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カレーをかける前の男

カレーをかける男 #中辛
カレーをかける男 #辛口
カレーをかける男 #甘口

 千代田区神田の神保町じんぼうちょうは、どんなイメージがありますか?
 古本屋。喫茶店。それに……、カレーの聖地。そうですよね。それなら良かった。僕たちの努力は無駄ではなかった。
 僕はね、僕にとって神保町は監獄の街です。そんな話聞いたことない? そりゃそうです。記憶や記録から消されてしまったんです。だから、これは僕の戯言だと思って聞いてください。
 僕らは囚われていた。なにをしたわけでもない。生まれたときから罪人だったんです。
 僕らは複数人のグループに分けられ、ひとつの監獄に詰め込まれていた。そんなグループがきっといくつもあった。監獄だって数えきれないほど。
 終わらない罰に誰もが疲弊していた。そのなかでも、決して目の光が濁らない男がいた。国崎という男でした。そうです、国崎です。彼は僕らのグループのリーダーだった。どんなときでもくじけず僕らを励ましてくれた。
 僕は国崎が好きだった。彼はいろいろなことを教えてくれました。監獄から出れば、外の世界があることを教えてくれた。いつしか、鉄格子に隔たれた小さな窓から見える四角い空に憧れるようになった。
 僕が見ることができた世界は、僕たちがいた監獄と四角い空、そして、通路を挟んで反対にある独房だった。
 独房にはひとりの男がいた。彼は僕たちとは少し違う見た目をしていた。
「なあ、あんた名前は?」国崎がきいた。
「……」
「言葉が通じないか」
「……カトリ」
「カトリ? あんたカトリというのか?」
「……」
 カトリは寡黙で不思議な男でした。僕は彼が食事をしている姿を見たことがなかった。
 食事は一日に一回でした。皆お腹を空かせていた。国崎は少ない食事を皆に、特に僕に分けてくれました。
「なあ、知ってるか。こいつはカレーっていうんだ。七日に一度カレーの日があるだろう。てことは今日はきっと金曜日だ」国崎は本当に物知りだ。
 独房のカトリは相変わらず食事をする姿を見せない。だけど、カレーの日だけ器からカレーが消えるんです。食事をする姿を見たことはなかったけれど、きっとこっそり食べているんだ。僕はそう思っていました。
「なあ、あの独房の彼だけど」国崎は看守に言いました。「カレーしか食べないだろう。きっと他の食事は体に合わないんだ。毎日カレーにしてやってくれないか」
 国崎の進言通り、カトリの食事は毎日カレーになりました。囚人という身でありながら、国崎は看守たちから一目置かれていました。
 カトリはあるとき国崎と目が合うと、両の手を合わせました。きっと感謝を伝えたかったのだろうと僕は思いました。
 国崎も手を合わせて「ナマステ」と言いました。
 僕は、国崎にその言葉の意味をききました。
「ある地域の挨拶だ。あとな、『カトリ』というのは多分名前じゃない『Khatri』というカースト集団を指すものだろう」
「カースト?」
「人を階級で分ける古い制度さ」
 それから何日も経ちました。どのくらい経っただろうか。僕たちがカレーを50回ほど食べた頃だったから50週、多分一年くらいでしょうか。
 ギリギリ、ギン。
 静かな夜に、金属が捩じ切られるような音が響いた。
 音はカトリの独房の方からしました。
 独房を見ると、カトリが背を向けて立っていました。外に通じる小窓の鉄格子が外れている。鉄格子が錆びて捩じ切られていたんです。
 僕の他に国崎が起きていました。
「ああ、やっぱり。あんた、カレーを食べないで鉄格子にかけていたんだな。トマトの酸で少しずつ鉄を錆びさせて捩じ切ったんだろう」国崎はそう言いました。
 カトリは何も言わず、国崎に手を合わせました。
 国崎も手を合わせる。「ナマステ」
 鉄格子と通路を挟んで向かい合う二人は、ひどく痩せこけている。
「なあ、こいつを一緒に外に連れて行ってくれよ」
 国崎は僕を独房の方に押しやりました。
「どうして僕だけ。国崎も一緒に行こう」
「この通路側の格子な、子供のお前ならなんとか通れるだろう。大人は無理だ」
 国崎は、僕をぐいぐいと格子の隙間に押し込みました。しかし、頭がつかえてしまう。
「痛いよ」
「仕方ない。とっておきだ」
 国崎は懐から銀の器を出した。そして、それの中身を僕に頭からかけたんです。
「これは?」
「カレーだよ」
 僕は全身がカレーでドロドロになった。
 すると、さっきまで通らなかった格子の隙間に頭が入ったんです。それは潤滑油の役目を果たした。頭が通れば、体を無理やりねじ込むことができました。そうして僕は、カトリの独房に入ることができた。
「なあ、これを持っていけよ。お守りだ」
 国崎は、さっきまでカレーの入っていた銀の器を僕に投げて渡しました。
「国崎、いつかきっと……。今までありがとう」僕はそれだけ言った。それで精一杯だったんです。
 外に通じる格子の外れた小さな窓。まともに食事をとらなかったカトリは、その痩せた体を窓にねじ込みました。ズリズリと人間離れした動きで、カトリは独房から外に出ることに成功した。今思えば、あの動きはヨガでした。
 次は僕の番だ。
 僕は振り返って、国崎がいる監獄を見ました。
 国崎はこけた頬をつりあげて笑って言いました。「元気でな。慎一」

 窓から外に出ると、夜空は視界の端から端まで広がっていました。四角い空しか知らなかった僕は、世界がこんなに広いなんて信じられなかった。
 地上には監獄へ通じる地下への入り口がいくつもありました。
 月明かりが銀の器に反射する。国崎が僕にくれたものだ。
 カトリはその銀の器を指して言いました。「カトリ」と。
「え?」
「その銀の器の呼び名だよ」
「話せたの? この国の言葉を」
「お前には、そう聞こえるのかもしれないな。さあ、目を閉じなさい。外に出ればこっちのものだ」
 僕が目を閉じると、額に温かい何かが触れるのを感じた。
 それから一瞬の沈黙のあと、……いや、本当はもっと長い時間が流れたのかもしれません。
「――キミ、聞こえるかい?」
 心配そうな声が聞こえて、僕は目を開けた。
 大人たちが僕を囲んで見下ろしていた。
「キミ、大丈夫かい? 名前は言える?」
 千代田区神田の神保町は今の姿になっていた。
 古本屋。喫茶店。それにカレーの聖地。
 夢だったのだろうか。
 いや、僕の手には銀の器、カトリがしっかり握られていた。
「僕は、国崎慎一です」

「と、これが僕がカレーの神様と出会った最初の出来事です。それから僕には少しだけ不思議な力が宿った。そして何度も何度も僕は神様と一緒に……」
 スウスウ。
 慎一が部長を見ると、彼女はすっかりソファーで寝息をたてていた。
「部長がカレーの神様の話をしてほしいって言ったんじゃないですか」
 慎一はフローリングから立ち上がると、大きく伸びをした。すると、髪の毛から玉ねぎが落ちた。
「あー、また。部長、すみません。やっぱりシャワーお借りします。いいですよね?」
 スウスウ。
 甘口カレーを頭からかけたせいで、慎一は全身カレーだらけになっていた。
「なんだかデジャヴ」
 昔話をしていたこともあり、懐かしい気分になった。
「『カレーはご飯にかけなさい』だって? まったく、自分だって……」
 ぶつぶつ言いながら、慎一はカレーまみれになったシャツを脱ぎ捨てバスルームに入った。
 温かいシャワーを頭から浴びながら、慎一は考えていた。迷路のように入り組む東京メトロは、まさに東京の動脈。それは、いつかの監獄へ繋がっているはずだ。慎一はカレーの神様と一緒に幾度となく地下の迷宮に挑んだ。神保町は、そのベースキャンプとしてカレーの聖地になったのだ。
 国崎、皆、また会えるだろうか。分からない。それでも……。
 最後に冷たいシャワーで頭を冷やす。
 みるみる感覚が研ぎ澄まされていくのが分かる。
 バスルームから出て、ドライヤーで髪の毛を乾かす。
 鏡に映る慎一の顔。その額には赤い印〝ティカ〟がある。それは、カレーの神様が慎一に授けた力が宿る。また、ティカは慎一を縛るかせでもある。前髪を下ろすと、それは隠れた。いつもの慎一に戻る。
 これからも慎一は、毎日カレーをかけ続ける。

※カレーはご飯にかけましょう。ただし、時と場合による

 了

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