双極性障害の勤めびと。たどり着いた自分らしい働き方 第17回(34歳:大うつと5年ぶりの服薬)
〜34歳(2017年1月)〜
2016年暮れ、気分の浮き沈みはすごかった。
軽躁になっているのはスケジュールアプリの埋まり具合、また、ウェアラブル端末の睡眠記録からも明らかでした。
私の軽躁サインを可視化する、一番わかりやすい方法はGoogleカレンダの予定記録とウェアラブル(fitbit)の睡眠記録。
「スケジュール管理はGoogle」「fitbitは毎日装着して寝る」をやれば、勝手にデータがたまり、見返すと気分の上がり下がりが一目瞭然です。
(このまま行ったら、躁に振り切れ、そして鬱になるかも。マズい。。)
予感はあったものの、新規事業リライフを事業化出来るか?スタートをするかどうかの大詰め。
やる以外の選択肢はなかった。
そしてリライフの結論が出ました。
「事業としては行わない。リライフチームは解散。」
これは、リライフメンバーで話し合った結果でした。
事業化を目指しても、メンバーにそれぞれにとっての明るい未来は描けなかった。
リライフが終わりとなっても、私はもがきました。
(法人の方が取り扱う額も上がり事業化しやすいのかも。リライフを法人向けに改良できないか?)
知り合いのメンタルヘルス系企業にニーズ調査に行くも、結局、糸口は見えないまま。
そして、軽躁から躁、その大波が引くのと同じく、私の”もがき”の行動も止まっていき、そして、うつへ。。。
最初は風邪の症状的なものがあらわれ、それで一日会社を休むと、翌日朝には会社に行きたくない気持ちが湧き上がり、また休む。
そして、また翌日も出社したくなくなる、の悪循環に入ってしまいました。
その頃、奥さんとの間で、子どもが生まれたのを機に、私の生命保険加入について話し合っていました。
調べてみると、加入審査のため、過去5年の通院歴の提出がいるという情報をみつけました。
私は2012年2月にリヴァに入社してすぐ、体調の安定を感じたため、断薬を主治医の了承のもと決めました。そして通院も終了。
2017年1月という時期は、「過去5年の通院歴」の中に精神科通院が無くなるまで、あと一ヶ月のタイミングでもありました。
私は、日増しに落ち込みが強くなり、会社も休みがちになっている。
子どもをまだ、保育園に預けてないので、奥さんは日中も家にいる。
私は居場所が無く部屋に閉じこもる。奥さんも気を使って、2駅先の実家に子どもと行く、と言った日が増えていきました。
1人になると、悪い考えがどんどん増幅。
(今、通院を再開したら、保険に加入出来なくなる。。我慢するしか、無い。)
(こんな状態では働けない。子どもを20歳まで育て上げられない。奥さんが実家でやっていけるなら、私はいなくてもいいのでは。。)
(ニュースとかでみる失踪事件、父親の心境って、こんな感じなのかな。。)
(今の家は、マンションの6階。
窓をあけて、飛べば、死ねるかな。。)
(死にたい。というより、消えてしまいたい。)
そんな思考が、数年ぶりに浮かんだ自分自身を、辛うじて、客観的に把握することが出来た時、
(奥さんと子どもがいて。家族もいる身で、死のうとするなんて、正常な状態ではない。
これはもう、通院を再開するしか道がないのではないか。でも、保険加入が・・・)
その日、奥さんが実家から戻って来てすぐ、勇気を出して話を切り出しました。
「実は。。。通院を再開しようと思うんだ。でも、それで保険に入れなくなってしまうんだけど。。。」
奥さん「そんな事はいいから、病院行ってきて。いざという時のお金なんて、どうにでもなるから。」
すーーっと、重い荷物を下ろしたような気分になりました。
以前の主治医は、子育てを理由に引越した家からは遠いため、
家に近くて評判の良いメンタルクリニックを予約。
久々の通院。
新しい主治医は物腰柔らかく、また双極性障害への理解も深い方で、とても安心しました。
処方された気分安定薬を飲むことに抵抗はありましたが、効果が現れるのは2週間以上経ってからの薬のはずが、飲んですぐ、気分が落ち着きました。
まさに、プラシーボ効果。
薬を飲むこと自体が、私の場合は安心や落ち着きにつながっていました。
会社を休みがちになった1月2月を経ても、うつ症状は相変わらずでした。
何より2年間、生活の中心にあった新規事業リライフについて考えなくなってしまったことに、大きな喪失感がありました。
日常で支援の仕事は取り組んでいるものの、胸の内側から静かに湧き上がるやる気は無くなり、
(このまま会社にいてもいいのかな。辞め時なのかもしれない。)
入社して初めて、退職を考えました。
〜35歳(2017年8月)〜
そんな思いを胸に秘めながら、会社として4つ目の拠点である品川に異動になりました。
品川センターのメインフロア
この異動で私は、社員初、4センター勤務を制覇することになりました。
ただ、品川にうつっても変わらず気分は晴れない。
異動早々、半期の上司面談があり、言われたのは
「松浦さんには、役職なしスタッフとして一番高い給与を払っている事になります。ただ、今の働き方、仕事の範囲だと金額を下げざる終えません」
とてもショックでした。
でも、自覚もしてました。
4月から子どもを保育園に預けることになり、奥さんの負担を出来るだけ減らすため、夜仕事が入ってなければ定時帰宅。
リライフ以降、新しいチャレンジもしていない。
守りに入った働き方。
(去年までの私が評価されての今の給与であれば、今は見合うはずがない)
「評価は全くそのとおりだと思います。
むしろ、給与を今に見合う形で下げてもらったほうが、私は気がラクです。」
逆ギレともとれるような返答をしました。
そして、ひきつづき悶々と日々を過ごす中、ふと頭に
(受け身で仕事をしてたらどんどん楽しくなくなる。
どうせ今、楽しくないなら、ダメ元で、自発的にちょっと何かやってみよう。)
私の中の、静かなるやる気が起き上がってきました。
品川は2016年10月に出来たばかりの新しいセンター。
利用者さんの集客にはまだまだ困っている状態でした。
そこで、私が知っていて試したかった集客案をダメ元で上司に提案。
上司は私の久々のやる気と提案の可能性にかけ、了承をくれました。
集客案の実現に向け、私の裁量で自由にさせてもらえ、こんな想いも浮かびます。
(仕事、ちょっと楽しくなってきてるかも)
そして、その集客案を実施した結果、思った以上の成果が出ました。
その施策は会社として有効なものと認められ、今後の集客案の一つに盛り込まれることにもなりました。
〜35歳(2017年11月29日)〜
ちょっとずつ、ちょっとずつ、リライフの呪縛から解き放たれつつある中で、代表の伊藤さんとサシ飲みすることになりました。
これは、社員と社長である伊藤さんが1対1で飲みに行き、ホンネで語りあうもの。
私は、何を話そうかと決めきれないまま、当日を迎えました。
伊藤さんからは、リライフの話が出て
「あれは任せ方が良くなかった。
もっと一緒に俺も入り込んでやれたらよかった。反省してます。」
そんな、私は考えもしない話もでてきました。
(あの頃の、リライフのようにのめり込める事は、もうないのかなぁ。。。)
頭をよぎりました。
今後、会社の広報をどうしていくかという話になったとき、
伊「リヴァをもっとメディアにとりあげられ、知ってもらうために松浦さんにはがんばってもらいたい。」
松「その気持ちは分かります。
でも、私が入社したときと今では状況が違う。
2011、12年であれば私たちの事業も真新しく、多くのメディアが関心を示してくれた。
それも一巡した今、ネタ作りをしてまでのメディア掲載では、本当に支持してくれる人がうちを知ってくれることにはならない。」
伊「それも確かにそうだね。」
そして
伊「じゃあ、松浦さん自身がメディアに出たら?」
それはもしかすると、私が誰かから言われるのをずっと待っていた言葉なのかもしれないと、思いました。
リライフ事業化の時、集客をどうするかという話になった。
私が提案したのが「広告塔としての松浦のメディア露出」でした。
本当にいいものを広めるため、私の当事者経験が利用できるなら、いくらでも前に出て発信するつもりでいた。
(もしかすると、私個人としてリライフでやりたかったのは、当事者経験を活用した活動だったのかも。
でも、それを私が思いつき、自分でやりだしたら独りよがりのものになる。
伊藤さんが推してくれたことで、会社の公認として当事者活動ができる。)
伊「双極性障害の当事者としての松浦さんを、もっと発信したらいいんじゃない?
失敗だと考えてる経験も全て価値になるよ。」
私の14年間が、一瞬で今につながっていく感覚がありました。
最後までご覧いただき、ありがとうございます。