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カレーをかける男 #中辛

中辛

 静寂に包まれた空間に、柔らかな光が天井から降り注ぐ。
 そこは美術館。
 展示室に一歩足を踏み入れると、おごそかな雰囲気が漂っているのが分かる。高い天井から吊るされたシャンデリアがきらめき、壁には精巧な額縁に収められた絵画が所狭しと飾られている。絵画には説明パネルが添えられ、訪問者は一つ一つの作品をじっくりと鑑賞している。
 慎一は恋人のマミと上野にある美術館を訪れていた。静謐せいひつな空気が二人の間を満たし、触れ合う手が絡まるのは自然なことだった。
 なんて幸せなんだろう。
 いくつかの展示室を回ったあと、二人はある彫刻作品の前にいた。空間の中央に座したその作品は、この美術展を象徴するものだ。
 聖なる盃。
 それは、慎一が作品に対して抱いたイメージだ。
 ぶわっと汗が噴き出す。
 マミと繋いだ手を、慎一は振りほどいた。
「どうしたの?」マミが心配そうに慎一を見る。
「いや。ううん、大丈夫だよ。うん、大丈夫」
 自分を戒めるように出た言葉は震えていた。
「ねえ、やめてよ。だって約束したでしょう」
 慎一は鞄から水筒を出した。
「それなに? ねえ、やめて慎一」
 マミが慎一の腕を押さえる。
「あ、あああ、マミ、やっぱり、僕」
 慎一は腕を振り回した。マミにはもう手が負えなかった。
「誰か、すみません! 手を貸してください。彼を止めて」
「ああ、助け……、ダメだ。マミ、逃げて」
 慎一がマミを突き飛ばした。
 二人の間に数メートルの距離ができていた。
「さようなら、マミ」
 慎一は泣いていた。マミも涙を流していた。
 水筒の蓋を開けると、慎一はその中身を聖なる盃に振りかけていた。茶色い物体が盃に満たされる。
 それは、カレーだった。
「ああー! あー!」
 マミが泣き叫びながら慎一から離れ、走り去った。
 騒ぎを聞きつけた警備スタッフが慎一を取り囲む。「おい、あんたなにやってるんだ!」
 慎一は取り押さえられながら「ごめんなさい! ごめんなさい!」と嗚咽混じりに謝り続けた。
 慎一と警備スタッフは、カレーまみれになっていた。

「ごめんなさい!」
 自分の声で慎一は目を覚ました。
 Tシャツの胸の部分が、汗でびしょ濡れになっていた。
 また、あの夢だ。いや、夢ではない。現実にあったことだ。もう何年も前。1Kのこの部屋を引っ越して、一緒に住もうとマミと約束したこともあった。そして美術館の一件以来、彼女と会うことはなかった。
 慎一はため息をひとつついてベッドから下りた。
 冷蔵庫から缶コーヒーを取り出した。箱買いした安い缶コーヒーを、目覚ましのためだけに喉に流し込む。
 冷凍していた〝カレーのもと〟を電子レンジで解凍する。カレーのもと――玉ねぎを焦げ茶色になるまでフライパンで炒め、ホールトマトを絡めて、ターメリックとコリアンダーとクミンを合わせ、ひとつまみ〜小さじ一杯の塩で味を調整する。ペースト状になったそれを、慎一はカレーのもととして冷凍庫にいくつもストックしている。
 解凍したカレーのもとを、水や牛乳、ココナッツミルクなどで溶きながら、好きな具材と一緒に炒めることでオリジナルのカレーができあがる。
 今日のカレーの具材は豚肉と茄子だ。それにレッドペッパーを少量加えることで中辛に仕上げた。
 作ったカレーを幅広の水筒に流し込む。
 さあ、今日もこれをちゃんと食べるんだ。

 電車に乗り職場へ向かう。
 慎一の職場は、24時間体制で好きな時間帯を選んで働くことができる。慎一は昼過ぎからの時間を担当している。そのため、電車は比較的空いているはずだった。
 それが今日は妙に混んでいる。事故でもあったのだろうか。
 電車が駅に到着するたびに乗客は増えていった。
 心臓の鼓動が少しずつ早く、強くなっていく。
 慎一の前に高校生くらいの女の子が立っていた。
 どうしてこんな時間に学生が……。
 車内の隙間は埋まり、鞄や衣服が触れ合うほどの距離になっている。
 女の子は真っ白なシャツを着ている。真っ白なシャツ。真っ白。
 慎一は鞄に手を伸ばした。水筒のふたに触れる。
 やめろ。余計なことを考えるな。
 水筒の蓋を開ける。キュッ。
 蓋を閉める。カチッ。
 蓋を開ける。キュッ。
 電車が駅に到着する。慎一が降りる駅だった。
 慎一はホッとして水筒の蓋を閉めた。カチッ。

 職場に着いて業務を引き継いだ。
「ちょっと散らかった感じの部屋の画像を背景にコラージュを作ってほしい」先輩のグラフィッカーは慎一に指示を出す。眠そうだ。「二十代後半から三十代前半くらいの女性の顔を合成して、体もネットで適当に拾ってきてキメラを作って」
 慎一は安心する。ここは相変わらずだ。
「分かりました。お疲れ様です」
「そうだ。AIは使わないように。バレるからね」
 フリーアドレスのデスクで角の窓際が慎一のお気に入りだった。誰とも目を合わせないですむ。
 パーテーションの向こうではオペレーターたちのあけすけな会話が聞こえてくる。
「このおっさん、ラインのIDきいてきたけど、どーする?」
「もう少し引っ張って。もうポイントないはずだから」
 アプリケーションのショートカットを自分の設定に変更する。それは仕事に入る前のルーティンになっていた。慎一は家から持参した缶コーヒーを三口ほどで飲み干していた。これもルーティン。
 パーテーションの向こうから慎一が所属する部の部長がやってきた。なんだか疲れた顔をしている。
「部長、おはようございます」
 昼過ぎでも出社後に初めて顔を合わせるときは、おはようと言う。そういうルールだった。
「おはよう。国崎くん」
 部長は慎一より二つ歳上の女性だ。
「そうだ、国崎くん。来てそうそうで悪いんだけど、お昼付き合ってくれない?」
「え、お昼ですか? すみません。僕、持参していて」慎一は鞄を指差した。
「あー、ああ。うん。じゃあ食堂でもいいからさ」
 部長は食い下がった。彼女が昼ご飯に誘うこと自体珍しいことだった。
「でも……、コラ画像作るように言われていて」
 部長は寂しそうな目をした。
「いいんだ。そんなロクでもない仕事」

 昼過ぎの食堂は閑散としていた。
「いただきます」部長は手を合わせて言った。
 慎一の目の前に座る部長のトレーには、野菜炒め定食が並んでいた。
 慎一がフードキャリアの蓋を開けると、白米から湯気が立った。家で準備してからまだそんなに時間が経っていない。
「国崎くんがウチにきて、どれくらいだっけ?」
「今、二年目です」
「そっか……。で、どう思う?」
「どうって?」
「仕事の内容だよ。正直に言ってみなよ」
「そうですね。まあ、正直、なにをやっているのか分からないですね」
「なにをやっているか、ねえ」
 実際、そうだった。慎一も、あまり人様に言えるようなことはしていないだろうと思っている。しかし、それでいい。
 以前いた大手企業で起こした事件は、慎一は今でも夢にみる。再三のやり取りで先方にサインさせた大事な契約書に〝アレ〟をかけてしまったのだ。
 自分は緊張感とは無縁の生活を送らなければいけないと、慎一は心底思った。
 今の仕事は確かにロクでもないかもしれない。だからいいのだ。
「もしさ、私が新規の事業を担当するようになったらさ……」
「はい」
 部長は目を伏せた。長い沈黙だった。
 そのタイミングで、絶好の機会とばかりに、慎一は水筒の蓋を開けて、中のカレーを白米にかけた。
「え、え? カレー?」
 部長は、その行動を見逃さなかった。目を丸くしている。
「あ、……はい。すみません」
「水筒から?」
 それはそうだろうと自分でも思う。珍しいことをしている自覚はある。だから、昼休憩は一人で過ごしたい。
「そのカレーさ」部長は目を細める。
「はい」
「よかったら、私のご飯に少しかけてもらえないかな?」
「え?」
「あ、いやならいいんだけど」
「そんな、かけさせてください。ぜひ」
「辛い?」
「中辛くらいです。辛いの苦手ですか?」
「ううん。大好き」
 慎一は水筒に残っていたカレーを部長のご飯にかけた。残らずかけた。
「なんかさ、嬉しそうだね。国崎くん」
「え、え、……そうですか?」
 確かに口元が緩んでいたかもしれない。
「ありがとう。カレー好きなんだ、私」
「そうなんですね、もしよかったら……」
 もしよかったら? その先に何を言うつもりなのか。しかし、その先はいつまでも出てこなかった。
「そうそう。ねえ、国崎くん、さっきの話の続きだけど……。もし、私が新規の事業を担当するようになったらさ、私についてきてよ」
 そう言って、部長はカレーを口に運んだ。唇が開いてカレーが舌の上に乗る。もぐもぐと口が動き、それは喉を通り過ぎる。その先は知らない。
 慎一のカレーは部長の一部になる。血と肉になるのだ。
 それを考えると、慎一はえも言えぬ感情に支配された。だから、部長の言葉の意味をよく理解せずに言葉を発していた。
「はい、もちろんです」

 つづく

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