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それ、誰のための結婚なの?

「披露宴をしない」なら批判を浴びる

私の実家では今でも根強く「家制度」があり、
物心ついた頃から姉と私はずっと
「家を継がなければいけない」という圧力と戦ってきた。

先日実家に帰った時も、

「姉の入籍が決まったら、本家やまき(昔からの遠い親族である地域住民)にも報告しなきゃならないんだから、披露宴をちゃんと考えろ!」

と祖母のお叱りを受けた。

(そんな儀式があること初めて聞いたのに、
いきなりブチ切れられた。。。)

これを聞いた自分の中に大いに疑問が残る。

祖母曰く、「披露宴で報告しない」というのが前代未聞なので
地域住民の批判を浴びる対象になるというのだ。。

「本家もまきもこないだじいちゃんの葬式で会ったのが初めてくらいで、
しかも挨拶もこっちがしなきゃしてくれないようなあの人たちに(絶対に言っちゃいけないと思うけど、びっくりするほどめちゃくちゃ態度悪かった)結婚の挨拶…?」
「人生でほとんど関与してこなかった人たちのために結婚披露宴をしないと批判されるって何事?!」

もう時代は令和ですよ!!

とお大声で叫びたかった。

今では結婚式をしない人もいるし、
パートナー制度や事実婚も増えている。

「結婚」のスタイルが多様化し、
それぞれが「自分の生き方を選べる」のが
当たり前の時代に生きる私たちだからこそ、

「こういうもんだからこうしろ!」

という選択を飲み込むのには非常に違和感がある。。

一方で、「結婚」という形で二人の関係性を社会に表明して、
認めてもらうことはやはり重要だとは思う。
これは近所づきあいを重んずる田舎に限らず、都会でも、
「一緒に生きていくことを決めた二人」全員に言えることだと思うけど、
法律婚でも事実婚でも変わらず、
パートナーとして社会との距離を明確にするために、
結婚はするんじゃないかと最近は考えるようになった。

「すきすき同士」の誓いのためにするんじゃなくて。ね。

だから例えば、「この習わしは古いから無視!関わらない!」と突っぱねてしまっては、うまいこといかないんだろうなと思う。

(にしても、あまりに理不尽でナンセンスで、
視野狭ああああと思ってしまう。)

じゃあ、今の私たちに何ができるだろう。

きっと今の私たちが村や祖父母の意向を突っぱねて無視しても、
少しぐらい生きづらい思いを我慢できるなら、なんら問題ないだろう。
でもどっちにしても批判されるのは前提で生きていくとするなら、
お姉ちゃんや私の子どもの世代が少しでも
その理不尽さを感じないような社会との付き合い方をしていきたいと思ってる。

そのために。

1、本質のないところに使うエネルギーは最小限で済ませる。
  でも心は込める。

2、譲らないものは、譲らないと主張し続ける。

披露宴に代わるものできちんと挨拶は済ませつつも、
形にこだわりすぎない。
理不尽で時代に合わない文化は否定しつつも、
相手という人間を否定しない。
「こうなったらいいよね」をはつらつと主張して、
理不尽に批判されても気にしない。

これが私たちにできることなんじゃないだろうか。


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