。 それは実はアリジゴクに足を引き込まれることに近いんだけど、無防備なままネット社会に身をさらしてしまっている。と先崎さんは言う。


そして、この対談において「世界への手触り」というのがどうやらキーワードになっている。

私たちは「世界への手触り」へアイデンティティを託している。

ネット社会においてこの手触り感は飛躍的に向上したのだけれども、同時に希薄化しているとも言える。

後者は、誰もが手触り感を得られる中で、私たちはどのように世界と関係したら良いのかと見失ってしまうということだ。


私たちは、ネット社会によって世界への手触り感を手に入れ同時に希薄化しているわけだが、これは60年当時もあったのだと先崎さんは言う。

それが政治運動だった。

そして、70年代半ばには「政治」が終わり、 その後の日本は、資本主義の「欲望」つまり消費によってアイデンティティを確保する時代へと移ってゆくことになる。


これに対して、1980年代の消費社会の進行に対して、 消費という行為が、大衆が初めて手にした自己幻想の表現方法で、もちろん留保はつけながらもここに何らかの「自立」の契機を見ていた。

しかし、そうはならなかった。

消費による「自立」の成立など不可能だった。


結局は資本主義下の差異化のゲームをプレイしているにすぎない。そして、それは自己を記号化することにしかならないのだ。

個性というのを徹底的に追求しようとしたなれの果てが、まったくの記号化された個人になってしまう。そのことに、僕らはおそらく耐えられないんじゃないか。だから、 個性というのを徹底的に追求しようとしたなれの果てが、まったくの記号化された個人になってしまう。そのことに、僕らはおそらく耐えられないんじゃないか。と先崎さんは言う。


大きな物語に回収されることなく、小さな物語を生きることができるようになった時代、つまり個人の権利を獲得した時代に私はかえって悩まされている。

これは決して、大きな物語に戻りたいというのではなく、小さな物語の中でどう生き抜くかという話である。


これは、宇野常寛さんの『ゼロ年代の想像力』で言うところ、「自分で小さな物語を作る」という決断主義的な新しい想像力であり、私たちはそれに耐えきれなくなっている。このことは、『思考のモノカルチャー化から脱却する』の中で書いた、國分功一郎さんが日曜カルチャーで話していた自由意志と責任の話にも通ずる。

さらに、資本主義ゲームに回収されるという点では寄稿「マインドフルネスの倫理と資本主義の精神──いま改めて考えたい、その思想と実践のかたち」も参照したい。


そしてこの結論に至るのだ。

個性を市場や情報環境の流れの中で無理やり求めようとした結果、自己主張は消費の一部に回収されて無害な記号化に陥ってしまう。


明快だ。

こんなにも鮮やかに言い切ってしまわれると言葉を失う。

「何を好きか」で語るアイデンティティは結局、消費の一部に回収されてしまい、「消費者」として消費されてしまう。


私は、『花束みたいな恋をした』を見て、この虚しさを感じたのだとわかった。

『花束みたいな恋をした』はまさに決断主義的な時代の象徴で、さらにその自己批判的な諦念をも感じさせる作品だと自分は受け取った。

『花束みたいな恋をした』を乗り越えることは、決断主義的な人生の諦念を乗り越えることにも、心のよりどころの代替可能性の諦念を乗り越えることにもなり得るのだ。



対談では、なぜ今吉本隆明なのか、関係の戦後思想の文脈、そして乗り越え方など詳しい内容は実際に対談を読んでみてもらいたい。非常に読み応えのある対談なので。


アイデンティティは唯一無二出なければならないのか

先の対談を読んだのが12月あたま。

実に9〜10ヶ月をかけてやっとアイデンティティの不安定さの正体を見つけたのだった。


これによって、「何を好きか」ではなく、「どう好きか」を語ることでアイデンティティを規定することに確信を持ったわけだが、ここで重要なことを見落としていた。

それは、私はアイデンティティを語るときに、「アイデンティティとは唯一無二でなければならない」という隠れた前提を常に孕んでいることである。

なぜ、アイデンティティは唯一無二でなければならないのか。

ここである曲を思い出す。

同じ方向に並んだ団地の窓に 
いくつ幸せが存在するか数えて
風に揺れている洗濯物の色味で 
どんな家族なのかわかる気がしてしまうよ

『ありがちな恋愛 / 乃木坂46』

ありがちであることに諦念と虚無感を抱く曲をアイドルが歌ってしまう。

平凡であることは無個性であり、それは軽蔑の対象であるというのは、それほどに現代社会に根付いてしまっている。

ああ、情報化が進むことで世界によって自己が相対化された結果がこれなんだなと思ったりするのだ。

そして自分はまんまとそのゲームに陥っている。


なぜ、ありがちであることに諦念を抱き、なぜ、唯一無二の個性を懇願するのだろうか。
それは、何か大きなものに回収されたくないという無意識が働いているからであろう。

しかし、本当に大きなものに回収されずに、独立した自己など可能だろうか。

私たちは誰かと関係することで自己を相対化し、その差異をアイデンティティとしているならば、完全に独立した自己のアイデンティティなどあり得ない。

これは、唯一無二の個性を懇願すること自体、無意味に思えてくるのだ。

ゲームのルール設定の時点でミスしているのではないか。


ロマン主義的なアイデンティティ観


改めて。
なぜ、アイデンティティは唯一無二でなければならないと思っているのか。


ヒントを与えてくれたのが國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』である。

『暇と退屈の倫理学』は現代に通奏低音のように蔓延る「暇と退屈」の正体を捉え、それとどう向き合って生きてゆくかを模索した書籍である。

本書の「暇と退屈」をめぐる論考の中で哲学者スヴェンセンの『退屈の小さな哲学』に言及してそれは現れる。


 スヴェンセンの立場は明確である。退屈が人々の悩み事となったのは、ロマン主義のせいだ——これが彼の答えである。
 ロマン主義は一八世紀にヨーロッパを中心に現れた思潮を指す。スヴェンセンによれば、それは今もなお私たちの心を規定している。ロマン主義者は一般に「人生の充実」を求める。しかし、それが何を指しているのかはだれにもわからない。だから退屈してしまう。


退屈とアイデンティティとは一見結びつきにくいように思えるが、問題の出どころは同じような気がする。

うまく言葉にはできないが、何に退屈を感じ、どのように退屈から逃れるかは、そのままアイデンティティの問題に還元されると思うからだ。


これを踏まえると、私のアイデンティティ観はロマン主義的である。

したがって、ここで、このロマン主義をどう乗り越えるかを考える必要がありそうだ。

その片鱗は、『「こころのよりどころ」の代替可能性』で少し掴んでいるのだけれど、ここでもう一度挑戦したい。

何かを求めているけれど、何を求めているかわからないからロマン主義的なアイデンティティは不安定なのだ。

ここから向かう道は二つ。

「何か」を見つけるか、「何か」を求めることをやめるか。


しかし、現に「何か」を見つけられないからロマン主義の袋小路に入ってしまっているのであって、そもそもこちらはゲームを誤っている。

元々、答えのないゲームで答えを探してしまっているのだ。

では、後者にアプローチしてみよう。


「何か」を求めることをやめる。


つまり、今のままで満足するということ。

いや、それができないからロマン主義的な考えを持ってしまうのだ。


こういう訳で、「何か」を見つけるか、「何か」を求めることをやめるかの間をいくしか道はないことがわかる。

「何か」を求めるのだけれど、求める「何か」の焦点をもう少し絞るという算段だ。


個と全体は共存する

そのヒントとなるのが、『Teamlab: Tea Time in the Soy Sauce Storehouse』および、それについてのTeamlab代表の猪子寿之さんと評論家の宇野常寛さんの対談『生命と宇宙を貫く法則を体感させたい』である。



この作品は「エントロピーの増大VS引き込み現象」の動的平衡をモチーフに、固有であることと世界の一部であることは同等というのを体感できるようになっているとのこと。
そしてこれは、近代人がとらわれている「個人VS全体」という二項対立を解体している


そうか、「個」と「全体」は二項対立”だった”のか


この気づきは、私がアイデンティティに唯一性を求めていた理由を明確にしてくれた。

つまり、私は、「全体の一部に回収されたくないから、一部ではない個性を持ちたかった」のだ

潜在的に「個VS全体」の二項対立の中にいたと言うわけだ。

しかし、それはすでに解体された。


私たちが固有の「個」であることと、それが世界の一部であることは矛盾しない

私たちが固有の「個」であることは、世界を多様化させ拡大させる。つまり、エントロピーの増大である。

しかし、どこまでもエントロピーは増大せず、どこかで引き込まれる。

それは、決して唯一の場所に引き込まれるのではなく、固有の「個」によって引き込んだ結果が変わるのだ。

つまり、遠目で見ると動いていないように見えるけれど、近くで見ると確かに動いている動的平衡というわけだ。

したがって、私たちが固有の「個」でいることは、全体に回収されてしまって均質化されてしまうのではなく、むしろ、全体に影響を与えるのである。


ここに、ロマン主義を乗り越えるための、『「何か」を見つけるか、「何か」を求めることをやめるかの間』があるのではないか。

つまり、個と全体を動的平衡的に行き来するという意味での『固有の「個」』=「何か」 と、「全体に回収されつつ影響を与える」=『「何か」を求めることをやめる』=「全体に回収されることを受け入れる」という第三の道があるのではないかということだ。


ここにアイデンティティの不安定さを乗り越える希望を見出したい。

アイデンティティの不安定さの向き合い方

最後に、もう一度『暇と退屈の倫理学』の力を借りつつ、アイデンティティの不安定さをめぐる旅にさしあたりの結論を与えたい。

まず、これまでの流れを簡単にまとめると次のようになる。


今年は『花束みたいな恋をした』から進めない一年だった。
この映画を見て突きつけられたアイデンティティの不安定さは、「個性を市場や情報環境の流れの中で無理やり求めようとした結果、自己主張は消費の一部に回収されて無害な記号化に陥ってしまう。」という言葉で説明された。
この不安定さはロマン主義に基づくもので、それは「個VS全体」の二項対立に陥っていた。
しかし、「個」と「全体」は対立するものでなく、むしろ共存するものなのではないかという観点で、「個」と「全体」を動的平衡的に行き来するところに、アイデンティティの不安定さを乗り越える希望を見出せそうな気がする。

ここにもう一度、暇と退屈に対してどう向き合えば良いかを探る『暇と退屈の倫理学』を持ち込みたい。

そのために、『暇と退屈の倫理学』が『アイデンティティの不安定さをめぐって』にとって重要であろう箇所を、烏滸がましいが、簡単に説明させていただく。

本書は読み通してこそ意味が通るような書籍なので、多少の飛躍は許してほしい。気になる方は是非、本を手に取ってほしい。


『暇と退屈の倫理学』では、ハイデッガーに関する考察に多くのページを割く。そして、とりわけ、第一から三形式の退屈の関係が重要になってくる。

退屈の第一形式は「何かによって退屈させられること」、
退屈の第二形式は「何かに際して退屈すること」、
退屈の第三形式は「『なんとなく退屈だ』と感じること」である。

そしてこれらの関係は次のように整理されている。


人間は普段、第二形式がもたらす安定と均整のなかに生きている。しかし、何かが原因で「なんとなく退屈だ」の声が途方もなく大きく感じられるときがある。自分は何かに飛び込むべきなのではないかと苦しくなるとことがある。その時に、人間は第三形式=第一形式に逃げ込む。自分の心や体、あるいは周囲の状況に対して故意に無関心となり、ただひたすら仕事・ミッションに打ち込む。それが好きだからやるというより、ミッションの奴隷になることで安寧を得る。


つまり、人間は普段、退屈と気晴らしの間で生きている。しかし、なんらかの原因で退屈が優勢になった時に(無根拠に)決断したミッションに没頭して(=「第三形式=第一形式に逃げ込む」)、また戻ってくるということである。

これは、環世界に何か新しい要素が「不法侵入」してきて、そしてそれについて考えざるを得なくなり、やがてそれが常態化=習慣化することで新たな環世界になる。そして、また新しい要素が「不法侵入」してきて、、といったように繰り替す。といったようにも説明される。


このような、環世界間を容易に移動できることを國分さんは「人間らしい生き方」だと言う。


しかし、さらにこうも言うのだ。


人間に残された可能性はそれだけではない。人間にはさらにもう一つの可能性がある。それは、つらい人間的生からはずれてしまう可能性である。


どういうことだろうか。

退屈も楽しさもほどほどにあるのが人間らしい生であった。

したがって、何か衝撃的な「不法侵入」によって、そのことについて思考することしかできなくなってしまうとき、人は<動物になる>のだ。

つまり、人は一つの環世界に浸っているときに<動物になる>のだ。


人間はおおむね人間的な生を生きなければならない。しかし、人間には<動物的な生>を生きる可能性も残されている。しかし、それは、やがて習慣化され人間的な生に回収される。

私たちは、人生のたいていを「ミッションの奴隷」として生きねばならないが、たまに<動物の生>として自由を手に入れることができる希望があるということである。


さて、これを踏まえた上で、『暇と退屈の倫理学』のうち、『アイデンティティの不安定さをめぐって』に示唆を与えてくれる結論は、書籍にある三つの結論のうち、第二・第三の結論である。


まず、第二の結論は次のとおりである。

人間はおおむね気晴らしと暇の混じり合いの中で生きているのだから、気晴らしの純度を上げれば良い」ということである。

消費社会によって私たちは、もの浪費ではなく、記号の消費に邁進してしまっている。このことによって、気晴らしの純度は低下し、退屈へ転びやすくなる。

しかし、人間は”おおむね”気晴らしと暇の混じり合いの中にいるのだ。だからこそ、気晴らしの純度を上げる、つまり、楽しみの感受性を高めることで、退屈に立ち向かおうと言うものだ。

したがって、次のようにまとめられる。

第二の結論は、<人間であること>を楽しむということである。


次に、第三の結論は以下のとおりである。

<動物になること>

何か一つの環世界に囚われる瞬間、人間は<人間であること>から解放されて<動物になること>ができる自由があるのであった。

しかし、人間は容易に習慣化できてしまうので、恒久的に<動物にあること>はできず、すぐさま<人間であること>に戻ってしまう。

人間は動物になるとき、人間は特定の思考に取り憑かれており、人は楽しんでいるとき思考している。

つまり、<動物になること>を最大化するには、楽しむことを最大化することが最適解であるということだ。


したがって、第三の結論は次のようにまとめられる。


<動物であること>という第三の結論は、<人間であること>を楽しむという第二の結論を、その前提としている


そして、これらをまとめて『暇と退屈の倫理学』の結論は次のように結ばれている。


<人間であること>を楽しむことで、<動物になること>を待ち構えることができるようになる。


長い脱線だったが、『暇と退屈の倫理学』における、<人間であること>と<動物になること>の関係性に何か見覚えがないだろうか。

そう、エントロピーの増大と引き込み現象が同時に起こる、動的平衡的な「個」と「全体」の関係である。

どちらかが真なのではなく、どちらも真なのである。

<動物になること>が<人間であること>に影響を与えて、新たな環世界を作るように、「個」であることが「全体」に影響を与える。

この関係に当てはめて考えてみると、「全体」としてのアイデンティティが常態であり、時たま「個」としてのアイデンティティを持ち得るということではないか?
ここに「暇と退屈との向き合い方」と「アイデンティティの不安定さとの向き合い方」に同型性をみる。


私は当初、「個」としてのアイデンティティが常態であり、「全体」に回収されてはならないと考えていた。

これは重大な発見である。


「全体」としてのアイデンティティとは、趣味やコミュニティなどで規定されるアイデンティティだろう。

そして、そのアイデンティティには必然性はなく、(究極的には無根拠に)決断主義的に選んだアイデンティティである。私はそれに虚しさを感じていた。

「<人間であること>を楽しむ」という『暇と退屈の倫理学』の第二の結論を持ち込むと、私は、決断主義的に選んだアイデンティティをアイデンティティとして受け入れる器を持つべきだということになる
それは、無理やり受け入れるというのではなく、「心からこれが自分のアイデンティティだ」と言えるものを増やすということである。

アイデンティティはきっと、愛着と関係している。
究極的には無根拠な決断主義的な「全体」としてのアイデンティティの虚しさを乗り越えるのは、根拠のある「全体」としてのアイデンティティを求めることではなく、むしろ無根拠なアイデンティティに愛着を持つことなのだ。

「<人間であること>を楽しむ」的に言うと、<「全体」に愛着を持つ>となるだろうか。

そして、「<動物になること>ことを待ち構える」ように、<「個」になることを待ち構える>のだ。


楽しみの純度を上げることで、楽しみに思考を支配された時に人間は動物になる。そして自由を手に入れる。

同じように、「全体」への愛着を高めることで、愛着に思考を支配された時にアイデンティティは「個」になるのではないか

そして、楽しみの純度を人と比較できないように、愛着の純度も人と比較できない。

アイデンティティが「全体」であるか「個」であるかを分けるのは、愛着がその人の思考を支配するほど強いものか否かである。


アイデンティティはその必然性よりも、むしろ愛着の程度に帰着するというのは、「何が好きか」という記号ではなく、「どう好きか」という関係(文脈)でアイデンティティを規定すべきだという考えとも符合する。


暇と退屈への向き合い方が「<人間であること>を楽しむことで、<動物になること>を待ち構えることができるようになる」ことであるならば、アイデンティティの不安定さの乗り越え方は、「<「全体」に愛着を持つ>ことで<「個」になること>を待ち構えることができるようになる」ことである。

アイデンティティに必然性がないことに不安定さを感じ悩んできたが、必然性など求めても絶対に掴めない、存在しないのだと突きつけられた。
必然性がないのであれば、無根拠なアイデンティティに、必然性のない不安定さをも上回る愛着を持つことで、そこに自分だけの文脈を形作って行けば良いのだ。

(おわり)

最後まで読んでいただきありがとうございました!
DIYでやっているPodcast番組『あの日の交差点』ではゲストをお迎えして、エンタメから哲学までいろいろ話しています。お時間がある時に聞いてくださると嬉しいです。


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