松浦秀俊 / 双極はたらくラボ編集長
双極性障害の勤めびと。たどり着いた自分らしい働き方【完全版】
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双極性障害の勤めびと。たどり着いた自分らしい働き方【完全版】

松浦秀俊 / 双極はたらくラボ編集長
(2021年5月21日更新)「双極性障害の勤めびと。たどり着いた自分らしい働きかた【完全版】」を基にした動画を公開しました。


2017/12/22 13:25


「双極性障害の勤めびと。たどり着いた自分らしい働き方 第1回」をnoteに公開した日時です。あれから約2年、全18回におよぶ私の双極ものがたりを多くの方に見ていただき、note全体(勤めびとシリーズ以外も含む)で18万PVを超えました。

ここに感謝の気持ちを表すとともに、全18回をより見やすく再構成し、新しく19回を追加して1つの記事にまとめた「完全版」をここに公開します。

まだ読んだことない方も、また以前見た方も目を通していただき、noteのコメントやツイッターで感想をいただけるととても嬉しいです。

完全版の最後に、その後のストーリーも追加しますので、そこだけ見てもらうのもありです。もくじから最後に飛んでご覧ください。

では、本編をどうぞ。

第1回(双極性障害の開示とうつ診断で始まった双極生活)

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はじめに
「双極性障害(躁うつ病)の当事者としての松浦さんを、もっと発信したらいいんじゃない?失敗だと考えてる経験も全て価値になるよ。」

2017年11月29日。前職から8年の付き合いで、今私が所属する会社代表の伊藤さんの言葉に、自分はハッとさせられました。

(前から考えてはいたが、本当の意味で覚悟してなかったのかも。企業で働く双極性障害の当事者として実名で顔を出し、疾病があっても働いていけることを伝えていく覚悟。)

このnoteは、私、松浦が双極性障害を発症した大学4年から、双極性障害など精神疾患の方々を支援する職について6年目の今までの14年間を振り返るお話です。

自分の病気の変遷とそのとき考えていたことを、今まで誰にも話していない事も含め、ありのままを記すつもりです。

14年間を振り返ったときに浮かぶキーワードは、

うつ、NPO、就職、Web、退職、起業、本の出版、ひきこもり、自殺未遂、転職、ソーシャルビジネス、マーケティング、広報、休職、リワーク、支援職、結婚、子育て、リライフ、新規事業の立案と頓挫、自殺念慮、服薬再開・・・。

振り返ると、ジェットコースターのようにモノ凄いスピードで、上下に気分を揺さぶられながら働き、生きてきた14年間でした。

そして、そのジェットコースターの動力となっていたのは双極性障害。もちろん、自分の気質や能力によってもたらされた部分もありますが、双極性障害に翻弄された結果は大きくあったと思っています。

世の中を見渡すと、双極当事者の方の中には、経験談を発信している方が少なくないです。

マーケティング好きとして、私が他の人と差別化できることは何かを考えてみました。

その結果、「双極の当事者でありながら、他の正社員と変わらない条件で会社勤務を6年弱続けている。企業に在籍しながら、顔出し実名で発信できる」という点にあると思いました。

架空の存在でなく実存として感じてもらい、双極性障害の認識をより実際に近づけていけたらと思っています。

何度も挫折を繰り返しながら、自分らしい働き方にたどり着いた14年を、ゆるりと気軽な気持ちで読んでもらえると嬉しいです。

〜21歳(2004年)発病〜
名古屋の理系大学に通っていた私は、4年になり、とある研究室を選びました。それは「一番ラクに卒業できる研究室」。

私が大学に入学した2001年は、インターネットのブロードバンドが一斉に広がり、「Webには何か可能性がある」と思わせる流れがありました。

私は化学系専攻だったものの、講義はそっちのけでWebビジネスを研究し、いつかは起業したいと思うように。

大学4年になっても、理系学生にはお決まりの卒研に追われることは全くなく、自分の将来やりたいことに時間をかけました。

就活も「将来、新規事業をさせてくれるか、起業のステップになるところ」しか考えておらず、実際、内定をもらって入社する会社の最終面接でも「いずれ起業します」と宣言するほどでした。

ある名古屋の食品商社から内定をもらい、入社することは決めたものの、どこか自分の中で矛盾する想いがありました。

「起業するといっておきながら、就職するっておかしいのでは?本当に起業したいなら今からすればいいのに」

そこからぐるぐるとマイナスな思考はめぐり、人と比較するサイクルに入りました。特に、私がいた大学は、地元では名が知れた理系大学で7、8割の生徒が大学院に進学し、大手企業に入社するのが一般的でした。

そんな友人たちと自分を比べ、「間違った選択をしたのではないか」と落ち込む。しかも、私の研究室は週1回2時間だけのため、それ以外は外にでる予定がない状態でした。

結果、実家にひきこもり、寝続ける日々。2週間くらいその生活がつづき、さすがにまずいと思った私は、意を決して、自宅から一番近い総合病院の精神科に行きます。

はじめて精神科に行った時の怖さは、今でも忘れられません。

第2回(21歳:人生はじめての軽躁状態)

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はじめて精神科の入った病院に行った日、実際は病院の入り口までいって引き返してしまいました。

(この入り口を越えたら、うつ病と確定してしまうのでは。もう引き戻せないのではないか)

ただ、引き返したところで状況は改善せず、数日後再び病院へ、そして意を決して精神科の待合室までたどり着く。

(家から近い病院。同級生がいたらどうしよう。ばれたらどうしよう。。)

そんな思いの中、名前を呼ばれ、自分の症状を伝えると、

「軽いうつ症状ですね。お薬出しておきますから様子をみましょう」

と言われました。

専門家から、正式にうつと伝えられ、最初の恐怖とは違い、正直ほっとしたのを覚えています。ラクになったような、ある意味諦めにも近いような感覚。

そこから、薬も2週間くらいのんでいたら気分が通常の状態に戻ってきたため、2回目の受診日は適当な理由をつけてキャンセルし、そのまま通わず終了。

時は過ぎ、2004年秋頃。

就職することへのモヤモヤはあったものの、使える時間はたくさんあったので、起業につながるような活動には色々と首をつっこみました。

その一つで、友人の誘われるまま、人生で初めて「NPO」という名前がつく団体の活動にかかわります。

岐阜駅前に拠点をもつNPO法人G-net(ジーネット)という名の団体の事務所には、入れ替わり立ち代わり多くの人があつまり、そこには熱気と笑顔がありました。

岐阜の街・商店街を盛り上げる、学生を支援することを事業としているとのことでしたが、社会的に地域的に素晴らしいことをしていることがビジネスとしてなぜ成り立っているのかわかりませんでした。

ただ、そこにはすごく不思議な空気がありました。社会にいいことをしたいという想いの人が集い、とても心地よい、波長も合う人達が集ってました。

NPO職員の人たちの、ボランティアメンバーを束ね、社会的価値のあることに取り組む働き方にも刺激を受けました。自然とテンションが上っていく自分がおり、ノリでその団体が主催する年末のイベントの当日スタッフを引き受けたのでした。

今思い返すと、人生初の軽躁期がその頃。準備は夜から始まるのですが自宅から1時間以上かけてかけつけ、夜遅くまで作業し、友人宅で数時間寝た後早朝に起きて家に帰り、学校に行き、バイトをし、その後またイベント準備へ。。。

その時は

(楽しい、幸せ。こんなの人生ではじめて)

というテンションでいたのを今でも覚えています。病気だとはもちろん思わず、こんな状態になれるんであれば、ずっとこのままでいたい、と思うほどでした。

そして、イベントも終え、岐阜の仲間と共に2004年を終えました。

〜22歳(2005年)〜
2005年に入り、活動範囲は広がります。イベント活動で知り合った東京の学生から誘われれば東京に夜行バスで出向く。関西の学生もいたので、関西にも行く。

(大学4年の最後になって、こんな世界があるのを知るなんて。もっと前にしっていればなぁ)

そんな後悔の気持ちももちながら、悔いのない学生生活をと想い活動してました。

そして4月1日、内定が出た会社の入社日。正直、その日の朝まで入社することを迷っていました。

第3回(22歳:新卒入社での浮き沈み)

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入社日の朝、とても気分が重く、朝起きるのもつらかった。
何とか電車にのり、会社に向かう道で

(ここで引き返すとどうなるんだろう。新卒で会社を入社1日で退職なんて、誰にも顔見せできない。)

そんな考えがうかび、何とか会社にたどり着きました。

私が入社した会社は、名古屋で50年以上続く社員30名程度の食品原料の商社。

なぜ起業志望の私が入社したかといえば、当時60歳近い社長はとても考えが柔軟で、また原料商社というスタイルだけでは生き残れないので新規事業に対しても積極的だったから。

会社の中には既存事業とは違うネット通販事業部があり、「ネットに関わる新規事業を給料をもらいながら考えることができそう」と思ったからです。

また、その事業部長が、私が当時関心をもっていた神田昌典氏(日本でダイレクトマーケティングという「小予算で大きな反響を出す広告手法」を提唱した人。現在は『GQ JAPAN』で“日本のトップマーケター”に選出されている)を知っていて、そのノウハウをもとにネット通販事業をされていたのも、入社の決め手になりました。

(ここに行けば、起業するときのいろいろなノウハウが手に入るのではないか。)

入社前のもやもやは、入社日以降も晴れることはないまま、新人研修として3ヶ月間、食品原料に関わるいろいろな現場をまわりました。

その研修期間の生活リズムはひどかった。定時に間に合うギリギリまで寝て、会社から帰ってきてすぐご飯を食べると寝るという日々。入社早々、モチベーションマイナスのギリギリで働いている状況。あのころも今考えればうつだったと思います。

仕事への興味はもちろん、友達づきあいも最低限でした。その頃に高校時代の友人が結婚式をあげるということで、友人代表の挨拶を頼まれました。

調子が悪いとはいえせっかくの依頼で断ることはできず、いざ挨拶の時には新郎新婦の顔がまともに見れず。

頭が真っ白となり、まとまりなく話終え、「悪いことをした」とひどく落ち込んだのを、今でもはっきり覚えています。

こんなうつ状態でも、ひとつ希望をもって取り組んでいたことがありました。

それは大学時代にNPOを紹介してくれた友人のつてではじめた、私個人で立ち上げたネットショップ。販売するのは友人の実家でとりあつかっている真珠アクセサリーでした。

ネットショップの右も左もわからないなか、当時はブログなどもなかったので、HTMLというウェブページを作る言語を本を読んで独学で学び、見た目にとてもきれいとはいえないサイトを作っていました。

サイトが完成した状態で入社していたので、あとは注文を待つばかり。集客としてヤフーにサイト登録したり、地方新聞に広告を打ったり、個人のお金で投資してやっていました。

入社3ヶ月経った2005年7月。

ネット事業部への配属が言い渡され

「既存のネットショップに関わってもらう気はない。新しい事業をやってくれ」

と、私がもとめていた環境が急に飛び込んできます。

(自分の中で進む方向が決まった!力を出し切ろう)

ある出来事で、真逆のモチベーションになる傾向は今も続いています。何かの使命や目的をみつけると、急に世界が変わり、すべてのことが自分にとってプラスだと思え、想像以上にパワーが沸いてくる。
これはもちろん軽躁サインでもありますが、それだけで片付けてしまうにはもったいないものだと、捉えなおしています。
コントロールできる範囲にこのパワーを飼いならせられないか、今の私がチャレンジしているひとつです。


この新しい事業への配属とともに、プライベートでも変化があります。

それは、真珠アクセサリーの初注文が入るのです。
このときの喜びも、記憶に残っています。

まったく何もなかったところから、自分が関わって形にし、それが誰かの手に届く。ゼロからイチを作ったこの経験は、今後にとても影響を与えるものになりました。

ただ、会社で取り組む方向性が見えたいま、力を分散させたくない。この初注文とともに、真珠アクセサリーサイトは閉鎖、新規ネット事業の立ち上げに注力することになります。

第4回(22歳:刺激ある日々と退職の兆し)

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〜22歳(2005年8月)〜
ところで、私の所属した部は何のネット事業をしていたのか?

主には「海外からペット(主に猫)用品を輸入し、楽天・ヤフーなどのネットショップで販売する」というものでした。

今でこそ楽天は有名になりましたが、2005年当時まだまだ世間はネットでモノを買うことに懐疑的。そんな中で、私たちの部は、ネットショップの販売だけで収益をしっかりあげ、法人化することを目指していました。

ただ、会社から私に言い渡されたのは、「既存の仕事をやってもらうつもりはない、新しい事業を作ること」でした。

(既存の事業にあるモノは活かしつつ、何か新しいことをやれないか?)

経験が無いなりに考え付いたのが、「猫のブリーダーさん紹介サイトを作る。

そして掲載ブリーダーさんに商品を買ってもらう」というものでした。
その当時の猫の販売サイトは、猫の顔と値段だけど温かみも何も無いものばかりでした。

そうではなく、ブリーダーさんが家族同然でかわいがっている猫をそのよさを本当に理解してくれる人のみが訪れるサイトにしたい。 ブリーダーさんも信用できる人だけを掲載したい。

ネットで信頼を確立するため
「掲載ブリーダーさんは全員顔を出す」
「掲載ブリーダーさんは直接取材した人のみ掲載」
「生体保障を1年出来る人」 といったものをベースに作りました。

私は、2001年からネットに興味がありましたが、ネットの中で完結することはしたくないと考えていました。どうやって現実と絡めていくか。

それは新卒1年目で事業を考えたときから、今も同様に変わりません。そして、ネットで信頼を得るためには顔を出すこと。今も私はそのスタンスを大切にしています。

さて話を戻します(今後も過去と現在を行き来しますが、ぜひ、ついてきて下さい 笑)。

このサイトの企画から本実施のときは、楽しくて楽しくて仕方ありませんでした。ブリーダーさんを全国に取材に行き、サイトを作り、販売商品も考える。

全部自分に跳ね返るから全部楽しかった。土日平日なく働いていました。

〜23歳(2006年)〜
そしてひとつの区切りとなる2006年3月、新卒初年度の終わり。

事業としての結果は出ませんでした。結果というのは売り上げ、利益。

ブリーダーさんの取材費用がかさみ、一方販売サイトにつなげる案はまったく機能せず。

そもそもブリーダーさんはペット用品メーカーにとって大口顧客で特別価格で購入していたので、それに対抗しても全く利益が出ないというのが、やってみて分かったことでした。

(私は出来る。特別な存在だ。)

この考えは、今も私のどこかに常にあり、この考えによって苦しめられたことは多々あります。

新卒として新規事業をはじめてやったときもそう。特別だから新規事業に選ばれたんだと。そして、天狗の鼻は見事に折られました。

気分が落ち込む暇も無く、事業部長に言い渡されたのは、

「ヤフーショップの店長をやってくれ」

当時、楽天とヤフーの売り上げ比は8:1で、ヤフーが全く機能していませんでした。

その当時の部長の優しさを今でも覚えています。

「ベースは出来ているから、ゼロから立ち上げるより結果は出やすい。まずは結果を出してほしい」

自信をなくしていた私に、部長はスモールステップで自信をつける道を設定してくれました。

初めての上司の教えは、その後の社会人人生に影響を大きく与えるといわれますが、大切にしている教えはいくつもあり、この部長で本当によかったと思います。

(次の目標が出来た!!)

安易に話に乗りやすい私は、次の標的をヤフーショップの売り上げアップに決め、フル稼働の日々がまた始まります。

まずはサイトの分析。売れ筋商品、アクセス大小の違い、サイト流入元、購入客のページ閲覧履歴の検証…。

施策としては、メルマガを毎週発行。ヤフーはショッピングよりもヤフオクが有名なのでヤフオクに出品して、ショップに誘導。

サイトデザインをリニューアルし、そのリニューアル日にセール、それにあわせて広告も出した。

やれることをすべてやった。この間3ヶ月。でも結果は出ない。

「部長、3ヶ月目で私の給与分もまかなえてないので会社辞めます。自分の給与分を売り上げに当ててください」

こんな見切り発車な発言をして部長を困らせました。

今思えば、3ヶ月で結果を出そうなんていくらなんでも焦りすぎ。でも、私はそのスピード感で動いてきてしまっていました。
部長になだめられて、もう少し仕事を続けようと思いとどまれました。
これにより、自分の中のスピードと、社会が求めるスピードを少しだけあわせることができました。
私の社会人生活は、このスピードを合わせる作業を13年かけてやってきたんだとも思います。


3ヶ月目が終わったとき、売り上げは200%アップ、そして5ヶ月目で300%アップとなり、ヤフー店は私の人件費含めかかる経費を差し引いても利益が出る店舗になりました。

売り上げがみえてきたころから、別の私のクセがあらわれはじめます。

(ショップ店長はルーティン作業だなぁ。飽きてきた。)

そんなことを考えている矢先、部長がある話を持ってきます。イタリアのペットブランドをショップ展開して日本に広めること、それに関わってほしいと。

今振り返ると、最初の会社での刺激の連続が、私の軽躁のベースを作ってくれたのではと思うほど(笑)、ジェットコースター的にいろいろやらせてもらいました。

仕事に刺激とやりがいを求め、飽きたら次にいく。この経験から、その後の働き方も同じように行い、それとリンクするように双極性障害も悪化していった。。

このショップ展開企画に関わるため、私は急遽、名古屋から東京に1ヶ月転勤することになりました。

そして2006年の年末。転勤中での東京でのある出会いで、自分の人生は大きく舵が切られていきます。

まさか、この8ヶ月後、「松浦秀俊」の名前で本を出版し、先生と呼ばれるようになるとは思わなかった。

そして、その後、自分の首にベルトを巻きつけることになるとは。。

第5回(24歳:夢に見た独立と出版、そして挫折)

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親友にも家族にも話したことないこと。
2007年、25歳になるこの1年間の詳細は、ずっと隠してきました。人に話すと軽蔑をされる、恥ずかしい経歴だと思ってきたから。
今回、noteをはじめるにあたって、14年間を振り返ること以外に目的があったとすれば、この2007年の出来事を自分で消化し、開示し、整理をつけること。
そして、次につなげることだと思っています。


〜24歳(2007年)〜
その出会いは、私の行動がきっかけでした。

昔から私は、サプライズが好きでした。人の想像を超えることをして、相手が驚き、喜んでくれる表情がみたかった。

それは友人にはもちろん、過去お付き合いした方への誕生日サプライズは特に、2度同じネタを使わないというルールをつくり、実行していました。

そんなサプライズ好きの私がたまたまネットで見つけた、サプライズ企画を集めた情報商材というものがありました。

情報商材とは、情報を電子化してネット上で販売するもので、お金儲けやダイエットなどのネタを扱っているものが多いです。

世間的に良く思われてない側面としては、中身が販売価格とつりあってないけど、買った人が人に勧める仕組みが、販売手数料が半額もらえるなどして芋づる式にアフィリエイトして広めていく点にありました。(10年前の話なので、今はどうか分かりません)

ただ、そのサプライズのものは2,000円とお手頃で、興味もあったので購入してみると、その巻末に「私は起業塾に在籍して活動している。

興味あれば気軽に連絡ほしい」と一文ありました。

その商材の製作者は22歳で千葉在住。

(自分より年下の人が起業を目指して活動している環境がある。ちょうど東京に来てるし会ってみたいな。)

思い立ってうごけるのは、軽躁なのか私の気質なのかは未だにわかりませんが、その勢いで連絡先をいれたメールを送りました。するとすぐに着信があり

「今どこに住んでらっしゃるんですか?一度、こちらに来ませんか?」

とんとん拍子に合う日にちが決まり、そして当日。

千葉の某所に着くと、その製作者は待っていてくれました。とてもさわやかな好青年で、裏表のない印象。ちょっとした会話から、頭の切れる人だなと感じました。

「起業を支援している塾はこの近くの、塾長が借り上げているマンションの部屋でやってます。いきましょう。」

いざその場所に向かうと、普通の新築マンションの一室、リビングに、塾長がいました。

その方は、事故で身体に障害を負ってから普通の仕事が出来なくなったので、ウェブで行える仕事を考え起業。ニッチな分野ではあるけどもその世界では知らない人はおらず、事業は順調。

その起業ノウハウを若い人に伝えるべく塾をはじめたとのことでした。また、学生時代の部室のノリが好きなので、マンションの一室をかりあげ、若者にそこを開放して必要なことを支援していました。

ほかに興味を持ったのは、私が関心を寄せていた神田昌典氏の主催する会に長年在籍し、そのノウハウも活用してウェブ事業をやっているとのことでした。

この塾への参加条件は「塾に通える人。塾代は無料、ただ在籍中に立ち上げたビジネスの利益は折半。年齢は25歳以下の若者」

私はそのとき24歳で、8ヵ月後には25歳になり、その塾には通えなくなります。

(私はここに来る運命だ。会社を辞めてここに来よう)

ここからは一気に軽躁のドライブが入ったのだと今振り返って分かります。
千葉から東京に戻ってすぐ、上司にメールをし、名古屋に戻ったら話があると伝えました。

そして戻って早々、退職を申し出る。止められても引かず、「入社したときに話した起業のタイミングが今なんだ」と熱弁。

結果、会社の規定では一ヶ月前に退職を申し出ないといけないのが、その話をした月末付け、実質20日弱で急遽退職となりました。

家族には、辞めた話が決まってから報告、2月に千葉に移り住むため、愛知の実家でネット上の情報だけで下見もせずに住む場所を決め、一人暮らしがはじまりました。

千葉に移った初日、塾長へ挨拶に行くと

「本当に来たんだね。大体の人は来るっていって行動しないから、来ただけでも見込みあるよ。」

そんな言葉をうけて有頂天になり、その日から塾に泊り込みながら起業の勉強を始めました。

(正直、起業が出来れば、内容は何でもよかった。)

これが本音です。なんとなく25歳までに独立、起業したい。父親も事業やっていたし、自分も出来ないことはない。そんな思いで起業準備をしていました。

塾の環境は、同世代の男女5名が塾生で、男性は塾に泊まっても可な状況でした。お互いに情報交換をしながらアイディアを考える。

ネットのいろいろな側面をしり、情報商材の裏の部分もたくさん知りました。

もちろんお金儲けに偏っているものも多いですが、人に買ってもらうための仕組み、ノウハウはほかの業界でも通用するものが多く、その後就く仕事で幾度も活用しました。

塾生になって一ヶ月経った頃。

起業のネタを模索していたある日、私の好きなテレビ番組のひとつ、がっちりマンデーを見ていました。

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(セカンドライフ?ネット上のお金が現実世界のお金に換金できる?1億円稼いだ人もいる?)

セカンドライフを皆さんは覚えていますか?2007年に日本に参入することがニュースになると企業が次々参入、連日メディアで話題となり、社会現象にもなったものです。

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(これはすごい。全く新しいものならば、誰よりも早く研究して世に発信すれば、第一人者になれる。これしかない!)

これも私の気質なのか、新しいもの、最新のものが昔から好きで、飛びつきたくなる衝動があります。起業のネタをさがしていた私に、セカンドライフ(SL)はぴったりでした。

時間と、貯金した少しのお金はあったので、SLに関する書籍を海外から取り寄せ読み漁り、日本でも数少なく学術関係が主催のセミナーに数万円払って参加し、誰よりも詳しくなることを目指しました。

SLの魅力はネット上でリアルなお金が稼げることだったので、それを題材にするセミナーをいち早く企画し開催。

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事前に塾生相手にも練習をしましたが、人前で話すことがいやではない、むしろ人に何かを教えることが楽しいことをそこでは感じました。

ここでの楽しいと思える感覚は、現在の仕事で、20人くらいの前で日々プログラムのファシリをやることにつながり、活かされています。

セミナーを開催したところ、そこそこの値段だったにも関わらず全50席は満員、その後、その模様を収めたDVDも100枚近く売れました。

塾長が、知り合いの出版編集会社の社長に私の取り組みや反響の話をしてくれたところ

「ぜひ、書籍を出しましょう!商業出版です。初めての著書になるので印税は10%になりますが、セカンドライフはブームなので初版は1万部近くはかたいと思います。」

3ヶ月前は普通のサラリーマンだった私が、自分の名義で書籍を出す。

あまりの急展開に驚きを覚えながらも、この波に乗らない手はないと二つ返事でオッケーをしました。

そこからの2ヶ月は地獄のような日々。

もともと文章を書くのは嫌いではなかったですが書籍にするとなると文章量の桁が違う。

来る日も来る日も文章を書き、またSLの中でのキャプチャ画像をとり。また、稼ぐ方法を集めた書籍にするというテーマだったので、SL内をまわって、実際にビジネスをしている人にインタビューもしました。

軽躁のエネルギーによって執筆活動の序盤は乗り切れたのですが、残り1章となったところで、気分が落ちてきます。それとともにマイナスの考え

(正直セカンドライフはブーム、自分でやっていても長く続かないものだと分かる。そんな中、セカンドライフの第一人者みたく書籍を出して世に出て、ブームが去ったときに私はどうなるのか。)

そんな考えが頭を占め、塾長に本音を伝えたところ

「辞めるのは松浦さんの自由だよ。でも、ここでやり切ったかどうかは今後の人生にとても影響があるよ。」

その言葉をうけ、逃げずにやりきろうと最後の力を振り絞り入稿完了。やり切ったことをキッカケに少し気分は持ち直します。

書籍の発売日が8月に決まり、その販売にあわせていろんな企画を考えました。

ひとつはアマゾンのビジネスジャンル一位を目指すため、特定の日に一気に書籍を購入してもらう施策。

アマゾン経由で買ってくれた人限定の特典もつけ、私も一世一代の書籍販売なので身内友人かまわず購入をお願いしました。
(その当時買っていただいた皆さん、本当にありがとうございます)

また、8月にはSL関連の書籍を出されている方との対談イベントを、100人近く入る会場でやることも決まりました。

そして書籍が販売。キャンペーンは成功し、ビジネス部門で一瞬売り上げ1位となった画像をキャプチャにとり、それをセミナー集客素材として使う。

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また、出版社からは売り上げ好調で重版になると連絡がありました。

塾長含め、周りが喜んでくれる中、私の内面は複雑でした。

(無理して作り上げた自分がどんどん大きくなっていく。扱いきれないものになっていっている。怖い。でも言えない。)

話は少し脱線しますが、本が出る時、一世一代のサプライズもしました。当時名古屋時代から付き合ってた人がおり、私が千葉に移って数ヶ月後、東京に就職。

このタイミングしかないと、出版を機にプロポーズをしようと考えます。

方法は、書籍の中にメッセージをしのばせること。今回の書籍はSLの中の画像を多数使っていたため、編集者にばれないように、その画像の一つに、プロポーズの言葉をしのばせました。

そして出版したときにプロポーズ。オッケーをもらいました。

セミナー開催が近づくにつれ、日に日に怖さは増し、眠れない日が続きます。

セミナー当日は、全てに自信がなく、登壇時間も予定より10分早く切り上げてしまう始末。なんとかやりきった後、自分の中で張り詰めていたものが切れます。

(消えてしまいたい)

塾長にメールで、起業は辞めること、印税は全て塾長に渡すこと、不義理を切って申し訳ないというメッセージを伝え、それ以降、来る連絡は一切拒否。

数日、一人暮らしの部屋に引きこもり、収入なく家賃や食費だけかかる現状が怖くなり、彼女に連絡して相手の家に転がり込む。

彼女は日中仕事なので、その間は部屋に閉じこもり、帰ってきても私はコミュニケーションもとれない。

何より怖かったのは、書籍、セミナーとネット上に露出した自分の存在がどうなっているのか考えることでした。とてもネットには近づけない。

どんどん落ち込み、彼女ともケンカが増え、限界をむかえてきたとき、実家に戻る決断をします。

母親に甘えることができない自分、大見得を切って家を出たのに、うつで帰るという事が恥ずかしかった。

でも、もう危ない、落ちつく場所がないという危機感から母親にメールをしました。

「うつが再発して、もう、こちらにはいられません。家に戻っていいですか?」

「わかった。待ってるよ。」

何があっても受け止めてくれるのが家族。大人になって、本当の意味で甘えられたのが、この時がはじめてでした。

第6回(25歳:都落ち、うつで実家に引きこもる)

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〜25歳(2007年10月)〜
「会社を辞めるからには、今度名古屋に帰ってくる時は独立が間違ってなかったと証明して戻りたい。」

そんな想いを持ち、名古屋を出たのが同年2月。

8ヶ月が経ち、起業を諦めるという結果で戻ることになり、「友達や前職の人に合わせる顔がない」という考えが第一にありました。

そのため、実家にいることは誰にも連絡をしませんでした。

出来るだけ、人目に触れないように外出は夜中。

午前はひたすら寝て、NHK朝ドラの昼再放送がはじまる時に起きる。午後も何をするでもなく、ボーっと家の天井をながめ気づけば夕方。

母が作った食事をとり、風呂には数日に1回入るかどうかで、部屋に戻って夜中までケータイをみる。

その頃は、「うつ ●●」とか「消えたい」とかを検索していました。

(自分はどこで間違ったんだろう。友人は皆、有名企業で働いて頑張っている。自分は何をしているんだろう。)

完全に自信を失い、1ヶ月間、部屋にひきこもりました。

ありがたかったのは、母がほとんど私に干渉せず、私の過ごしたいようにさせてくれたこと。変にプレッシャーを感じないで過ごせました。

この時はまだ、私自身は双極性障害と気付くことなく、「うつ病だろう」という認識でした。

このひきこもりの時期、落ち込んだ時の話だけを医者に伝え薬を処方してもらいましたが、服薬も一週間で辞めました。

ひきこもりを1ヶ月続けると、徐々に気力も湧いてきました。

余談ですが、ちょっとした好奇心で、自分の名前をネットで検索しました。すると、某掲示板に私の名前があり、セカンドライフに関わる取り組みでの中傷を発見。

気力は回復してましたが、やはりダメージは相当なものでした。

関連して、セカンドライフの書籍を出した出版社がこの年の11月に倒産。

私の本は重版がかかっておりましたが、重版分のお金は入って来ず。でも、内心ではとても喜びました。

(私とセカンドライフを紐付けるものが、これ以上世の中に広まる事はなくなった)

不幸中の幸いとは、まさにこの事かなと思いました。

(そろそろ働ける状態になってきたな。転職活動をしよう。職についていないと友人に合わせる顔がない)

その当時の私は、肩書や世間体をとても気にしていました。

友人も「社会に属している松浦」を求めていると思い、その状態に戻るまでは友人として認めてもらえないと、本気で思っていました。

転職を考えるにあたり、「自分には何ができるのか?」を考えると、やはりWeb関係の仕事。

プログラミングができるわけではないので、企画や営業だろうと考え、名古屋でそういった求人を探しました。

転職活動で大いに活用したのが「出版の経歴」でした。

一度は「負の遺産」と考えていましたが、使えるものは使っていこう、独立した結果を表すには一番わかり易いものだと考え、どんどんアピールしました。

とは言え、あまり広めたくないという矛盾する気持ちもありましたが。。

それが功を奏したのか、すぐに転職先は決定。Webや印刷物、また企業のビジョン策定に至るまで幅広くやる、20名規模の会社でした。

Web営業、正式にはWebプロデューサーという肩書をもらった新しい仕事。
入社早々、私の悪い考えが出ていました。

「”本を出した人”として入社したので、周りもそういう期待で見てくるだろう。だから私は自分ひとりで結果を出さないと行けない。」

最初は仕事のやり方を人に聞いて学んだのですが、2ヶ月目からはどうにか1人で結果を出すために必死でやりました。

終電近くまでやるのが日常で、土日も暇あれば出社して、提案資料作り。

新しい環境は私の軽躁のキッカケにもなります。

入社前、あれだけ落ち込んでいたのに、転職が決まり、働きはじめると、気分はどんどん上がり、その状態だからこそ、長時間の仕事も乗り切っていました。

〜25歳(2008年)〜
年も明け、自分自身を追い込む傾向がより強くなります。

上司が社長という環境でもあったので、知らない間にプレッシャーを感じ、早く結果を出さなければと考えていました。

そして、とある見積もりを独断でクライアントに提出し、金額面で大きなミスがあり、自分を追い詰めてしまう出来事が。

(明日が来なければいいのに)

そう思って眠りについた翌日。どうしても朝会社に行く気力がわかない。行かないといけないとは思っているが、行くことが出来ない。

未熟だった私は、会社を休むという内容だけをケータイからメールし、そのままケータイの電源を切り布団に潜り込みます。

実家にも電話がかかるかもしれないと思い、電話線を抜く。

(全て遮断して眠って、起きたときには解決していてほしい)

眠る瞬間が一番安心感があり。目覚めた時に大きな自責の念が湧く。

夕方になり、意を決してケータイの電源を入れると、着信が複数回あり、心配をしている旨の連絡。

そして翌日の朝。昨日休んでしまったという罪悪感からまた出社出来ず、休む。

悪循環が重なり、このままでは示しがつかないと、病院に久々に受診をし、うつの診断をもらって会社に連絡。

人生で初めて、休職を経験することになります。

第7回(25歳:人生はじめての休職と復職と…)

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〜25歳(2008年3月)〜
今回の転職時、マイナスと思う部分は伝えなかった。つまり、うつ病ということを隠しての入社でした。

(バレないようにしたい。うつの症状は出てくれるな。)

そう願い、後ろめたさを抱え続けながら働いていたため、会社にいけなくなった日には、「遂にこの日が来てしまった」という心境でした。

多くの中小企業と同様、この会社でも休職者対応のノウハウがあるわけではなく、一定期間休んで、戻ってきたら以前の勤務時間で業務を再開するものだ、と認識されていました。

休職中、連絡経路が一本化されていたわけではなく、仕事上かかわりあった複数のスタッフとメールでやりとりをしました。

それにより、辛くなる時もあれば、私の復職を待ってくれていると励まされることもありました。

復職後しばらくは、私が仕事を抱えないように、定期的に会議を行い状況を共有する場もありましたが、数ヶ月後には日常の忙しさから共有時間も減っていき、また私も視野が狭くなり...。

大きなコンペ案件の担当となり、提案書作成をチームで行っていたのですが、私のパートだけ完成できないまま、それをギリギリまで隠し、提案日前日にまた、引きこもりました。それは、最初の休職と同じように。

(もう、2回目の復職はないな。。)

勝手に自分で決めつけ、辞めることを覚悟した上で、休職の意向を伝えました。

(起業してもダメ、転職してもダメ、休職して復職してもダメ。仕事ができない自分は社会に必要とされていない。)

ぐるぐる毎日考え込み、最終的には「消えてしまおう」と決意します。

昼過ぎ。家には私以外、誰もいない時間。

物置き部屋にある洋服ダンス。

その取手にスーツ用のベルトを巻き、そこに首を通す。

そして、身を倒す。



「ブチッ!!」

すぐにベルトは切れ、少しのアザが首に残りました。

(自分で消えることもできない。人生から逃れられることはできない。

逃れられないなら、死をあきらめ、生きよう。ここで一回、無くなってしまってたかもしれない命。

ならば、これからを余生だと思って、
良い事がちょっとでもあればラッキーくらいの気持ちで行こう。)

そんな考えにいたりました。

この自殺経験は、過去誰にも話したことありません。2017年末、社内で自殺予防研修を受ける機会がありました。私が、利用者の方への面談時に、自殺の項目を聞きづらく感じていることを他スタッフに話すと、以下の返答がありました。 「病気が自殺という考えや行動を起こさせており、恥ずかしいものではない。むしろ、支援者側が自殺ということばを触れずらくすると、利用者さんも言えなくなる。」 正にそうだ、と納得しました。私が過剰に自殺を捉えていたのは、自分が過去それを行い、恥ずかしい過去として封印してきたから。今なら、それは病気がさせたものと整理できたため、noteに書くことで消化したいと思いました。


〜26歳(2009年)〜
休職中、体調が落ち着くまではゆっくりして、持ち直してから退職意思を会社に伝えました。退職して早々に、転職活動を始めました。

ちなみに、うつで休んで退職、軽躁で活動的になって転職、と職を転々としてしまうことは、双極性障害では起こりやすいと言われています。当時の私はうつ病だと認識していたため、全く疑問もなく、元気になったらはい転職!、とアクションしました。これが、危険な選択だとも知らず。。
今回の転職先を探すのに重視したのは、病気のことを考え、負担少なく実家から通える距離の会社という点。

あとは、名古屋のWeb業界は狭いため、私の良くない評判も広がっているだろうと考え、Web制作とはジャンルをずらした職を検討。

そこで、考え至ったのが「Webマーケティング」。Webを使った集客などを企画する仕事を探そうと決めました。

エントリーした会社は、東京に本社のある上場企業。名古屋にもオフィスがあり、1次面接は名古屋で受けました。

出版の話でアピールし、病気については開示せずの面接でした。

その選考結果を待つ間、友人経由でも転職先の紹介がありました。その友人は、過去に、NPO活動や真珠のネット販売に関わるキッカケをくれた友人です。

「仙台本社で、東京にオフィスがある福祉の会社。障害のある方の就職を支援する会社の営業部長が知り合いで。
今度、名古屋に来る予定があるらしいんだけど、Web周りのわかる人を欲しいらしく、話だけでも聞いてもらえない?」

(福祉?障害のある方??)

私が今まで職を選ぶ上で、選択肢としてなかったワード。

正直、断ろうかとも思いましたが、過去、何度も私の視野を広げてくれた友人の頼みだし、ということで会うことを決めました。

そして、約束の日。

その営業部長は小柄で、見るからに20代前半の青年。

(この年齢で営業部長って、すごいなー。)

と思ったのが第一印象。そして、すごい熱量で自社について語りはじめ、私の持っていた福祉のイメージをがらりと変えるものでした。

「こういうモデルのサービスを障害のある方ご本人や、東京で急激に規模拡大している企業さんに広めていきたい。
それにはWebが欠かせない。
ぜひ、ウチに来てくれませんか。すぐには決められないでしょうから、東京の事務所に一度遊びに来てください。」

今まで、自分の生きてきた世界とは違う目線の話をしている感じがしました。

社会全体を良くする、そのためにビジネスという手法を用いる「ソーシャルビジネス」というジャンルに分類される取り組みの話。

オファーを受けた2008年は、まだまだ「ソーシャルビジネス」という言葉は広まってません。

新しいもの好きの私は、ブロードバンドによってWebサービスが広まりはじめた2001年の時のような、まだ多数は気づいていないけど、大きな可能性を秘めたものなのでは、と直感が働きました。

ソーシャルビジネスの会社のオファー後すぐ、最初に選考をうけた会社の2次面接の案内も来ました。

明らかに後者がソーシャルビジネスは魅力的だが、今の自分が東京はハードル高いし、と迷っていました。

上場企業の方の2次面接は、東京実施で交通費支給だったので喜んで参加。
面接には社長も同席、色々話を聞く中で、なんか違うと思ってしまいました。

(お金を稼ぐ、出世するというところが重視されている。社会的な価値が見出だせない。長く働けるイメージがつかない。)

その評価は、ソーシャルビジネスを基準としている自分がいました。

(東京にせっかく来たし、あちらの会社のオフィスでも遊びにいこう)

と軽い気持ちで営業部長の方に連絡をして、指定の時間にオフィスへ行きました。

さっきの上場企業は都心の一等地ビル。

それとは対象的な、雑居ビルの一室。20人くらいがギリギリ入るくらいの広さのオフィスで、一つだけある会議室に通されました。

気軽に来たつもりが、そこには営業部長以外に2人。採用担当の方と、社長もいらっしゃいました。

「で、いつ来れますか?」

テレビや本で見た、Theベンチャー企業のオファー面接がそこにはありました。

第8回(26歳:軽躁の勢いで再び都のベンチャー企業へ)

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〜26歳(2009年1月)〜
「で、いつ来れますか?」

(本当にこういうのってあるんだなぁ。東京って凄いなぁ。)

私はもともとテレビっ子。

生まれは島根県で、昔からテレビの中に見る都会への憧れと偏見が強かった。

「いつ来れます?」という言葉に、東京感というか、何となく凄いと感じていました。

(私を必要としてくれる所があるなら行きたい。ソーシャルビジネスという分野の可能性を感じるし、こんなメンバーと一緒に、やる気に満ちた環境でやってみたい)

「ぜひ、お願いします!」

給与条件も聞かず、面白そうという思いだけで、即決しました。

その後、採用担当の方から個別に給与掲示があり、私の想定を遥かに越えた金額に衝撃を受けました。

(それに見合った働きをしないと行けない。)

入社を決めた瞬間から、ギアがトップに入るような、本気を出すぞ!という、内面からくるやる気が湧いてきました。

もちろんそれは、軽躁のサインでもありました。

※これ以降、入社を決めた会社をC社として話をすすめていきます。遡って、1社目に入社した会社をA社、2社目をB社とします。

ここでC社について改めてご紹介。私が入社した時点で、創業から4年目。私は社員番号60番、全国に拠点は4ヶ所程度の規模でした。そして2017年、C社は社員数は1,800名を越える上場企業となっています。私は2年間のだけの在籍でしたが、急成長するベンチャーの初期に関わり、実際に働けた経験。また、そんな時期に集まってきた刺激的な人たちとのご縁は私の財産となっています。軽躁と紐づくとは言え、私の直感は間違いなかったと思いますし、今後も、軽躁を飼いならしながら直感を信じて行きたいです。「軽躁の時の言動、全てをワルモノにしない」。そんな気持ちを、今は持っています。
C社内には、Webマーケティング担当はもちろん、Web関連の社員もいないため、私がやれることは限りなくありました。

営業部長は以前、Web系企業の経験があったため、社内で唯一、私の取組みに理解がある人。

私が何かをやるときは、部長と共にすすめていく形となりました。

2009年3月の入社早々、軽躁の私は早速、社員さんを巻き込みます。

「Web担当としてはこういう戦略で考えている。なので、営業の人にはこういう事を協力してほしい!」

入社までに準備したWeb戦略資料をもとに、一方的に提案をする。

皆がWebに理解が薄いだろうと考え、勉強会を企画して参加を促す。

東京拠点には、私が現在働くリヴァ代表の伊藤さんもいました。

当時の伊藤さんは役員のお偉いさんで、営業メンバーとしても活動されていました。

「なんか変なヤツが入ってきた。空回りしてるなー」

これが、伊藤さんの松浦に対する第一印象だったとのこと。

私は周りがうろたえる位の勢いで、でもそれに私は全く気づかず、社内を無理やり巻き込んで行きました。

入社して間もなく、東京拠点も手狭になったとのことでオフィス移転となります。

私は名古屋から出てきていた事もあり、会社が借り上げていたマンションにて寮生活。

オフィス移転後も、オフィスから歩いて10分の場所に住むことになりました。

したがって、私の働き方は、過去のA社、B社と全く違う、どちらかといえば、独立していた頃に近い働き方をしました。

朝7時に起きて8時には会社に着く。19時まで働いて晩ごはんを食べに一度帰宅。20時にまた会社に来て24時近くまで仕事。

東京に友人が居たわけでもなく、これといった趣味もない。

仕事が一番楽しい状態だったので、土日も暇があれば会社にいました。

そんな仕事の姿勢は、客観的には「とても仕事熱心な人」と写り、営業部長からも評価されていました。

入社後すぐの業務、会社のHPリニューアルを担当し、それをほぼ一ヶ月の突貫スケジュールで完成させました。

そして、6月にはその結果を受け、部門のMVPというものをいただきました。

ただ、その勢いも長くは続かず、7月頃から失速。

だましだまし出勤するも、たまに休んだり、土日は寮の部屋で引きこもる日が出てきます。

(またこのパターン。マズイ。。)  

さらに追い打ちをかけるように、寮の引越し担当になり、考えることもままならない中、会社からの距離と金額だけで物件を決定。

すると、日差しの全く当たらない。築40年?くらいの古いアパートになりました。この時の部屋の選択も、のちのち大きく影響します。。

実家と違い、寮には他のインターン生も同居していたので、完全な引きこもりはできません。

でも、それが結果的によかったのか、だましだましの勤務と、家でも適度にインターン生を意識して活動性を保っていたので、秋頃には持ち直しました。

話は戻りますが、8月、営業部長が急遽、社長に就任となりました。

部長の考え方やスタンスは身近でみていました。

私も一時期、起業を考えてもいましたが、「こういう人が社長に適した人。私はそういう志を持った人を支えるナンバー2が向いている」。

今、リヴァで働く理由も、ここにつながる部分はあります。

〜27歳(2010年)〜
この年、私の「広報」というキャリアが新たにはじまることになります。

きっかけは、会社がとある賞を受賞し、Web担当の私としては、「受賞を糸口に、もっと多くの人にウチを知ってもらえると、結果Webアクセスも増えるのでは?」と考えました。

また、その当時、「戦略PR」という書籍を読んでいたことも影響します。

その本は、社会的な事柄をメディアにとりあげてもらい、自社の取り組みとリンクさせ、消費者の意識を変えていこぅ的な内容で、ちょっとした話題になり、自分も試してみたい内容でした。

私は、受賞をネタに、ググりながら、見よう見まねでプレスリリースを作成。

私の部に配属されていたインターン生に、ダメ元で「投げ込み」を依頼します。

投げ込みとは、省庁などにある記者クラブという各メディア担当の方が常駐する場所にプレスリリースを渡しに行く、正確にはそこにあるボックスにリリースを「投げ込む」ことを指します。

(一回投げ込んだところで、連絡、来るわけないよなー。)

と思っていた時、

「プレスリリースを見ました。日経新聞の●●です」

なんとあの、日経新聞さんから電話がありました。

そして、トントン拍子に掲載へ。

(広報って、会社的に行けるんじゃないの?)

というムードになり、すぐに広報という業務がC社に生まれました。このスピード感がベンチャーの良いところ。

日経新聞掲載は、私のテンションを一気に上げていきました。

この「広報のお仕事。特に、メディア掲載」は、今後の私の軽躁をドライブさせるものになっていきます。

第9回(27歳:閉じた心を開いた人)

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〜27歳(2010年1月)〜
C社に広報という業務が生まれたこの年、私が並行して担当していたのが「新規事業」でした。

前職でWebサービス企業にいた社長にとって、C社の中でWebサービスを立ち上げることは悲願。

Webマーケティング担当として入社した私がリーダーに抜擢され、その期待に応えるべく必死でチャレンジしました。

私の特性上、自分ごとより人ごと、人の依頼に力を発揮する傾向があります。このときも、期待に応えたい一身で平日土日問わず新規事業のヒントを探しました。

この年の4月入社予定の新卒A君が、インターンとして新規事業に配属されました。

A君は見た目こそゆるい雰囲気ですが、めちゃめちゃ頭脳明晰で、ズバッと本質を見抜いて質問を投げかけるタイプでした。

彼の質問に、私は度々ドキッとさせられ、「新卒でも、こんな優秀な子がいるんだなぁ」と感心してました。

A君とともにWebサービス立ち上げを準備し、広報も部として新しくスタート。私のテンションもどんどんあがり、過活動が増します。

そして6月、上がり続けたテンションがエネルギー切れを起こし始めた頃、いろんな不安が頭をもたげてきました。

(このWebサービスは本当にうまくいくのだろうか?)

(新規事業のリーダーとして、自分は率いていけるのか?)

(今まで何度も気分の落ち込みがあったのに、ずっとやっていけるのか?)

(私がリーダーなのにA君のほうが優秀だ。私はリーダーの資格がない)

またもや、過去の繰り返し。いつものパターンで会社を1日休み、2日休み。そして音信不通となり。。。

C社でも会社を連続欠勤する状態になってしまいました。

「ドンドンドン!! まっちゃん、いるんでしょう?」

寮のドアをたたく音。私を呼ぶ声は、社長の声でした。

会社を休んだ私を、業務時間中に寮まで訪ねてきてくれたのでした。

正直、最初は「何で来たんだよ!」と思ったのですが、無理やり私の懐に入ってくる強引さが、実は嬉しくもありました。

(そこまで心配してくれる、必要としてくれる人がいる。)

今までの私の悪いパターンは、調子を崩すと自分で殻に閉じこもり、周りに迷惑をかけまいと関係を断つ、会社から去る決断を一方的にしてきました。

ほかの人が入り込む隙もないくらいの短期間に。

今回、社長はいい意味でそのパターンをぶち壊して来てくれました。

自分で断ち切ることは出来ませんでしたが、私を必要としてくれる人がいて、その人としっかり話をすれば早まった判断をせず、落ち着ける自分に気づけました。

社長と話し、落ち着いたことで、次の日からまた会社に戻りました。

でも、やはりリーダーのプレッシャーは変わらず。

数日すると、また休んでしまいます。

「ドンドンドン! 松浦さん、いるんでしょ?」

その声は、広報チームのリーダー、私の上司の伊藤さんでした。

人事部の青木さんも一緒に来ていて、近くの喫茶店で話をすることに。

そこで、私の過去、うつ病の診断を受けてきたことや、気分の浮き沈みの話をしたところ、青木さんから出た言葉は、

「それは、双極性障害じゃないの?ちゃんと診断受けたほうがいいよ。」

(そうきょくせいしょうがい??)

(はじめて耳にした病名。自分はうつ病ではない?)

早速、ネットでその病名を調べてみました。

「そうそう、それそれ!」と自分の症状とまさに一致するのでした。

(私はうつ病ではないのではと思ってた。自分がおかしい、社会不適合者だと考えてた。自分に当てはまる病気があったんだ。)

とても安心したのを憶えています。

その後、青木さんのススメで通院した病院で、正式に双極性障害の診断を受け、休職へ。

青木さんは休職の手続きとともに、傷病手当金をもらえることも教えてくれ、お金の不安も軽減されて休むことができました。

ただ、この時は、診断は受けたものの、双極性障害の対処を特にするわけではなく、薬と休養のみでした。

1ヶ月ちょっと休み、仕事復帰後は、懲りずに広報業務に全力で取りかかりました。

この頃は世間でツイッターが話題になり始めた頃。私は広報担当という肩書を利用し、業務中でも常にツイッターを追ってました。

1日100ツイート近く行く日もざらにあり、他社の広報の人から「C社の広報の人、大丈夫?」と噂されたほどでした。

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上図.ついろぐというサイトでツイート集計した結果。
2010年9月は月間1,700回、多い日で1日100回ツイートしていた。

新規事業はリーダーという立場からははずれ、少し荷がおりてはいましたが、新しいことに関わる刺激は、気分を継続的に上げるものでした。

〜28歳(2011年)〜
年もあけてしばらくたった頃、伊藤さんから話があると声をかけられました。

「2月で会社を辞めて、独立するんだ。」

信頼していた上司が辞める。ショックではありましたが、全力で応援したいと思い、社内の有志に声をかけて、サプライズムービーを作成しました。

送別会の日に上映し、驚きながら喜んでくれた伊藤さんを見て嬉しくもあり。

自分の中で、伊藤さんを送り出した後、燃え尽きたような感覚がありました。

また、C社の規模が急激に拡大した時期でもあり、このごろ移転した新しいオフィスに移ったとき

(ここに居場所は無いのかもしれない。)

と、直感的なものを感じました。

そう私が仕向けた部分もあるかもしれないですが、伊藤さん送別会から数日して、私はまた、休職の日々に入っていきます。

(もう、このまま退職しよう)

そう気持ちも整理しながら、通院に向かっていた3月11日。

地下鉄の構内にいた私は、ひどく地面が揺れる感覚に襲われます。急いで地上に出ると、それが地震だと分かりました。

第10回(28歳:福祉サービス、社会復帰トレーニングでの3つの気付き)

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〜28歳(2011年3月)〜
通院途中に体験した大きな揺れ、東日本大震災。震源が東北方面という情報が入り、C社の本社や拠点が東北にあったので

(あの人は大丈夫かなぁ。。)

と、身近な存在が頭に浮かび、とても他人事ではない心境でした。

とはいえ休職の身。

家でテレビを見て過ごすのが日課になっていたため、ACジャパンのCM、震災のニュース、緊急地震速報の音が繰り返される日々で、ただでさえうつ状態なのに、更に気分が滅入っていきました。

そんな中、一緒に新規事業立ち上げをやってた新卒A君から、私を心配するメールをくれました。

とても嬉しく、社会と繋がれている感覚が持てました。

C社は、3月末で休職状態のまた退職。

そのことを元上司の伊藤さんに伝えていました。

私を心配して「農作業は、うつに良いらしいよ」と、知り合いの農家さんのところに誘ってもらいました。

でも、1回目は当日朝にドタキャン。

そこを懲りずに誘ってもらい、少しずつ通院以外で外に出ることができるようになりました。

そんな時、改めて、伊藤さんが退職して、今後何をやろうとしているかの説明を受けました。

「うつ病などの精神疾患の方に特化した、社会復帰サービスをやろうと思ってる。病気で会社を辞めた人、または休職中の人が通えて交流できる場所、再発を繰り返さないようなトレーニングをし、今までの働き方、生き方を見つめ直す場所。
松浦さんにも、使ってもらいたいと思ってる。
新しいサービスなので、利用しながら意見ももらいたい。どうかな?」

私としては、他に何かやるあてもない。

トレーニングのイメージは正直つかなかったけど、伊藤さんからの提案であれば悪いものではないだろうと思い、利用を決めました。

”障害福祉サービス”というものだということで、利用手続きとして、住んでいる区の障害福祉課に問い合わせをし、担当の保健師さんと面談。その後、障害福祉サービス受給者証というものが発行されて正式に利用ができました。

〜28歳(2011年6月)〜

株式会社リヴァの社会復帰支援「オムソーリサービス(現リヴァトレ)」の利用が始まりました。

当初の利用者は3名。

手続きが間に合って、正式利用となっているのは私1人。

に対して、スタッフは4名という環境でした。

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開設まもないトレーニング施設内(写真中:青木さん 右:伊藤さん)

スタッフの中には、C社で人事をやっていた青木さんもいました。

過去のカウンセリング経験や人事経験などを駆使し、プログラム全体設計やコンテンツ作成などトレーニングの中身を構築したのが青木さんでした。

私は利用者でもあり、プログラムについて随時感想も聞かれていたので、一緒にサービスを作り上げていく感覚もありました。

それが私にはよかった。

自分が必要とされているという感覚は、自信につながりました。

双極性障害という視点で振り返ると、6月にサービスを使い始めた時から、私は軽躁になっていました。

気分が上がるパターンである「新しいこと」に関わっていたことが大きいです。

トレーニング開始時から青木さんに伝えていたため、「軽躁で上がってしまう気分や行動を抑える取り組みをしてみよう」という話になりました。

軽躁は通常以上にエネルギーを使っている。

すると、いつかそのエネルギーが切れてうつの方に落ちてしまう。

なので、軽躁でのエネルギー放出をおさえ、うつの下がりすぎを止める。

青木さんの説明がとても分かりやすく腑に落ちたので、人生ではじめて、軽躁状態をおさえることに取り組みました。

余談ですが、青木さんとはFacebook、twitterでもつながっており、私が軽躁時に投稿が多くなると、ダイレクトメッセージで「活動しすぎじゃない?」と連絡が来ました。笑 
監視下におかれてはいましたが、自分では気付けないので信頼できる相手であればそれ位協力してもらえると、対処訓練のひとつになるなと思います。
実際のトレーニングで、特に自分によかったものをあげるとしたら、以下の3つです。

1.グループワーク「マネージャーゲーム」

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5人1チームで取り組むワーク「マネージャーゲーム」。

これは、マネージャー(MG)1名、グループリーダー(GL)2名、スタッフ(S)2名という役割をきめ、役職ごとに別の指示書が渡されます(組織内の情報格差を再現)。

その指示書の内容をもとに、メールに見立てた小さいメモ用紙にお互いに依頼したいことを書いてやりとりをし、ミッションを達成するというもの。

ここで私が一番学んだのは、「コミュニケーションレベルを上げる」ということでした。

過去の私の仕事のやり方は、メールでの仕事依頼や調整が当たり前。電話や会って話す労力を惜しんでいました。

結果、メールだけでやろうとして話がこじれ、ストレスがかかり、病気にもつながる。

文字だけのやりとりでは限界があり、言葉以外の情報、相手の声や表情にあらわれたりするものが実は大事だったり、本音が混じっていたりする。

また、文字だけだとビジネスライクになりがちなので、メンタル面のフォローができるという点でも、少しでもこじれそうならメールよりも電話、電話よりも会う、というコミュニケーションの手段を上位にあげて対応することをこのワークから学びました。

(実際、今もこれで仕事上の衝突、ストレスがかなり減らせています。)

2.自然に囲まれた環境での農業プログラム

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今までの私の仕事は、「ネットショップ」「Web上仮想空間」「Webサイト製作」「Webマーケ」と、ネット上に軸を置き、オフィスにいて、パソコンとにらめっこして給与をもらう形でした。

この仕事を否定するわけではもちろんないですが、私にはどこか合っていなかった。どこかで虚しさを感じてもいました。

農業プログラムでは、太陽の下で土をいじり、草むしりなどの終わりのあってないような仕事を行い、自分が関わった作物が成長して、実際にそれを食べたりしました。

(人が働いて、生きるってこういうことだよな。)

そんな考えが、自然と浮かんできました。

ネットの仕事は、どこか地に足がつかない感じがしていた。農作業というネットとは対極の、古代からある仕事をやることで、人が身体を実際に動かして、血肉になる作物を育て、実際に口にする。

私がお金を支払うことで省略していた過程をちゃんと体験することで、生きるということを改めて考えさせてくれました。

3.自分のトリセツの作成

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私が軽躁になるときのきっかけは何か?その時の状態は?

どう対処すると、それは抑えられる?うつのときは・・・。

そういった、自分自身の気分の波(ムードカーブ)をコントロールするトリセツ(取扱説明書)を青木さんと一対一で作成しました。

ここまで自分について振り返り、まとめたことはなく、疾病をコントロールするという意識をちゃんと持つきっかけになりました。

〜29歳(2011年8月)〜
利用も3ヶ月目となり、自分なりの対処も見えてきたところで、社会復帰をどうするか考え出していました。

(社会人7年間で3回退職、気分の波が大きい自分は会社でまた働くのは不可能だろう。前職から経験のある広報を軸に、独立の道を検討しよう)

そう考え、独立につながるようなイベントに出たり人に会ったり、営業活動的なことをしてみますが、ポッと出の広報マンにはすぐに仕事が来るわけもなく。。

(独立って、自分が活動しなくなったら何も動かない。収入も自動で入ってくるわけではない。これでは生きていけない。社会復帰はムリだ。)

悪い思考のループに入り、一気にうつに。

そしてサービス終了まであと2週間というところで、引きこもってしまいます。

その後、携帯の電源も切って過ごして一週間後。

再度、電源を入れると青木さんからのメールがあり、恐る恐る確認しました。

「大丈夫ですか?心配してます。
プログラム後、他の利用者さんには会わない時間に来れそうであれば来ませんか?ちょっと話せると嬉しいです」

このままひきこもってても何も変わらない。

意を決して青木さんに会いに行きました。

松「話すのはとても恥ずかしいんですが。
実は、独立を考えていたんですがぐるぐる考えて落ち込んで。
もう社会復帰はムリかなと思いつめてしまって。」

青「でも、うつ状態になって一週間で持ち上がって来たのはすごくない?
今まで一ヶ月以上うつになったら戻ってこれなかったでしょ。
軽躁をおさえた効果が出たね!」

確かにそのとおりでした。いわれて気付いたことでした。

さらに、青木さんから思いもよらなかった言葉が。

青「伊藤さんとも話をしてたんだよ。 
松浦さんが独立して上手くいかないとなったときには、うちで受け入れることを。

うちで、ピアサポーターとして働くという選択肢もあるけど、どうかな?」

自然と、涙が流れてきました。

第11回(28歳:支援を受ける側から支援する側へ)

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〜28歳(2011年6月)〜
オムソーリサービスを使い始めるのと並行して、個人的に広報で独立して仕事をする可能性を探っていました。

サービスを使い、病気の対処を身につけた先にあるのは社会復帰。働くこと。

とは言え、私自身が28歳で3回退職をしているので、会社で勤める選択肢は自分の中で無くしていました。

(私の社会人経験の中で、独立してやっていくに値するものはあるか?)

その問いの答えが、広報でした。

C社で広報部門を立ち上げ、そこで一番実績だと思えるのは、1年で日経新聞に6回リリースを送り、5回掲載してもらえたこと。

C社は当時、設立6年目の名も知れぬ会社。

日本経済新聞は、経済に関する社会的に価値のある情報をとどけるメディア。

C社は「株式会社(経済) × 社会的事業(障害者の方の就労支援) 」という立場で、日経ととても親和性ありました。

さらに、マーケティング的には、掲載確率をあげるため、日経の首都圏面に狙いをしぼって掲載にむけアクションしました。

「C社の法人向けサービスを、関東限定にして開発、リリースしましょう。」

営業メンバーにも協力してもらい、日経掲載という視点をいれてサービス開発が出来たことも功を奏し、5回の掲載に至りました。

とはいえ、独立してやっていくためには、C社だけの経験ではダメ、再現性がない。

そこで伊藤さんに提案をし、リヴァ社の広報を手伝いました。

過去何年もの日経新聞を図書館で見て研究をし、どうやったら社歴の浅い会社でも掲載できるのか、を検討しました。

そして、アプローチが形になった、2011年7月14日。

サービス開始2ヶ月目の会社を日経新聞に掲載させることができました。

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2011年7月14日の日本経済新聞夕刊9面の「最前線ひと」欄

他の活動としては、友人つながりのもの。

ノーベル平和賞受賞者のムハマド・ユヌス氏の来日講演、その企画の集客、広報メンバーとして関わることで、個人の実績を積み重ねていきました。

ここまでの活動が出来たのは、軽躁の勢いがありました。

青木さんからは、過活動(活動のし過ぎ)に釘をさされることもありましたが、

(とは言え、ここでブレーキをかけすぎると、将来独立できない。)

というジレンマを感じ、時には青木さんに活動してないと偽って、裏で動いていたりもしました。

話は少し脱線しますが、この頃、フェイスブックで友人限定で病気の事を自己開示しようと決めます。

この当時の自分は、施設や、広報関係で関わる人に双極性障害の事を、オープンにしていました。それは人生初のことでした。

すると、とても活動しやすいことに気づいたのです。

であるなら、フェイスブックの友人限定で理解してもらえると、より生きやすくなるかも。

そんな想いで投稿しました。以下がその一文です。

そして、いま、躁鬱病である自分と向き合って気付くのは、 八年間、自分と対話してなかったなと。 本当に自分が発してるメッセージ、今は休め、今は少し頑張っていいよ、 というメッセージが受け取れるようになりました。
一緒に仕事する人に、躁鬱病をオープンにすると、働き過ぎのときは注意してくれて、引きこもりがちならそっとしてくれるようになりました。
やっと受け入れられて、オープンにして、、すると物事はとてもスムーズにまわりだして。


この投稿に、

「あるがままの松浦さんを大切に・・・。」
「もう無理しないでね。みんな仲間だから!!」
「本当の意味で人の痛みが分かるし、同じ思いをしている人に勇気を与えられるんじゃないかな。」

といったコメントをもらえ、開示して活動していくキッカケの一つになりました。

話を戻します。

軽躁の勢いも長くは続かず。そして8月、気分の落ち込みとともにダウン。

(独立って、自分が活動しなくなったら何も動かない。収入も自動で入ってくるわけではない。これでは生きていけない。社会復帰はムリだ。)

そう思い詰めていた時に、青木さんとの面談で言われたセリフで救われました。

「ピアサポーターとしても活躍してもらえるだろうけど、何より、リヴァにとって広報はとても重要になる。
未来の利用者さんに存在を知ってもらううえでも、採用の面でも。そこは他のスタッフには出来ない。
松浦さんにお願いしたい。」

私は涙ながらに、スタッフとして参加したいと伝えました。

そして、いつか伊藤さんや青木さんに恩返しをしたい、とも思いました。

〜29歳(2011年10月)〜
最初は研修生、インターンとしてスタート。

何より辛かったのは、9時出勤でした。

サービス利用時は、午前プログラムの開始が10時のため、そこにギリギリ間に合わせる状態。

朝が弱いので、9時出勤が出来るかがとても不安でした。

とにかく、朝9時に起きるため、平日夜の予定はほとんど入れず、夜更かしをしない、朝起きることに照準を絞った生活にしました。

また、朝が起きたくなるように、朝用のちょっといいパンを前日に用意したりもしました。

そんな工夫も功を奏したのか、最初は無理してでも、やっていると1ヶ月も経てば9時通勤が当たり前になっていました。

〜29歳(2012年2月)〜
研修生の期間も終わり、正式に社員となりました。

障害者雇用ではなく、他の社員と同等の条件での契約でした。

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利用者さんから、疾病の対処などどうしているかを私が聞かれる度に

(今までは隠すべきものだった双極性障害が、今は価値として認められている。とても不思議な感じ。)

そんな、価値観の転換を日々感じる、仕事のスタートでした。

第12回(29歳:失った自信を取り戻す日々)

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〜29歳(2012年2月)〜
利用者からスタッフに。それは大きな転換でした。

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高田馬場センターの入居するビル

サービスに対してお金を払う側だったので、お金をもらう側になることで、社会に自分の何かを提供できている、働けるありがたみをまずは実感しました。

分かりやすい形で実感したのは、会社のプレスリリースに広報担当として名前を明記できたこと。

研修のときは名前を出さずに広報をしてきたので、2012年2月1日のリリース「Facebook公式ページ運営開始のお知らせ」は自分にとって記念すべきものになりました。

私の、双極性障害と付き合いながらの働き方について最初に伊藤さん、青木さんと取り決めたのは

「入社半年は定時に帰る。その後も出来るだけ予定をいれない」

それは、私の軽躁のきっかけとなる「新しい環境」が、今回はリヴァ入社であり、働き始めるだけで気分が上がってしまうことは容易に想像できたから。

その対策として、定時帰宅を必ず守り、仕事を持ち帰らないことはもちろん、出来るだけプライベートの予定も入れない対策をしました。

このスモールスタートにより、気分の浮き沈みもなく仕事をはじめることができました。

本当のところを言えば、平日は夜予定をいれる余裕もないほど疲れていました。

今まで体験したことない「対人援助職」。

それは、過去働いてきた定時8時間勤務と比較して、目に見えない想像以上のエネルギーを使う、疲労度の高い仕事だとわかりました。

入社してまず、私に求められた仕事は大きく3つでした。

1.プログラムのファシリテーション(進行役)
2.利用者さんの面談対応
3.会社の広報(認知度UP)

1.プログラムのファシリテーション(進行役)
大学生時代に塾講師をやった経験と、もともと人前で話をするのは好きだったので、ファシリはすぐ慣れることができました。

むしろ、その場の空気を読みつつ、盛り上げたり、一体となる状況を作るのは面白みを感じるものでした。

余談ですが、ストレングスファインダーという自分の強みを知るテストを受けた所、「包含」というものがこの当時はトップにきました。

「包含」人々をグループの中に包含し、その一員であると感じさせたいと思う。他の人を寄せ付けないような「閉じたグループ」の存在を嫌う。
誰かがグループの外側から覗いているような状況を見つけると、彼らを積極的に中に誘い入れようとする。


この強みこそ、私がファシリテーションを得意と感じる要因だなと思いました。

仕事に余力が出てくると、青木さんに教えを請い、情報を集めてプログラム開発にも手を出しました。

自分で作っていくと仕事への当事者意識も高まり、また次のやる気につながる好循環になりました。

2.利用者さんの面談対応
支援の仕事は、利用者さんからの相談はもちろん、どうやって社会復帰を目指すかを共に考える面談の対応が必要な仕事です。

私のよりどころは当事者経験。よって、面談の時に、何よりもまず私自身の経験を伝えていました。

話を聞くという点では私にとっては素質があったのかもしれません。

昔から人の話を聞くとき、「相手が頭にイメージしているものと同じものを自分の頭に描くように聞く。

質問をしてそのイメージをより鮮明にする」というやり方を自然として来ました。そういうスタイルの聞き方が、支援でよく言われる「傾聴」に近く、すんなりと面談対応に入れはしました。

とはいえ、どうしても病気の対処の話になると、特に双極性障害の方との面談となると、無意識に自分の体験談をあてはめていました。

このやり方を続けたときに起こったのは、私に常に意見をもとめてくる状態を作ってしまったこと。

(これではどうしても相手の方が私に答えを求めてしまう。
その人だからの症状、対処があるはずで、自分で考えてもらうことが大事。)

そう腑に落ちて思えるようになってからは、私から自分の経験談を伝えることはしなくなりました。

それにより、純粋に相手の話を聞くことができるようになっていったと思います。

3.会社の広報(認知度UP)
その当時から盛り上がりはじめていたフェイスブック。

私が正社員になった初日から、会社公式のページ運用を正式に開始しました。

(ただブームに乗るだけでは想いがこもらず、人に伝わらない。ちゃんと運用できるという自信をもってスタートしないと、会社のアカウントはすぐ見抜かれてしまう。)

と考えていたので、私としても正社員になったことを区切りに、会社の魅力を伝え続ける覚悟で運用を開始しました。

話は前後しますが、その当時、知人の広報のお手伝いを個人的にやっていました。

その1つが、うつ病に効果があるといわれる認知行動療法をベースにしたコミュニティサイト「U2plus」のメディア掲載。

代表の東藤さんとは、リヴァとU2plusで一緒にイベントもやらせてもらう仲でもありました。

サイトの正式公開時には、個人的に応援したかったので、こちらから広報提案して実際にメディア掲載いただけました。

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「いいモノ、いいサービス、いい人。
 世の中に知ってもらうべき価値あるものを多くの人に届けたい。」

私が社内外問わず、今後もやっていきたいライフワークの1つです。

〜30歳(2012年8月)〜
入社半年となり、有給休暇の取得が可能となりました。

ここで私は「攻めの有休」を使います。

この「攻めの有休」という表現は、もともと利用者さんの造語。

うつ病などの疾病を抱える人の多くは、有休は使ってはいけないものという認識があります。

いざという時や、退職時の消化でやっと使うもの。

でも、自分を大切にするという視点から、計画して自ら有休をとっていくという意味をこめて「攻めの」とつけています。

私も、自分へのご褒美をこめて、攻めの有休を使いました。

すると、働きながらも自分を大切にしている実感をもてました。

また、半年経って気付いたのは、今までの働き方と大きく違うことでした。それは、チームで仕事をするということ。

支援の仕事は、一人で情報を抱えることはやってはならないこと。必ず何があったかをチームで共有していくが基本となります。

過去の私の仕事は、一人仕事が多く、自分の性格もあって仕事の悩みをよく一人で抱えていました。それによって調子を崩していた。

でもチーム作業では、その日の悩みは、その日の夕方必ず共有されるので
悩みを引きずることが極端に減りました。

それは、精神衛生上、とてもよいサイクルとなりました。

また私は、どちらかというと人のために頑張れる傾向があります。自分の調子が悪くても、人の頼みに協力することで調子を取り戻すことが多々ありました。

私の気分の波をコントロールしていく上でも、チームで働くことは対処につながっていました。

〜30歳(2013年2月)〜
入社して1年経ち、自分の中で少しずつ働くことに余裕を感じるようになります。

(入社して1年を振り返り、会社のブログに「双極性障害と寄り添った勤務一年間のおさらい」をアップしたりしました。)

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とある日、元利用者の方から、法人向けのメンタルヘルスに関する相談を持ちかけられました。

その時いただいたメールにあった一文に、私はショックを受けます。

「つきましては、産業カウンセラーなどの有資格者の方を同席の上、相談にのっていただけないでしょうか?」

今まで、当事者経験をキッカケとして支援の現場に立ってきて、1年とはいえ、私は支援者の一人だと思っていました。

でも、世間はそうは見てくれない。仕事の土俵にもあげてもらえない。

そうであるなら、資格をとって、仕事の話をする価値のある人と思われたい。

青木さんからは産業カウンセラーの話は聞いていました。

青木さん自身、そのを資格持っており、資格講座の講師をされていたとのこと。

「産業(カウンセラー)は、傾聴訓練をひたすらやるから、支援に活きるよ。」

(これは何かの縁だ。資格にチャレンジするタイミングだ。)

そう決心します。

ただ、ひとつの懸念が。

仕事をしながら新しいことをチャレンジするのは軽躁への道を自ら歩むもの。

社員になって1年、嘘のように気分は安定していました。でも、その安定を自ら破りにいくことになる。

怖さはありました。

でも、チャレンジしたかった。

(自ら、働き続けるのに問題ない、平常の幅を広げていきたい。
今はまだ軽躁になってしまうラインも、訓練すればコントロールできる範囲に収められるにのではないか。)

そんな仮説を自ら立てて、4月からスタートする、産業カウンセラー平日夜間講座に申し込みました。

第13回(30歳:双極性障害でもチャレンジをしていきたい)

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〜30歳(2013年4月)〜
(自ら、働き続けるのに問題ない、平常の幅を広げていきたい。今はまだ軽躁になってしまうラインも、訓練すればコントロールできる範囲に収められるにのではないか。)

この想いで、産業カウンセラー平日夜間コースの受講を4月からスタートしました。

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平日夜間コースは、職場から30分の場所で行われ、開始時間は18時半。

会社定時は18時でしたが、仕事に直結する資格だったことと、土日コース選択をして休日が減ることでの負荷の大きさを会社に納得してもらい、定時前に退社して受講が実現しました。

受講当初は、これから続く7ヶ月、ほぼ毎週の通学が出来るのか、正直自信はありませんでした。

実際、支援の仕事をした後、3時間の傾聴トレーニングは過酷。講義の時は眠ってしまうことも度々ありました 汗

私の所属するグループは11人で構成され、そのうち男性は私含め3名。私以外の二人は50代の社会人大先輩という状況でした。

社会経験で培った価値観をしっかりお持ちの二人は、傾聴して相手の価値観で話を聞くことに苦戦されていたようでしたが、私は社会人経験も浅く、元々得意としていた聴く事はスムーズにやれました。

ただ、色々な人と傾聴訓練を繰り返す中で出てきた私の傾向は

「男性で目上の人、役職の付いた人と分かると傾聴が出来なくなる」

というものでした。

男性の大先輩のお一人は大企業の部長さんでした。

その事が私の頭にあった状態で、私がカウンセラー役、部長さんがクライアント役をした時、

「部下が仕事が出来なくて困っているんですよ。というのも・・・」

という話をされた瞬間、私は

(出来ないのを出来るようにフォローするのが上司でしょう。上司としての仕事ができてない!)

と、部長さん自身を私が批判する思考が、勝手に浮かんでしまってました。

私にも苦手な相手、自分の強固な価値観があることに気付けたのは、多種多様な人と傾聴訓練をして得た成果でした。

一方職場では、自分の平常の範囲を広げること関連しながらも、別のチャレンジをしていました。

それは広報として、設定した目標を達成すること。

会社の認知度を向上させ「うつに関する取り組みをしている企業といえばリヴァ」となるため、目標として設定したのは3つ。

1.Yahooトップページ(Web)のニュース欄掲載

2.週刊ダイヤモンド(雑誌)のうつ特集掲載

3.ワールドビジネスサテライト(TV)出演

いずれも、多くの人に見てもらえ、企業が取り上げられやすい場所でした。

それぞれ掲載されるまでの施策を話すと、それだけでnote1回分になってしまうので割愛しますが、掲載までの泥臭い仕事あっての広報だなと実感する経験でした。

Yahoo、週刊ダイヤモンドの2つは2012年の時点で達成。

いずれの掲載の時にも、とてもテンションが上がりましたが、軽躁になることを防ぐため対処しました。

・(全身で喜びを表現し、人にも声を大にして伝えたい)という感情を胸に秘めて、最低限の人にだけ口頭で伝える。

・「浮足立たないこと」と声に出して自分に言い聞かせる。

・お風呂で一人のときに、喜びを表現してOK。

・掲載が決まった日は必ず6時間は寝る、もしくは布団の中にいる。 など。

ワールドビジネスサテライトはアプローチが難しかったのですが、過去の掲載記事を見て、2013年4月にタイムリーな特集があり、声掛けいただき決定しました。

これが決まったときは、待ちに待った事なので感情を抑えることが難しく、またTVは放送されるまで臨時ニュースなどで無しになることもざらにあるので気が休まりませんでした。

余談ですが、私は「人にいいモノを広めたい」のと「昔からミーハーでメディア業界に興味あり」という2点から、広報が好きで、自分にとてもマッチした職種だと思っています。
でも、双極性障害と合わさるとリスクがとても高い 汗メディア掲載は急遽決まることが多く、いきなり大きな刺激が起こる。
取材時のやりとりはスピードが求められる。
休日も対応必要で休まらない。人に広めることが仕事なので、多くの人とかかわらざる負えない・・・。
好きで向いてない限り、双極の方にはオススメできないですね 笑

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写真左でちょっとだけ写っているのが私です 笑


放送内容に一部、納得できない部分がありつつ、なんとか目標を達成することができました。

支援の仕事も、広報取材時は現場を離れるときもありましたが、必要最低限の広報対応にとどめ、基本は支援職として週5日働くことも出来ていたので、両方、手を抜かずやりきれたことは自信になりました。

そしてまた、広報に関してもう一つのチャレンジ。

それは、企業の広報担当者をインタビューしたいという依頼があり、私にも声がかかった時のこと。

過去にたくさんの企業広報の方が並ぶ、インタビューページを見て、

(この中でうちの会社が、私が差別化できることはなんだろう?)

そう考えた時に行きついたのが、

(うつの方の社会復帰支援企業、その広報担当が双極性障害の当事者で、実際サービスを受けたあとに社会に復帰して働いているということを発信すること。
これはうちの会社、私にしか出来ないのではないか。)

もちろん、こういう露出をすることで覚悟しないといけないとも思いました。

私が公に双極性障害と知れてしまう。調べればすぐに分かる状況。もう、病気を隠しての転職は出来ないだろうと。

でも、私を救ってくれた会社にいつか恩返ししたい。

その想いの方が強く、また自分自身も露出していつか活動していきたいという想いもあったため、病気を開示してのインタビューを受け、掲載していただきました。

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個人のフェイスブックで共有したとき、多くの反響をいただきました。

開示した事により、自分自身を実験台としながら、会社をどう広めていくかをどこか楽しんでいるような感覚を持ち始めました。

〜31歳(2013年11月)〜

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7ヶ月、講座を休むこともなく無事受けきりました。

これは、当初考えていた「平常の幅を広げる」の第一歩を踏み出せた気持ちで、とても自信になることでした。

徹底した傾聴訓練。

客観的で具体的な指摘をもらったり、カウンセリングを受ける立場を経験したり、色々なタイプの方と面談出来たことは貴重な財産になりました。

そして、すぐに現場で活かせるものでした。

もちろん、支援の現場ではカウンセリングをしているわけではないので、社会復帰としての面談なのか、カウンセリングなのか、その違いを頭に入れながら線引をして、利用者さんに関われるようになったことはとても大きかったです。

〜31歳(2014年2月)〜
私としては過去の職業人生で初めて、2年以上の勤務を達成することができました。そしてこの月で、配属先が変わることになりました。

第14回(31歳:継続勤務3年目という未開の道)

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勤務3年目は私にとって未知の領域でした。

今まで2年以上同じ会社で働いたことないので、自己新記録を更新していく毎日。

重すぎるかもしれないですが、3年目当初はそう考えてしまっていました。

そんな矢先、勤務先の異動が言い渡されました。

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御茶ノ水センターの入居するビル

1ヶ月後、御茶ノ水のセンターに変わり、新しい環境でやっていけるのか不安に思っていた矢先、インフルエンザになります。

これから頑張ろうと思う気持ちが空回るかのように勤務停止、強制的な休み。

高熱もおさまり、家で何をやるでもなくテレビを眺めていると、ふとした考えが。

(休職や離職してた頃、そういえばこんな生活だったなぁ。)

生活リズムは乱れ、過眠となり、うつっぽくなるという悪循環に入ってしまいます。

インフルエンザ明けもなかなか気持ちが上がらず、2ヶ月くらいは気分低めでの中、何とか働く日々でした。

入社して2年間はかなり体調が安定していただけに、久々のうつはとても辛いものでした。

気分低めが続くなかで、調子を平常に戻すために取り組んだのは
「そんな中でも、取り組みたいと自発的に思えたものに手を挙げる」でした。

1つは、プログラムの見直し。

コミュニケーションに関するプログラムで、私の中では見直しをしたい点があったのですが、日々の仕事に追われて手を付けられない状態。

気分は低めでも、このプログラムに関しては個人的に書籍を購入したりと自発的に取り組めていたので、自ら手を上げてメンバーを巻き込んで進めることが出来ました。

見直し当初は気分低めだったのですが、プログラムが形になり、また他メンバーとやりとりることが、自然と気分を持ち上がけてくれました。

もう1つは、中途採用の面接担当。

選考を受ける方は、うちの会社に入りたいと強い想いを伝えてくれます。

それにより、自社の取り組みの価値、うつ病の方の社会復帰支援が珍しく、毎日私がそれに取り組むことで給料がもらえていることの有難さに気付かされました。

また、「なぜこの会社に入ったのですか?」と選考の方に問われるたび、私自身も初心に帰り、働く想いがやる気につながっていきました。

平常状態に戻ってきても、簡単に安定しないのが私の双極性障害。とある出来事ですぐに軽躁にあがりました。

社内採用メンバーに、どんな採用方法が自社に合うかを相談されたので、その当時新しかったウォンテッドリーという採用サービスを提案します。

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やってみようと言う事になり、エントリーを増やすには、掲載されてから24時間以内にたくさんSNSシェアされることが決めてだと分かります。

最初は半信半疑で掲載したところ、数分でどんどんエントリーが増える。

(これは本気だしたらもっとエントリーあるかも!)

と気分が高揚し、夜中0時を超えても友人にシェアをお願いし、更にサイト研究してエントリーを増やす方法を探り出しました。

軽躁に入った状態です。

夜中にSNSシェアしてることが同僚の採用メンバーに発覚し、すぐに指摘をうけました。

私としてはどんどんシェアしたい気持ちを抑え、この時は採用メンバーに見守られながら、抑えていきました。

睡眠は最低6時間確保を軸として、土日は採用の事をしない、面接対応なども減らすなどの対応で、気分を調整していきました。

〜32歳(2014年12月)〜
スタッフ青木さんと近所の餃子屋で、1年の振り返りをしました。

3年弱働いてみて、これからやってみたいと思っていることを青木さんに伝え、「チャレンジしてみたら」と、背中を押してもらいました。

(私の当事者経験、そして現場で働いてきてみえてきたものを通じ、何かを創り出したい。)

そして2015年から2年間、新規事業をつくることに取り組みます。

第15回(32歳:双極性障害と結婚と子供)

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〜32歳(2015年1月)〜
新しい事業をつくるプロジェクトがスタートしました。

発起人として私がリーダーとなり、業務後の時間を使い、有志が集まってミーティングを重ねました。

私が作りたかったのは、会社の事業「うつ・双極性障害などの方の社会復帰サービス」の対象を広げるもの。

休職、離職中に限らず対象範囲を広げてサービスをとどけたい。

また、会社の理念にある「自分らしい生き方」を実現させるため、休職、離職から社会復帰したあとで必要とする方に、自分らしい生き方を実現させるサービスが出来ないかと考えてのものでした。

サービス名称は「リライフ」と命名し、専用プログラムを作成。既存サービスを経て社会復帰した方々に説明会を実施し、プログラムのテストに協力いただいたりもしました。

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本当に形になるのか不安で気分が落ち込んだり、糸口が見えて気分が上がったりと気分の上下はありましたが、2015年は安定して病気をコントロールできている感覚がありました。

なぜかと振り返れば、

・自分自身でやりたいと思ったものを自らすすめられた

・それに賛同する仲間が集まった。その空気感が心地よかった

・業務後のミーティングではあったが、お互い無理はしないことが合言葉だった

・それぞれの自分らしい生き方を常にかんがえ、共有できる場があった
などかなと思います。

ただ、この一年が今までの年と大きく違ったのはプライベート面での変化でした。

〜32歳(2015年4月)〜
入籍をしました。

前職の同僚で、5年以上の友人関係にあった方。お付き合いをしたのは2014年からで、結婚を前提にしたものでした。

奥さんとは趣味が合う、私と同じ支援の仕事をしている、人に話をするより聴く事の方が多いなど、共通点がたくさんあります。

ただ、過去にメンタル面で体調を崩した経験をお互いしていることは、私にとって家族となる上で重要な要素になりました。

私は気分の波が大きくある人生。

今後もその波はあるし、パートナーを翻弄してしまう可能性が多くあります。

奥さんも病気の大変さを実感しており、実際私がうつ気味になった時、奥さんのやり方を押し付けず、そっとしながらもどう関わったらいいかを私に聞いてくれたのはとても助かりました。

結婚の話をした時、私が病気のことを今後も開示して活動してくれることも受け入れ、了承してくれたのはとてもありがたかった。

仕事だけでなく、プライベートでも自分を保つ重要な存在が出来た感覚がありました。

〜32歳(2015年7月)〜
入籍して3ヶ月後、赤ちゃんが出来たことが分かりました。

正直、人の親になる自信はなかったのですが、それ以上に不安になる奥さんを前に、

(私がしっかりしよう。なるようにしかならないし、私達らしい家族をつくっていければいい)

と、そういった気持ちで奥さんを支えました。

人の親になる自信がない。
この言葉の真意として、私はずっと子供が欲しいと思ってきていて、結婚した理由の1つは子供を育てたいでした。
ただ、人を育てることはとても大きなことで自分には難しいとずっと思ってた時、親になってる友人に話を聞くと
「子供が生まれる前は不安だった。子供ができてそこから親になっていくので、生まれる前に自信持ってる人いないんじゃない」
という言葉に後押しされ、まず親になることの一歩を踏み出しました。

〜33歳(2016年1月)〜
子供が生まれるまで2ヶ月を切り、リライフは事業化に向けて本格的に動き出すことになります。

今までは社内のメンバー、過去の利用者さんなどの身内を中心に意見をあつめ、検証をしてきた。

これからの一年は、実際に事業化になったときに、既存業務と兼任になってもいいと思う人を集め、対外的に情報を発信しながら事業計画を立てるといった、より本格的にすすめることになりました。

以前よりも緊張感が高まる中、メンバーも一時は10名近くいた所を4名に絞り、動き出しました。

また、社外に向けて情報発信するにあたり、リーダーの松浦自身にもより専門性が必要なのではと考え、この年の4月からスタートする精神保健福祉士の通信講座にも申し込みました。

2016年は、仕事にもプライベートにも大きな変化となる予感がありました。そして、実際、その変化によって私自身が翻弄されてしまいます。

第16回(33歳:子育てと新規事業と気分の波)

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〜33歳(2016年2月)〜
子供が産まれる時、父親になる実感がわかず、嬉しさよりもやっていけるのかの不安が勝ってました。

ただ、実際生まれた子供の顔を見れば幸せな気持ちが湧き出て、

(この子のために、出来ることはしていこう)

そう、自然と思えました。そんな自分にホッとしてもいました。

子供が生まれた数日後、仕事では市ケ谷という土地に異動になりました。

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市ケ谷センターの入居するビル

その異動から一ヶ月後には、1ヶ月間の育休。

育休に入る前には、新規事業「リライフ」の準備は可能なだけすすめて、あとは私が遠隔で関わる体制を作りました。

初期からリライフを一緒にやっているメンバーOさんからは

「仕事の事は忘れて、子育てに集中してくださいね」

とは釘を刺されましたが 汗

〜33歳(2016年4月)〜
里帰り出産だったので、私の育休スタートに合わせ、松浦家3人暮らしの生活がはじまりました。

子育てで、奥さんの大変さを一番実感したのは夜の寝かしつけでした。

お腹を痛めてない私にとって、子育ての大変さを少しでも実感しようと寝かしつけをやると申し出ました。

3日に一回は寝かしつけをと思っていましたが、これが甘かった。2,3時間に一度起こされることの苦痛はこの上ない。

いくら可愛い我が子でも、「いい加減にしてくれ!」と叫んでしまったことは実際ありました。

流石に音を上げて、奥さんに寝かしつけを変わってもらう始末。

また、短時間睡眠は双極性障害の軽躁を誘発する可能性も高く、実際私も寝かしつけ時に覚醒した感覚を持ってしまったので、無理をしなかったのは正解だったなと思います。

育休期間は、家かスーパーかの生活なので視野も狭くなり、うつっぽい状況になります。

私にとって大事だったSNSの発信も、子供が生まれてから辞めていました。

家族の決めごとで「子供のことはSNSで発信しない」と決まってから、私も発信する事柄ことがなくなり、家の外と繋がる手段がなくなってしまいました。

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後日談。
私にとって、仕事で広報をやるくらい、人に情報を共有することは好きなものでした。SNS投稿もゼロにするでなく、適度にすることが重要と考え、「子供の顔は出さない」は守りつつ、子供の成長をフェイスブックにも投稿するようにしました。
すると自然に、気分の持ち上がりを感じました。

4月は更に、国家資格である精神保健福祉士の通信講座の受講もはじめました。

支援員として更なるレベルアップを図るため、育休前に軽躁っぽい時に受講を決断していました。

「育休=普通の休み」位に、甘く考えてしまったゆえの決断でした。

〜33歳(2016年5月)〜
ゴールデンウィーク明け、仕事復帰した私は、完全に意欲がなくなっていました。

ただ、新規事業「リライフ」は待ってくれない。

子育てや新規事業や資格試験や。

色んなプレッシャーに押しつぶされそうになり、リヴァに入社してはじめて、うつ症状で仕事を数日休みます。

思い詰め、これはさすがにマズイと思い、会社の代表である伊藤さんに

「リライフのリーダーを辞めたいです」

と、話をしました。すると

「抜けても、また戻りたくなったらやればいいんじゃない?一先ず支援の現場で、やれる範囲でできる仕事をすることを優先していきましょう。」

降りていいんだ、と思え、すごく気分が楽になりました。
また、リライフメンバーにも辞めることを説明したところ

「全然休んでくれていいですよ。また、やりたくなった時やりましょう」

と言ってもらえました。

振り返ってみると、うつになるべくしてなっていました。
「新体制の家族3人」
「職場の異動」
「精神保健福祉士の勉強開始」
「新規事業の構想」
ライフイベントがいくつも重なってはいましたが、その渦中にいるとなぜ気分が落ちたのか分からず、自分自身を責める一方でした。

そこから気分を戻していくため、仕事面でも色々配慮してもらいました。

まずは、今できる仕事とできない仕事を切り分けること。

利用者さんとの面談については、最低限の関わりが必要な方以外は他スタッフにお願いする。

その代わり、私が負荷と感じにくいもの、グループワークのファシリテーターや、利用者さんの関連書類の準備といった雑務などは受け持つ。

また、自信を無くし、自分の中のやりたいという意欲がゼロになっていたので、人のやりたいを応援しようと思いました。

「これをやってほしい、これに手が回らない」そんな声に自分から手を上げて実行。

その結果、相手から「ありがとう」の言葉がもらえ、少しずつ「必要とされているんだ。この場所にいていいんだ」と思えるようになっていきました。

2,3ヶ月、新規事業とも距離を起き、現場仕事も軽減してもらえると、徐々に自分の中のやりたい気持ちが沸き上がってきます。

その気持ちを、不在時にリーダーを任せていたOさんに話すと、

「待ってましたよ。リーダーの位置は不在にしておきました。」

と言ってもらえました。

その言葉がとても嬉しく、新規事業に再度、深く関わって行きます。

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新規事業再開の時、開始したのがウェアラブル端末「fitbit(フィットビット)」の購入。双極性障害の私の一番のネックは睡眠時間。
リライフに関わる事は、敢えて軽躁に飛び込んで行くような行為でもあったので、客観的な軽躁の指標を持とうと思い、自動的に睡眠時間を計測してくれるので購入しました。
自分でつける睡眠記録が続かない私には無くてはならないツールになっています。

〜34歳(2016年10月)〜
リライフも事業化に向け大詰めを迎えた頃、「これは本当に採算が合うのか?」という質問が伊藤さんから投げ掛けられました。

私含め、誰も事業を立ち上げた経験がなく、事業としてと言うより、中身を実現したくてやっていたところが強かった。

事業として、また現場を離れてそれを専任でやる覚悟を問われ、事業計画を正式に立てることになります。

ただ、計画をいくら立てても、とても厳しいものしかできない。

またそれを実現しようとすると、私でいえば子供に会える時間が極端に減ってしまう。

(新規事業をやることで、幸せではなく不幸になっていくのではないか?)

そんな考えが頭をもたげて来ました。そんな考えもありながら年末、メンバーで作り上げた事業計画を役員である伊藤さん、青木さんにプレゼン。

そこから指摘された点を差し戻され、年明けにもう一度提案を機会をもらうことになりました。

(新規事業を実現させるのは、難しいのかもしれない・・・)

第17回(34歳:大うつと5年ぶりの服薬)

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〜34歳(2017年1月)〜
2016年暮れ、気分の浮き沈みはすごかった。

軽躁になっているのはスケジュールアプリの埋まり具合、また、ウェアラブル端末の睡眠記録からも明らかでした。

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私の軽躁サインを可視化する、一番わかりやすい方法はGoogleカレンダの予定記録とウェアラブル(fitbit)の睡眠記録。
「スケジュール管理はGoogle」「fitbitは毎日装着して寝る」をやれば、勝手にデータがたまり、見返すと気分の上がり下がりが一目瞭然です。


(このまま行ったら、躁に振り切れ、そして鬱になるかも。マズい。。)

予感はあったものの、新規事業リライフを事業化出来るか?スタートをするかどうかの大詰め。

やる以外の選択肢はなかった。

そしてリライフの結論が出ました。

「事業としては行わない。リライフチームは解散。」

これは、リライフメンバーで話し合った結果でした。

事業化を目指しても、メンバーにそれぞれにとっての明るい未来は描けなかった。

リライフが終わりとなっても、私はもがきました。

(法人の方が取り扱う額も上がり事業化しやすいのかも。リライフを法人向けに改良できないか?)

知り合いのメンタルヘルス系企業にニーズ調査に行くも、結局、糸口は見えないまま。

そして、軽躁から躁、その大波が引くのと同じく、私の”もがき”の行動も止まっていき、そして、うつへ。。。

最初は風邪の症状的なものがあらわれ、それで一日会社を休むと、翌日朝には会社に行きたくない気持ちが湧き上がり、また休む。

そして、また翌日も出社したくなくなる、の悪循環に入ってしまいました。

その頃、奥さんとの間で、子どもが生まれたのを機に、私の生命保険加入について話し合っていました。

調べてみると、加入審査のため、過去5年の通院歴の提出がいるという情報をみつけました。

私は2012年2月にリヴァに入社してすぐ、体調の安定を感じたため、断薬を主治医の了承のもと決めました。そして通院も終了。

2017年1月という時期は、「過去5年の通院歴」の中に精神科通院が無くなるまで、あと一ヶ月のタイミングでもありました。

私は、日増しに落ち込みが強くなり、会社も休みがちになっている。

子どもをまだ、保育園に預けてないので、奥さんは日中も家にいる。

私は居場所が無く部屋に閉じこもる。奥さんも気を使って、2駅先の実家に子どもと行く、と言った日が増えていきました。

1人になると、悪い考えがどんどん増幅。

(今、通院を再開したら、保険に加入出来なくなる。。我慢するしか、無い。)

(こんな状態では働けない。子どもを20歳まで育て上げられない。奥さんが実家でやっていけるなら、私はいなくてもいいのでは。。)

(ニュースとかでみる失踪事件、父親の心境って、こんな感じなのかな。。)

(今の家は、マンションの6階。
窓をあけて、飛べば、死ねるかな。。)

(死にたい。というより、消えてしまいたい。)

そんな思考が、数年ぶりに浮かんだ自分自身を、辛うじて、客観的に把握することが出来た時、

(奥さんと子どもがいて。家族もいる身で、死のうとするなんて、正常な状態ではない。

これはもう、通院を再開するしか道がないのではないか。でも、保険加入が・・・)

その日、奥さんが実家から戻って来てすぐ、勇気を出して話を切り出しました。

「実は。。。通院を再開しようと思うんだ。でも、それで保険に入れなくなってしまうんだけど。。。」

奥さん「そんな事はいいから、病院行ってきて。いざという時のお金なんて、どうにでもなるから。」

すーーっと、重い荷物を下ろしたような気分になりました。

以前の主治医は、子育てを理由に引越した家からは遠いため、
家に近くて評判の良いメンタルクリニックを予約。

久々の通院。

新しい主治医は物腰柔らかく、また双極性障害への理解も深い方で、とても安心しました。

処方された気分安定薬を飲むことに抵抗はありましたが、効果が現れるのは2週間以上経ってからの薬のはずが、飲んですぐ、気分が落ち着きました。

まさに、プラシーボ効果。

薬を飲むこと自体が、私の場合は安心や落ち着きにつながっていました。

会社を休みがちになった1月2月を経ても、うつ症状は相変わらずでした。

何より2年間、生活の中心にあった新規事業リライフについて考えなくなってしまったことに、大きな喪失感がありました。

日常で支援の仕事は取り組んでいるものの、胸の内側から静かに湧き上がるやる気は無くなり、

(このまま会社にいてもいいのかな。辞め時なのかもしれない。)

入社して初めて、退職を考えました。

〜35歳(2017年8月)〜
そんな思いを胸に秘めながら、会社として4つ目の拠点である品川に異動になりました。

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品川センターのメインフロア

この異動で私は、社員初、4センター勤務を制覇することになりました。

ただ、品川にうつっても変わらず気分は晴れない。

異動早々、半期の上司面談があり、言われたのは

「松浦さんには、役職なしスタッフとして一番高い給与を払っている事になります。ただ、今の働き方、仕事の範囲だと金額を下げざる終えません」

とてもショックでした。

でも、自覚もしてました。

4月から子どもを保育園に預けることになり、奥さんの負担を出来るだけ減らすため、夜仕事が入ってなければ定時帰宅。

リライフ以降、新しいチャレンジもしていない。
守りに入った働き方。

(去年までの私が評価されての今の給与であれば、今は見合うはずがない)

「評価は全くそのとおりだと思います。
むしろ、給与を今に見合う形で下げてもらったほうが、私は気がラクです。」

逆ギレともとれるような返答をしました。

そして、ひきつづき悶々と日々を過ごす中、ふと頭に

(受け身で仕事をしてたらどんどん楽しくなくなる。
どうせ今、楽しくないなら、ダメ元で、自発的にちょっと何かやってみよう。)

私の中の、静かなるやる気が起き上がってきました。

品川は2016年10月に出来たばかりの新しいセンター。

利用者さんの集客にはまだまだ困っている状態でした。

そこで、私が知っていて試したかった集客案をダメ元で上司に提案。

上司は私の久々のやる気と提案の可能性にかけ、了承をくれました。

集客案の実現に向け、私の裁量で自由にさせてもらえ、こんな想いも浮かびます。

(仕事、ちょっと楽しくなってきてるかも)

そして、その集客案を実施した結果、思った以上の成果が出ました。

その施策は会社として有効なものと認められ、今後の集客案の一つに盛り込まれることにもなりました。

〜35歳(2017年11月29日)〜
ちょっとずつ、ちょっとずつ、リライフの呪縛から解き放たれつつある中で、代表の伊藤さんとサシ飲みすることになりました。

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これは、社員と社長である伊藤さんが1対1で飲みに行き、ホンネで語りあうもの。

私は、何を話そうかと決めきれないまま、当日を迎えました。

伊藤さんからは、リライフの話が出て

「あれは任せ方が良くなかった。
もっと一緒に俺も入り込んでやれたらよかった。反省してます。」

そんな、私は考えもしない話もでてきました。

(あの頃の、リライフのようにのめり込める事は、もうないのかなぁ。。。)

頭をよぎりました。

今後、会社の広報をどうしていくかという話になったとき、

伊「リヴァをもっとメディアにとりあげられ、知ってもらうために松浦さんにはがんばってもらいたい。」

松「その気持ちは分かります。
でも、私が入社したときと今では状況が違う。

2011、12年であれば私たちの事業も真新しく、多くのメディアが関心を示してくれた。

それも一巡した今、ネタ作りをしてまでのメディア掲載では、本当に支持してくれる人がうちを知ってくれることにはならない。」

伊「それも確かにそうだね。」

そして

伊「じゃあ、松浦さん自身がメディアに出たら?」

それはもしかすると、私が誰かから言われるのをずっと待っていた言葉なのかもしれないと、思いました。

リライフ事業化の時、集客をどうするかという話になった。

私が提案したのが「広告塔としての松浦のメディア露出」でした。

本当にいいものを広めるため、私の当事者経験が利用できるなら、いくらでも前に出て発信するつもりでいた。

(もしかすると、私個人としてリライフでやりたかったのは、当事者経験を活用した活動だったのかも。

でも、それを私が思いつき、自分でやりだしたら独りよがりのものになる。

伊藤さんが推してくれたことで、会社の公認として当事者活動ができる。)

伊「双極性障害の当事者としての松浦さんを、もっと発信したらいいんじゃない?

失敗だと考えてる経験も全て価値になるよ。」

私の14年間が、一瞬で今につながっていく感覚がありました。

第18回(35歳:双極性障害の当事者として実名顔出しする覚悟)

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〜35歳(2017年11月29日)〜
伊藤さん(所属企業の代表)から、松浦個人の体験を発信していくアイディアをもらった帰り道。

少しずつ、確実に沸き起こってくる感覚がありました。

それは新規事業「リライフ」を立ち上げた時のような感覚。

そして、その時以上に地に足のついた今後の見通しでした。

(まずは、眠らせていたTwitterを再開させよう)

リヴァの知名度を上げるためと、うつ病などの情報収集用のTwitterアカウント「双極ぴあさぽーたー(現 松浦秀俊@双極はたらくラボ)」を立ち上げたのは2011年。

”基本的にうつ病関連のニュースをつぶやくだけ。他のユーザーと関わらない”をルールとしていました。

(関わりだすとキリないし、あくまで企業の松浦として運用しているもの)

そう、割り切っていたからです。

ただ、このアカウントも私の気まぐれで運用していたので、2017年に入ってからは休眠状態。

それでも、うつ関連に関心がある2,300人近いフォロワーの方々はいるアカウントでした。

(このアカウント、急に運用者が名前と顔出しでツイートしだしたら、どうなるのかな?)

私のサプライズ好きの血が騒ぎ、数日後には「実名・顔出し」を実行しました。

正直、5年ぶりのTwitter本格運用は怖さもありました。

(最近の色々なtwitter炎上事件をみるに、私が顔出しして何かあれば家族にも被害が及ぶかも)

ただ、そんな考えもすぐに杞憂だと分かります。

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Twitterの世界には、各々の興味・関心によってつながれる、心地よい空間が出来あがっていました。

双極性障害に特化した発信をする私に対し、Twitter上の当事者の方々が関心を示し、「いいね」機能により、私のツイートに対する反応が可視化され、それが日に日に、着実に増えていくことが実感できました。

いつしか、Twitterは私にとって欠かせない居場所になっていました。

〜35歳(2018年2月)〜
2018年2月3日、私は浅草の東京都立産業貿易センターにいました。

それは、国家資格である精神保健福祉士の受験会場。

2016年から通信講座で勉強していた精神保健福祉士でしたが、無事、専門学校は卒業でき、国試を受ける段階まで漕ぎ着けていました。

直前まで、大学受験の頃のような、試験に落ちる悪夢を見て目覚めるほど自分を追い詰めての勉強。

試験前の緊張、また試験後には無事終えたことを、私の居場所であるTwitterでつぶやくと、沢山の激励をいただけました。本当にありがたかった。

補足としまして、3月15日、無事に精神保健福祉士合格の発表がありました。ご報告まで。

また、試験終了後には、対談イベントにも登壇しました。

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心の相談メディアReme(リミー)さん主催のイベント。もとはこのサイトで、私が当事者インタビューを受けたのがきっかけでした。

同じくRemeのインタビューを受けていたますぶちさんと私の二人で「メンタルヘルス×働き方」をテーマに実施。

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※当日の対談の模様を記録したTwitterをまとめたものがコチラ。

この集客に私個人のTwitterも活用したのですが、募集開始3日で35名の申込みがあり、とても驚きました。

ますぶちさんの集客のおかげでもありますが、私の話をTwitter上だけでなく、リアルでも聞きたいと思ってくれる方がいることに衝撃を覚えました。

〜35歳(2018年3月30日)〜
今、このnoteの公開作業をしています。

最終回の公開は、「※世界双極性障害デー」にあわせてみました。

※3月30日を世界双極性障害デー(World Bipolar Day)とすることが、2014年、国際双極性障害財団(IBPF)、国際双極性障害学会(ISBP)、およびアジア双極性障害ネットワーク(ANBP)により定められました。3月30日は、ヴァン・ゴッホの誕生日であり、ゴッホがこの病気を患っていたという説もあるために、この日が選ばれました。
これを受けて2015年から、日本うつ病学会でも、この日の前後に、双極性障害の理解を増進するための活動を行っています。(日本うつ病学会 双極性障害委員会)

思い返せば、第1回を書いたのが2017年12月22日。

14回予定でスタートしましたが、創作意欲が盛り上がり、気付けば4回も延長になりました。

note更新の3ヶ月の間にも「軽躁→軽いうつ→軽躁」と、双極の波と付き合いながらの日々でした。
(症状のサインは、更新ペースと文字量に、明らかに現れてはしまっています 汗)

第1回から全て読んでくださった方も、この18回がはじめましての方も、読んで頂いた全ての方に感謝をお伝えしたいです。


ありがとうございました。


私にとってこのnoteは、「双極性障害との付き合い方」の振返りになり、また私のリソース(資産)となる記録になりました。

ちなみに、この連載の第1回と第18回のnoteトップ画像になっているいびつな曲線。

お気づきの方もいるかもですが、私が発症してから2017年までの気分の上がり下がりを手書きしたものになります。

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これも、noteを書くことでカタチになった、一つのリソースです。

この回を含め、「双極性障害の勤めびと。たどり着いた自分らしい働き方 第1~18回」の文字数は合計「47,019」(原稿用紙で約117枚分)※2018年公開時点。

気づいたら、こんな超大作が出来ていました。

ここまで書ききれたのも、TwitterやFacebookをはじめとする、多くの方からのリアクションがあったからです。


本当に、ありがとうございました。


私にとっての双極性障害は、自分の一部であり、長所であり、短所であり。

また、私がこの世に生を受けた意味の一つと思っています。

たどり着いた今の働き方が、ゴールだとは思っていません。

これからも追い求め続けるものが、「自分らしい働き方・生き方」だと思っています。

1年後の2019年。

また、更新された「自分らしい働き方」を、第19回としてアップできたら楽しいなと、そんなことを思っています。

それでは、その時まで。

おわり

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あとがき  〜これからのこと〜


このnoteを書き始めてから、今まで生きてきて、これ程までに「双極性障害」と向き合ったことはありませんでした。

色んな情報に触れ、色んな人と交流して。。

そんな中、ある構想が私の頭に浮かんできました。

それは

[1]「双極性障害×働く」に特化したグループ形成
[2] 双極性障害の再発予防プログラム提供
[3] 双極性障害の特性にあった働き方支援

です。

私のいる会社、リヴァのサービスである「うつ・双極性障害などの方の社会復帰支援」の対象を、更に「双極性障害の方」に特化する必要性、また、実際に特化プログラムを実施する事で新しい何かが見えてくるのではないかと、考えるようになりました。

構想それぞれの背景をお伝えすると、

[1']双極特有の悩みは当事者同士が一番分かり合える

うつの方と双極の方の会話で、うつの方がイメージつかない代表的なのが「躁・軽躁の時にセーブする理由が分からない。元気な状態をなぜ抑えるのか?」というもの。

躁・軽躁に関わる点は、双極性障害の当事者同士こそ共感し合え、深く話し合えるのではないかと、私自身の体験からも感じています。


[2']双極の方に特化した再発予防プログラムの必要性

現在、リヴァで提供している再発予防プログラムの大半はうつ病の方を主の対象としています。それゆえ、双極で特徴的な「躁・軽躁」への対処についてはカバーしきれないか、ホームワークで対応しているのが現状です。

「双極の方だけ受講」が前提となれば、それに合わて既存プログラムを改良でき、提供することが可能になります。


[3']双極と付き合いながら自分らしく働ける可能性の追求

双極性障害は、同じ企業で働き続けるのがとても難しい病気だと、私自身感じています。自分自身の気分をフラットな状態に抑え、会社の求める枠の中で仕事をする。

「それは、双極の方の本来のチカラを制限しているのではないか?」

その仮説を検証したい想いがあります。もちろん、企業での正社員も選択肢ではなりますが、フリーランスやダブルワークや在宅勤務。

また仕事内容も、双極性障害のそれぞれの方にあった選択肢を提供するお手伝いができると、働き方の可能性が広がるのではないかと考えました。

この構想実現のため一歩一歩、でも無理はせず、また人に頼りながら進めていきたいと思います。

過去、私が独立や新規事業にチャレンジして失敗したのは、人に頼らず抱え込んでしまったから。

今回は、「私は気分の波があり、もしかすると働けなくなる時期もある」と、メンバーに理解してもらった上で、準備をすすめることを考えています。

そして取り掛かる時のテーマは「小さく、実験的に、柔軟に。」

今のリヴァの仕組みの中でテスト的にプログラムを実施したり、また私の個人活動で取り組んでる、双極性障害×働くをテーマにした対話企画「双極トーク」を通じて、今後のヒントをみつけていきたいと思います。

「双極構想」の進捗があれば、Twitterで発信していく予定です。
もしよければフォローいただけると嬉しいです。→ @bipolar_peer

以上、あとがきでした。

第19回(37歳:双極勤めびとのその後 2019年冬)

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第18回を書き終えてから1年8ヶ月。

あの頃再開したTwitterのフォロワーさんは9,000人に。また、精神保健福祉士の翌年には公認心理師という心理系の国家資格を取ったりといろいろありました。

また、このnoteを形にしたことが自信となり、「双極性障害×働く」をテーマに様々に活動してきました。

第18回のあとがきにあった3つのこと

[1]「双極性障害×働く」に特化したグループ形成
[2] 双極性障害の再発予防プログラム提供
[3] 双極性障害の特性にあった働き方支援

[1]については、「双極ワーク(旧双極トーク)」という名前の双極×働くをテーマにしたトーク会を18回実施し、累計200名以上の双極性障害の方で働くに関して何かしらの悩みを持つ方が集ってきました。来年も引き続き実施していきます。

[2]は、私が所属する就労支援施設にてプログラムを現在提供しています。来年は公的機関が実施する研究発表の場で、このプログラムの実施結果などを発表できないか、今から準備を進めています。

[3]については、昨年は双極性障害の方に特化した就労支援施設を作れないかと検討していました。でも、私自身が何かしらのマネージャーとなり人や予算を管理していくことに過剰にプレッシャーを感じ、双極性障害の症状が大きく悪化することになりました。

結果的に、その道は一旦保留。

別の方法として、

双極性障害×働き方のグラデーションにより
自分らしいを考えるWebメディア
「双極はたらくラボ」

を形にするべく、今月から動き出しました。

「双極性障害」と「働く」に関わるいろいろなグラデーション

・雇用形態として障害者雇用と一般就労のグラデーション

・働き方としてサラリーマンとフリーランスのグラデーション

・症状として軽度と重度のグラデーション

その情報に出会うことで見る人の気づきにつながり、可能性がひろがるメディアになればと考えています。(まだまだこれからなので色々変わるかもですが、ひとまず試します。)

まずは、所属する企業のメディア「リヴァマガ」の1コンテンツとして1年間記事をため、ゆくゆくは別サイトとして独立しても成り立つものができたらと考えています。

双極性障害の勤めびと。たどり着いた自分らしい働き方

このシリーズのタイトルである私はまた、現在進行系で自分らしい働き方を試しながら探し続けていくと思います。

もしご興味あれば、引き続きゆるりとチェックいただけると嬉しいです。


つづく

[更新]2021年3月30日 双極はたらくラボ Webメディアを公開しました。

※その後はTwitterにてリアルタイムで発信中。もしよければ、フォロー下さい。


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松浦秀俊 / 双極はたらくラボ編集長

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松浦秀俊 / 双極はたらくラボ編集長
双極はたらくラボ(https://bipolar-work.com/)の編集長です。双極性障害II型歴17年。リワーク・就労移行支援(リヴァトレ)を利用後に支援員となり10年目。双極性障害×働くに関する情報を発信する松浦個人が更新するnoteです。公認心理師/精神保健福祉士