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カレーをかける男 #甘口

甘口

「部長、さあ着きましたよ」
 慎一は部長を彼女の家まで送った。
「あー、ありがとー。ふぁー」
 玄関に入ると、部長はその場に寝転んだ。
「ダメですよ。こんなところで寝たら」
「だーいじょうぶ」
「ちゃんと、着替えて布団で寝てくださいね。いいですね。僕は、もう行きますよ」
 慎一がドアノブに手をかけたとき、寝転んだ部長がズボンの裾をつまんだ。
「ねえ、なんでカレーをかけるの?」
「え?」
「かけないわけにはいかないの?」
 部長の顔は赤い。きっと、まだ酔っている。だから、この会話も明日には忘れているだろう。
 慎一は座って、部長と視線を合わせた。部長も慎一の目を見た。
「神様です」
「カミサマ?」
「カレーの神様が言ったんです。頭にターバンを巻いた、白い髭を生やした、あれは間違いなくカレーの神様です」
「そのカレー味の神様がなんて」
「カレー味じゃないです。カレーの神様は言いました。『毎日カレーをかけなさい。それに相応ふさわしいものに。それは幸せをよびます』と」
「それで、幸せになったの?」
「いや、まさか……。さあ、もう行きます」
「ねえ」部長は裾を離さない。「作ってよ。カレー。お腹空いたの」
 上目遣いに部長は言った。

 玉ねぎをくし切りにする。それに、冷凍のブロッコリーがあったから、それを使う。具材はこれだけ。
 初めて訪れた部長の家で、慎一は勝手が分からない。
 鍋に油を多めにひいて玉ねぎとブロッコリーを炒める。素揚げに近い。ブロッコリーに焦げ目がついたら、いったん別皿にうつす。
 鍋に水を入れ、沸騰させ煮込む。といっても具材は玉ねぎのみだから、すぐに火を止める。
 カレールウを入れて溶かす。
 再び弱火で煮込む。10分ほど煮込んだ。
 とろみが足りない。少量の水溶きかたくり粉を加えて、慎一の好みのとろみにした。
 ブロッコリーは最後に添えるとしよう。

「部長、冷凍のご飯使いますよ?」
「んー?」
 椅子に座っていたはずの部長は、いつのまにかフローリングの上で横になっていた。いつもは、あんなにしっかりした人なのに、と慎一は思う。
「ゴハン。いいですか?」
「ご飯は、いい。いらない」
「え? カレーだけですよ」
「かけなさいよ」
「え?」
 ドクンと心臓が大きく鳴る。
「私にかけなさいよ」
「そんな、どうして」
「私、知ってるわよ。国崎くん、あなた、そういう〝へき〟なんでしょ。あのときの、社長の頭にかけたときの顔。神様だなんだって、あなたはそういうのが好きでたまらない変態サンなのよ。認めなさい」
「ち……、違います。本当です。本当に神様が……」
「なら、かけなさい。私がこの目で見届けてあげるわ。そうでなきゃ一緒に仕事なんてできない」
 心臓の鼓動は、その早さを増し続ける。慎一はゴクリと唾を飲み込んだ。
「言いましたね。それならば遠慮なく」
「ひっ」部長は一瞬怯えた目を見せて、ぎゅっと瞼を閉じた。
「でも、部長だけにかけるなんて、そんなことできません」
 慎一はジャケットを脱いで、ネクタイも外した。フローリングに寝転がる部長に覆い被さるカタチで両手をついた。
「国崎くん……?」部長は恐る恐る目を開けた。
 慎一は片手を床についた姿勢のまま、自分の後頭部にボウルのカレーを落とす。
「う……」
 大丈夫だ。そんなに熱くない。
 カレーは慎一の首筋から顎先に伝い、部長の顔にポタリポタリと落ちる。
「どうして嘘をついたんです?」
「え?」
「辛口が好きだなんて」
 慎一は頬を伝うカレーをペロリと舐めた。
「部長のお家にあったこのルウ、甘口ですよね」
「それは……」部長は目を逸らした。「だって恥ずかしいじゃない。いい大人が」
 慎一はフッと笑った。ああ、神様、確かにあなたの言う通りだ。
「すみません。その、汚してしまって」
 そう言っている間も、カレーは部長に滴り落ちる。
「そう思うのなら、……責任を……」
「え? いや、お部屋を汚してしまって……」
 そのとき、視界の端に人影を捉えた。
 誰かがいる。
 驚いた慎一はその人物を見た。
 頭にターバンを巻いた白髭の男。
 あなたは――。
 ナマステ。慎一は心の中でつぶやいた。神様、来てくれたんですね。
「あ」
 部長も神様の方向を見ている。まさか、部長にも神様が?
「大家さん、こんばんは」
 大家さん?
「えっと、桜木さん、警察、呼びますか?」

「はー、さっぱりした!」
 部長は濡れた髪のまま食卓についた。
「国崎くんもシャワー浴びてきなよ」
「いえ、僕は。それよりもカレーを食べましょう。準備ができましたよ」
 テーブルの上に三つのお皿が並ぶ。
「いいんですか? 私まで」
 大家さんは申し訳なさそうに言った。
「はい、なんかビックリさせてしまったみたいなので」
 部長は慎一に目配せをした。大家さんには、カレーの準備中に転んでしまったということにしてある。
「なにか夜中に物音がするものだから来てみたら、ドアの鍵は開いているわ、桜木さんが押し倒されているわで」
「本当にすみませんでした」
 慎一は頭を下げた。髪の毛から玉ねぎがポトリと落ちた。
「ぷっ」部長が笑う。
 良かった。慎一は思った。久しぶりに部長が笑った顔を見た。
 この食卓は〝幸せ〟そのものだった。
 今までのことを思い返してみる。
 美術館でカレーを盃の彫刻にかけたとき、たまたまそれを製作者が見て、インスピレーションを掻き立てられたと感謝された。
 前の会社で契約書にカレーをかけてしまい契約は破談になったが、その相手が悪徳企業だったことがのちにわかった。
 いや、もう遅い。もうマミとは別れたし、前の会社も辞めた。
 しかし、それらの繋がりで今がある。
 マミ、君はいい人と出会えたかな? そうであれば嬉しい。
「あ、そうだ。待ってて。麦茶を準備するから」
 部長が席を外した。
「慎一」
 二人きりになると大家さんは、鋭い目つきで言った。
「やはり、あなたは」
 神様だ。カレーの神様だ。こんな大家さんがいるはずがない。
「ちゃんと言いつけを守っているようだな」
「はい。もちろんです」
「しかし、私の言い方が悪かったのかもしれない」
「言い方?」
「さあ、目を閉じなさい」
 慎一が目を閉じると、額に何かが触れるのを感じた。温かかった。
『カレーはご飯にかけなさい』
 それは慎一のなかに浸透して溶けた。
 慎一はゆっくりと目を開けた。
 目の前にいるのは、恰幅かっぷくのいいマダムだった。これが本当の大家さんだ。
 慎一が一瞬戸惑いの表情を見せると、マダムはニコッと微笑んだ。慎一は心の中でカレーの神様にナマステとつぶやいた。
「お待たせ。さあ、食べましょう!」
 部長が麦茶とグラスを持って食卓に戻ってきた。
 そういえば、と慎一は思った。さっき部長が言っていた〝責任〟とは……。いや、考えるのはあとだ。
 三人は手を合わせる。
「「「いただきます」」」

※カレーはご飯にかけましょう。

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