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独自の社会主義を歩む―キューバ 「核戦争の危機」から60年、変容する歴史の舞台

 ウクライナにロシア軍を全面侵攻させたウラジーミル・プーチン大統領は2022年2月、戦略的核抑止部隊を「特別警戒態勢」に移行させるよう側近の国防相らに命じ、核兵器が使われる危険性が危惧された。約60年前の1962年の「キューバ危機」以来だ。キューバが冷戦下のソ連へ急接近し、社会主義宣言を示して、アメリカと国交を断絶し、ソ連の核ミサイル施設を造り始めた。これに対抗して米合衆国大統領のジョン・F・ケネディが、海上封鎖を敢行し、ソ連第一書記のニキータ・セルゲーエヴィチ・フルシチョフに対抗し、全面核戦争の危機が勃発した。高校生だった筆者は、世界唯一の被爆国として、核の恐怖を知っていただけに、「この世の終わり」のような戦慄を覚えたものだ。そうした歴史の舞台への好奇心もあって、2007年3月にカナダ経由でキューバに入国した。

キューバを象徴するフィデル・カストロとアーネスト・へミングウェイ
(ヘミングウェイ博物館の図録より)

■「カストロは国のオーナーではない」

 キューバと言えば、フィデル・カストロやチェ・ゲバラが率いた1959年の革命のことを思い起こす。その3年後、米ソ冷戦下、核戦争へ一触即発だった「キューバ危機」のことは鮮烈に記憶している。そんなキューバへ行くことになろうとは思いもかけなかった。友人から誘われた時は、正直言ってためらった。海外渡航への優先順位はさほど高くはなかったが、 ソ連解体後も独自の社会主義を進める国情を、実際に見てみたいと気持ちもあった。

 カリブ海に浮かぶ約1600島からなるキューバは、遠い国だった。直行便がなく飛行時間だけでも約20時間という遠さだ。アメリカの経済封鎖が続いていて、メキシコ経由でのフライトが一般的だが、関西空港からカナダのバンクーバーを乗り継ぎトロント経由となった。行きも帰りもトロントで一泊、さらに時差が14時間もあり、帰路は機中泊となって10日間のうち実質7日間の旅となった。

 せっかくキューバに行くのなら、やはり革命のことを知っておきたいと、にわか勉強をした。発端はカストロらが中心となって1953年、アメリカに後押しされた軍事政権から貧困の国民を救おうと蜂起した。5年後に反政府各派の共同戦線が結束され、1959年1月1日にハバナ占領を果たして革命政権が成立したのだった。政権獲得直後にはアメリカとの交渉も模索していたが、大地主の土地や資本を没収したため不調に終わった。

ハバナの革命広場にあるホセ・マルティ記念碑

 首都ハバナに到着後、まず訪ねたのが革命広場だ。ここには19世紀にスペインからの独立戦争を指導した英雄ホセ・マルティの大理石の像がそびえていた。反対側には内務省ビルがあり、壁面にゲバラの肖像が飾っていて、夜は電光で浮かび上がるような仕掛けになっていた。しかしカストロ国家評議会議長の像や看板はどこにもなかった。ここが明らかに北朝鮮と違っていた。

革命広場で筆者の記念写真
チェ・ゲバラの肖像が取り付けられている内務省ビル

 広場では毎年、革命成就記念日の1月1日とメーデーの5月1日にカストロ議長の演説があり数10万人が埋め尽くすそうだ。ところが議長は、2006年7月以降大腸の手術を受け、容体が悪化していると報じられていた。詳しい病状は国家機密となっている。なにしろフロリダ海峡をはさみアメリカとキューバは半世紀も対立し、カストロ議長の暗殺計画は600件以上あった、と取り沙汰されていたからだ。

 カストロ議長は2016年に他界した。「カストロ後」のキューバが気がかりだっただが、ガイドは「以前から後継者が決まっています。すでに実務は実弟のラウル・カストロ副議長らに委譲されており、今後は集団指導で何の心配もありません」ときっぱり。そして「カストロは指導者ですが、国のオーナーではない」と付け加えていた。

 後任のラウル・カストロは2018年に退任し、閣僚評議会のミゲル・ディアス=カネル第一副議長に譲り、2021年4月には共産党第一書記の座もディアス=カネルに譲り第一線を退いた。

■へミングウェイの名作の舞台

 キューバから連想するのが、何といってもアメリカ人ノーベル賞作家のアーネスト・へミングウェイ(1899-1961)だ。遠い日、『誰がために鐘はなる』や『老人と海』を読みふけったこともあって、へミングウェイが1940年から22年間、この地に住み、名作を書き上げた、そのゆかりの地を訪れたかった。

観光用の馬車で革命広場をめぐる海外からの観光客

 シカゴ郊外の寒い北国で生まれたへミングウェイにとって常夏のカリブの島に憧れたのか、1940年から22年間、人生の三分の一をキューバで過ごした。しかし数々の名作を書き愛した国と、祖国の断絶は、彼の心を深く傷つけずにはおかなかった。反革命分子の武力侵攻失敗直後の1961年7月の朝、自宅で猟銃自殺を遂げる。62歳だった。

現地で「卵」と言う意味の愛称で呼ばれるココタクシー

 新市街から車で20分足らず走った小さな漁村コヒマルは『老人と海』の舞台となった所だ。胸像が建てられ、近くにへミングウェイの愛艇が停泊した港や主人公の老いた漁師のモデルの家もあった。せっかく釣り上げた大物が帰港中にサメに襲われ徒労となって深い眠りの中で終わる物語がよみがえってきた。

へミングウェイの胸像がある漁村コヒマルの広場。『老人と海』の舞台となった

 また旧市街から20分ぐらいの所にはヘミングウェイ博物館があった。『誰がために鐘はなる』の印税で購入した邸宅で、4ヘクタールの敷地。内部は当時のまま保存されていて、約9000冊の蔵書があり、トイレにまで書棚が置かれていた。寝室とリビングにはピカソの陶板やドガの絵が飾られていた。

ハバナ郊外にあるヘミングウェイ博物館
ヘミングウェイ博物館の室内
室内のどの部屋にも蔵書。壁には釣りを楽しむヘミングウェイの写真も

 『誰がために鐘はなる』は、ハバナで40歳の時に書き上げた。ベストセラーになり映画化された。訪問当時から20年ほど前、リバイバル上映され鑑賞したが、世紀のスター、ゲーリー・クーパーとイングリッド・バーグマンが共演し戦場のロマンスとして描かれていた。

 物語の背景は、スペインの市民戦争である。1939年、軍部を率いたファシスト、フランコの反乱が起き、ナチの台頭もあって、自由と民主主義への危機感が広がった。フランスの作家、アンドレ・マルローやスペインの画家、バブロ・ピカソらが共和国支持訴え国際義勇軍が組織された。

 へミングウェイは1937年、北米新聞連盟の特派員としてスペインに渡り、マルローと会っている。小説の主人公はアメリカの大学教師の職を捨て、義勇軍としてスペインに赴き渓谷にかかる橋の爆破に関わり、スペイン娘と出会う。たった3日間の死と隣り合わせの極限状況の中で幸福の意味を問う。この時代、ピカソは『ゲルニカ』を遺し、へミングウェイは『誰がために鐘はなる』を遺した。

 ハバナの旧市街には当時、ヘミングウェイが定宿としていたホテルがあり、その511号室は公開されている。

ヘミングウェイが通っていたレストラン・バーにある実物大の像の前でポーズ

 夜にはヘミングウェイが座っていた席があるハバナ市内のレストラン・バー「フロディータ」に出かけた。そこには実物大の像が、肩肘をカウンターに置き、同じポーズをとっていたそうだ。私もそこで、同じようにラム酒カクテル「ダイキリ」を飲んでみた。

屋外レストランでヘミングウェイが好んだラム酒の「ダイキリ」を嗜む

 連泊したホテルは海外からの客をあてこんだリゾートタイプで、広いプールがあり、屋外レストランも備えていた。

ハバナ郊外の宿泊ホテルの室内から眺めた広いプール

 ハバナ旧市街は後述の要塞群とともに1982年に世界遺産に登録されている。米国のホワイトハウスに模して建てられた旧国会議事堂や、重厚な大聖堂のカテドラルなどを観光し、街並みを散歩した。

米国のホワイトハウスに模して建てられた旧国会議事堂
重厚な大聖堂のカテドラル
旧市街の通り
街で見かけた気さくな市民との交流

■カリブに築かれた堅牢な要塞の街

 かのコロンブスが1492年に発見し「この世でもっとも美しい土地」といわしめたキューバ島は、スペインの植民地として苦難の道をたどる。しかし砂糖とタバコ、奴隷の貿易で栄え、スペイン人によって建設された。ただカリブ海の要所にあるだけに、ハバナは外部からの攻撃に備えて堅固に要塞化された世界最初の街となった。今に残るバロック様式の壮麗な貴族の屋敷は、その昔日の繁栄を彷彿とさせる。

 キューバの世界遺産は自然遺産を含め7ヵ所を数えるが、1997年までに登録された文化遺産の3ヵ所を見学した。旧市街から海底トンネルで結ばれたモロ要塞は、ハバナ湾の入り口に16世紀末に築かれ、高さ20メートル、厚さは20センチもある。スペインから独立後、アメリカに政治と経済を牛耳られた歴史を経て、要塞はその役割を閉じた。

ハバナ湾の入り口にそそり立つ堅牢な世界遺産のモロ要塞
モロ要塞の内部

 しかし要塞は一時牢獄として転用され、訪問時は灯台として活用されていた。要塞だけに各所に砲台が備えられているが、青い海に突き出した威容は、世界遺産にふさわしい特有の建築美を醸していた。

モロ要塞からカリブ海を望む
要塞の各所に備えられている砲台

 もう一つの要塞は、ハバナの小さな国内空港から小型機で2時間のサンディアゴ・デ・クーバの街から南西約10キロにあった。

ハバナの小さな国内空港から小型機で移動

 湾の東側の切り立った岬の突端にそびえるサン・ペドロ・デ・ラ・ロカ城塞で、ここも1997年に世界遺産になっている。イタリア軍の技師が設計したといい、17世紀に60年かけて完成したのだ。 いくつもの部屋があり、現在は海賊博物館として開放されている。屋上に出ると、革命の戦士らが拠点にしたシエラ・マエストラ山脈が望めた。

世界遺産のサン・ペドロ・デ・ラ・ロカ城塞の外観

 サンディアゴ・デ・クーバは16世紀に首都のあった古い街で、キューバ二番目の都市でもある。革命の舞台となった市内には、カストロ率いる革命軍が襲撃した7月26日モンカダ兵営博物館があった。入り口の壁面には今も弾痕がいくつも残り、建物は博物館のほか、大半を小学校として活用していた。

 1988年に世界遺産に登録されたキューバ島南岸のトリニダーとロス・インヘニオス盆地は、砂糖と奴隷貿易の一大中心地だっただけに、繁栄の光と影を色濃く残していた。

 トリニダーはホセ・マルティ広場を軸に、石畳の道路に面し、17-18世紀かけて建てられた歴史的建物が軒を並べ、さながら街全体が博物館のようだ。バロック様式の鐘塔の美しいサン・フランシスコ修道院をはじめ砂糖王の異名をほしいままにしたカンテロの邸宅には、すばらしい調度品が展示され、いかに富を蓄えたかを誇示していた。

 一方、ロス・インヘニオス盆地は、かつてサトウキビ畑が広がり「砂糖工場の谷」と呼ばれた地域で、ここには高さ44メートルの「イスナーガの塔」がある。塔に登ると一面にヤシが茂っていたが、当時は塔の上から奴隷を監視していたのだ。塔の上で打ち鳴らされる鐘の音が作業の開始を告げ、逃亡を知らせるものであり、奴隷たちにとって苦痛の響きだったに違いないと思われた。

奴隷の仕事を知らせ監視の役目もしていたイスナーガの塔

 トリニダーの繁栄の陰であえいでいた奴隷たちにとって、唯一の楽しみはカーニバルだった。人間の尊厳が全て剥奪されて残ったのは歌と踊りと言うわけだ。奴隷たちの憤りの表現だったかもしれないが、人間から人間らしさを取り上げた時に生まれた究極の芸術ともいえよう。継承された奴隷たちの歌と踊りは、現在では海外の観光客らを楽しませている。

■生活は貧しくも表現豊かな国民性

 キューバで特筆すべきなのは、すぐれた音楽性とスポーツの適応力だ。マンボをはじめチャチャチャ、ルンバなどラテン音楽のリズムはキューバから生まれた。連日広場などで生演奏があり、昼食のレストランには呼びもしないのに流しの音楽メンバーがやってくる。

音楽は生活のどこにでも。ホテルやレストランで生演奏
昼食していても流しのメンバー

 ハバナで見たキャバレー・トロピカーナのショーは、革命前から約60年の歴史を持つ。日本円で8000円もしたが、あらゆる音楽の要素に曲芸も加えを組み入れた洗練された舞台で堪能できた。

キャバレー・トロピカーナのショー

 スポーツでは、2004年の「アテネ五輪」で9つの金メダルを取り、「ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)」でも強豪ぶりを発揮の野球王国であることは誰もが認めるところだ。感受性と表現力豊かな国民性は美術においても例外ではない。ハバナやトリニダーの街角で絵画を売っている画廊や土産もの屋を数多く見受けた。作品は底抜けに明るい色彩が目立った。キューバの人々は素直に感情を絵に表しているように思った。スポーツや芸術分野での才能は国費で英才を育てる環境にある。

 キューバは長期的なアメリカの経済封鎖にあって、厳しい生活環境にあった。キューバの貧しさは、社会主義体制のためでなく、アメリカの制裁がもたらせていると言えなくもない。しかし、それゆえ社会主義がなお貫けているのかもしれない。

 2004年に通貨をペソと定め、それまで利用できたUSドルなど外国通貨の使用を禁止している。このため予めカナダドルやユーローに交換して、現地で8パーセントの手数料を払って兌換ペソに両替しなければならなかった。ところが複雑なことに兌換ペソは外国人向けで、他に現地ペソがある。一兌換ペソは95円相当で、25現地ペソということだった。このため兌換ペソが使える店と現地ペソを使える店が分けられている。地方の観光地の郵便局では、兌換ペソで切手を買おうとしても通用しないのだ。

 経済的には平等をめざす社会主義国ゆえ、もちろん食料など生活必需品は配給制だ。家賃はじめ医療と教育は無料のため、ホームレスは存在しない。土地は国有だが、農地などは組合や一部個人に使用権が認められている。

 国民のほとんどが公務員で、都市部の人は国営企業で働く。平均月収はわずか1600円そこそこという。このためタクシーやホテル、レストランの従業員など観光サービス業に従事している者の方が、チップをもらうため医者や教師より給料が多くなる。しかし兌換ペソは貯めても自由に流通しない。

 北朝鮮と違って、旅行者はどこにでも自由に行き来でき、市民らとの接触も自由だ。通訳を介してだが、多くの人達から話も聞けた。生活への不満を漏らしていたが、「金があっても、大きな家に住む訳にもいかず、せいぜいテレビを買う程度です」「車を欲しいが置く場所がない」「今日の一日を平和に過ごせればそれでいい」といった言葉が戻ってきた。

 国際的に社会主義の限界が潮流となる中、若い世代の動向が注目される。かつて革命を成就したのは、特権階級に不満を持った32歳のカストロ議長らが率いる若い世代だった。それから半世紀、革命世代は90歳を超える。一方、社会主義の理念を受容してきた今の若い世代のエネルギーは、経済的な豊かさと自由を求めている。国際スポーツ大会に参加後、亡命した者も少なくない。

 政府は貿易不均衡による外貨不足のため、観光に力を入れている。長く美しい海岸線を活かしてリゾート開発を進めており、カナダやドイツ、フランス、さらには東欧圏から観光客が増えている。それは資本主義の風を受け入れることにもなる。

美しい海岸線の続く海岸線
キューバ最大のビーチリゾート
リゾート地で旅仲間と記念撮影(中央が筆者)

■対米は雪解けの兆しながら紆余曲折

 時は移り2014年12月17日、 米大統領のバラク・オバマとキューバ国家評議会議長のラウル・カストロは国交正常化交渉の開始を電撃発表した。数か月以内に大使館を開設し、銀行や通商関係の正常化を話し合うことでも合意した。

 両国政府は2013年からカナダ政府とローマ教皇フランシスコの仲介で、秘密裏に交渉を続けてきたという。そして翌15年4月にオバマ政権はキューバの「テロ支援国家」指定を解除すると発表した。その後の45日間にアメリカ連邦議会も解除に反対しなかったことから、同年5月29日にリストの除外が正式に決定した。

 さらに2015年7月20日にアメリカとキューバ相互に大使館を再び開設し、1961年に断交して以来54年ぶりに国交が回復した。翌年3月20日にはオバマがキューバを訪問した。8月31日には半世紀以上ぶりの定期航空便の第一便として、ジェットブルー航空387便がフロリダ州から離陸し、サンタ・クララに着陸したのだった。

 ところがオバマの後を継いだドナルド・トランプは2017年6月16日にオバマの対キューバ政策を完全に解消するとした自身の方針を打ち出した。オバマ前政権下で緩和されたキューバ軍関連組織との商取引規制や渡航制限などの対キューバ制裁強化策は同年11月9日から施行された。

 二転三転、2020年の大統領選でトランプは再選されず、ジョー・バイデンは、トランプ政権の対キューバ政策見直しを選挙公約した。とはいえ2022年の中間選挙を控えるバイデン政権にとって、キューバとの関係改善は早急な成果が期待し難く内政上のコストが高い案件となっている。

 キューバにとって、アメリカとの関係は雪解けの兆しだったが、まだ今後とも紆余曲折がありそうだ。同じ一党独裁とはいえ、開放経済を進める中国やロシアとは一線を画し、独自の社会主義を貫くキューバの今後を注目したい。「平等か、自由か」の選択ではなく、「人間性尊重の路線が貫けるか」が、大いなる実験でもある。

 自由と民主主義を標榜した祖国・アメリカの裏切りが、ヘミングウェイを挫折させ、自ら死を選ばせたとするならば、ヘミングウェイは今日のアメリカの国際戦略に何を思い、キューバの姿をどのように思うのであろうか。


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