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ヨーロッパ文化とも融合、モロッコ魅力たっぷり「迷宮都市」の旧市街は世界遺産

 モロッコへ行こうと思ったのは、スペインのイベリア半島を旅した時、地図を見ていて、海峡を隔て、わずかフェリーだと約1時間半の近さであることが分かった。もう一つ、私の尊敬する映画監督の新藤兼人監督のお勧めが「モロッコ」(1930年製作)だったことも頭の片隅にあった。さらにアフリカはエジプト以外未知の地だったこともあった。モロッコは、「ここは地の果て」と歌われたアルジェリアよりさらに西方だ。

 この地域はアラビア語で「マグリブ」と言う。それは「日の没する地」「西の最果て」を意味する。この国に初めて足を踏み入れたのは、2014年秋のこと。しかし、その地は辺境ではなく、海峡をはさんでヨーロッパとつながり、異文化が収斂した魅力たっぷりの国であった。

■首都で世界遺産のラバトは夜の観光に

 アフリカと言えば南方を想像するが、ヨーロッパと近接し、モロッコはほぼ日本と同じ緯度にある。国土は日本の約1.2倍、人口は約3780万人。王国で国教はイスラム教(スンニー派)。アラブ人が65%、ベルベル人が35%、公用語はアラビア語だが、かつてフランス領だったことからフランス語はどこでも通じるし、北部ではスペイン語、観光地では英語も通じる。

 関西空港を午後10時40分に出発。ドーハ経由で モロッコ へ。飛行時間はドーハまで約12時間、ドーハから約8時間30分、現地時間の午後2時50分にカサブランカに到着した。時差が-9時間だから、ほぼ1日がかり。アフリカ北西部に位置するモロッコは、やはり遠い国だった。

 カサブランカのムハンマド5世国際空港に到着後、入国手続きを終え、すぐさまバスに乗り換え首都のラバトへ向かう。約90キロ、少し眠っていたら目的地に着く。ここは大西洋岸に位置し、モロッコ第2の都市で、王宮や行政官庁、各国大使館などが集まる政治の中心地だ。すでに日が暮れてしまっていた。

カサブランカのムハンマド五世国際空港に到着後、バスで首都のラバトへ

 「近代的歴史都市ラバト」は、2012年に世界遺産に登録された。バスを降りて最初のスポットがムハンマド5世の霊廟。施された装飾が照明にくっきり浮かぶ。その外観はモロッコ建築の傑作とされる。霊廟でありながらモスクであり、博物館にもなっている。ちなみにムハンマド5世は、フランスから独立を勝ち取った前の国王で建国の父と呼ばれる。

ムハンマド5世の霊廟遠景
ムハンマド5世の霊廟
ムハンマド5世の霊廟(『モロッコのすべて』から)

 この霊廟のすぐ近く、同じ敷地内にハッサンの塔が建っている。12世紀に建設の途中で、王様が亡くなり放棄された未完の塔だ。高さが44メートルあるが、完成していれば2倍の88メートルになり、まさに世界一高いミナレットであっただろう。塔の南側に大理石の柱が360本も立ち並ぶ。こちらも未完の壮大なモスクの跡である。昼間の観光でなかったことが、いかにも残念だ。

ハッサンの塔
ハッサンの塔(『モロッコのすべて』から)

 この日の宿泊は、イスラム王朝の古都、フェズだった。ラバトを離れ200キロ走行し、夜の10時過ぎに着いた。

ラバト全景(『モロッコのすべて』から)

■フェス旧市街は「世界一の迷宮都市」

 翌朝から、モロッコで一番早く1981年、世界遺産になった「フェズの旧市街」の観光に出向いた。フェス・エル・バリと呼ばれる旧市街(メディナ)は、9世紀初めイドリス2世によって造られたモロッコで最古の王都だ。常に外敵の侵略にさらされてきた地中海沿岸地域では、周囲に堅固な城壁を巡らせ、内部を複雑な構造にした都市が築かれた。中でもフェス旧市街は巨大迷路のような複雑さで、「世界一の迷宮都市」と形容される。このツアーの最大の見どころでもあった。

小高い丘からのフェズ旧市街眺望

 まずは旧市街が一望できる小高い丘からの眺望がすばらしい。現地ガイドを挟んで記念撮影も。

現地ガイドを挟んで記念撮影も

 ボルジュシュッドの砦などを見学し、いよいよ旧市街へ。メディナへの入口のブー・ジュルード門がある。1913年に建造されたフェズ最大の門だそうで、青と緑のタイル、幾何学模様の彫刻が施されている。

ボルジュシュッドの砦
メディナへの入口のブー・ジュルード門

 門をくぐると、そこは混沌と喧噪の世界。人がすれ違うのがやっとの狭い路地が無秩序に延びている。車両が入れない路地を歩く人々で溢れかえり、荷物の運搬にも手押し車が使われ、毛皮など山積みしたロバ車、馬車が行き交う。香料、織物、真鍮細工など同業の商店が集まるスーク(市場)が点在する。

無秩序に延びている狭い路地
山積みしたロバ車、馬車

 さらに奥へと歩を進めると伝統工芸の職人街が続く。狭い道を歩きながら、陶器・彫金工場の見学する。

スークの工芸品店

 さらにタンネリという革染色職人街では、なめした革を手作業で鮮やかに染色したり、紡いだ糸を染め上げたり、何百年にもわたって培われてきた技術を継承しながら、職人たちが日々の暮らしを営んでいた。

革製品専門の大型店
革製品の大型店の屋上にある工場

 メディナ内には大きなモスクやマドラサ(神学校)が点在する。モロッコ最大規模のカラウィーン・モスクは、チュニジアのカイルアンから避難してきたアラブ人やユダヤ教徒が移り住むようになったため、建造された。857年に当初は小さな礼拝堂として建てられて後、拡張を重ね、現在は2万人以上収容できる。モスク内には世界最古の大学も創建され、アラブ諸国から多くの留学生が集まった。建物の壁面には幾何学模様やアラビア文字の美しいタイルがちりばめられ、中庭には大理石の噴水がある。

カラウィーン・モスクの中庭
彫刻が施されたカラウィーン・モスクの窓

 カラウィーン・モスクのすぐ近くにムーレイ・イドリス廟がある。フェズの町を建設したムーレイ・イドリスの墓があり、15世紀からモロッコの人たちの巡礼の地となっている。

ムーレイ・イドリス廟

 ブーイナニア神学校も訪れた。ここはコーランを教える学校であると同時に祈りの場でもある。広い中庭の床は大理石で、細い溝にはフェズ川から引かれた水が流れている。内部は美しいガラス窓や壁や天井の装飾が行き届いている。

ブーイナニア神学校

 王宮は旧市街の広大な敷地を占有している。国王がフェズに滞在する時に使われるだけで、中には入れない。王宮の正門には、幾何学模様の装飾と金細工はピカピカに磨かれ美しく輝いている。近くに寄ってみると、その素晴らしさがより一層分かる。独特なタイル模様も紺色を基調に、赤・白・黄色・エメラルドグリーンなど様々な色がミックスされ、華やかだ。

フェズの王宮
幾何学模様の装飾と金細工の王宮の正門

 メディナの複雑に入り組んだ路地を行きつ戻りつさまよえば、モロッコ最古の王都の1000年にわたる歴史や、今を生きる人々の息遣いがひしひしと伝わり、迷宮に迷い込んだ異邦人の心地がする。異教徒が立ち入れないモスクやマドラサなどもあるメディナは、敬虔なムスリムの生活の場であり、生きている世界遺産なのだ。

■感動的だったサハラ砂漠でのご来光

 午後には、モロッコ中央部を南北に横たわる3000メートル級のアトラス山脈の切れ目を縫って山越え。一路、砂漠の基地エルフードを向け438キロも走破する。湿気を含んだ大西洋の風がアトラス山脈に当たって雨を降らし、山を越えると乾燥した風になって砂漠地帯となるという。午後8時過ぎホテルに着いた。翌朝はこの旅のハイライトであるサハラ砂漠で日の出を迎える。

アトラス山脈を越えて砂漠の基地エルフードへ

 早朝4時半、四輪駆動のワゴン車に乗ってホテルを発つ。メルズーガというラクダが待機しているところまで、約30分のドライブだが、石ころゴロゴロの悪路を走る。砂漠の道なき道を疾走し、大揺れに揺れまくった。シートベルトがなければ振り落とされるだろう。

 サハラ砂漠は、アフリカ大陸北部にある世界最大の砂漠で、東西5600キロ、南北1700キロもある。面積は約1000万平方キロもあり、アフリカ大陸のおおよそ3分の1を占める。領地とする国だけでも、モロッコをはじめ、エジプト、チュニジア、リビア、アルジェリア、西サハラ、モーリタニア、マリ、ニジェール、チャド、スーダンに及ぶ。

 到着するや、マフラーや手袋、上着など防寒の備え。私は行きはラクダに乗り、帰りは歩くことにした。日の出を待つスポットに到着したが、暗闇でその時を待つことになる。

日の出を待つ筆者夫妻と現地のベルベル人

 エジプトのシナイ山では凍えるような寒さだったが、それほど苦にならなかった。やがて東の果てが白みかけてきた。午前6時38分に、その時が来た。次第に太陽が顔を覗かせ、陽光が砂の上を照らす。砂漠のご来光も感動的だった。 太陽が砂漠の全面を照らし始めた頃を見計らって引っ返すことになる。 さらさらの砂地は歩きずらい。それも起伏があり、何度もよろけながら進んだ。ふと映画「モロッコ」のラストシーンが思い出された。

サハラ砂漠のご来光

 「モロッコ」は、日本語スーパー字幕が初めて付いた映画であった。ゲイリー・クーパーが演じるモロッコ駐屯のドイツ外国人部隊の一兵卒と、マレーネ・ディートリッヒの歌姫のラブストーリー。舞台はカサブランカから海岸沿いに南西に350キロ下ったモガドールだが、その最後の場面が、砂漠の先を進む外人部隊の男を追う現地の女に混じって、歌姫が愛する一兵卒を裸足で追いかける。行進の小太鼓の音が遠ざかり、砂漠を吹き渡る風の音だけがする…。

 ご来光と「モロッコ」の余韻を残し、終日バスでの移動。途中、トドラ渓谷とティネリールの景観を楽しみワルザザードへ。この行程は「カスバ」と称す城壁に囲まれた要塞と居住地区が点在していることから カスバ街道と呼ばれる。かつて隊商や遊牧民がラクダにまたがり旅した交易路でもあった。

ラクダの背に乗った旅行客

 丘の上に広がる街にあるワルザザードは宿泊だけで、翌日は1987年に世界遺産登録のアイト=ベン=ハッドゥを経て、マラケシュに向かった。アイト=ベン=ハッドゥは土造りの建物が川岸の斜面に建ち並ぶモロッコでも有数の美しい村だ。「アラビアのロレンス」(1962年製作)や、「ナイルの宝石」(1985年製作)のロケ地としても知られている。

筆者は歩いて帰路

■古都のマラケシュ、近代都市カサブランカ

トドラ渓谷

 11世紀後半、ベルベル人たちが築いた王朝の都として拓けたマラケシュは、ベルベル語で「神の国」の意。モロッコのほぼ中央に位置し、東西2キロ、南北33キロ。全長20キロの城壁に囲まれた旧市街(メディナ)と、そこから西に広がる新市街からなっている。旧市街は北アフリカでも最大の規模であり、王宮のほか、バヒア宮殿、エルバディ宮殿、サアード朝の墳墓群、ベルアベ陵、アグダル庭園などの名所が点在し、1985年に世界遺産に登録されている。

土造りの建物が美しいアイト=ベン=ハッドゥ
丘の上に広がる街にあるワルザザード

 旧市街の中心にジャマ・エル・フナ広場があり、露天や大道芸人立ちも集い、年中お祭りのような賑わいだ。このフナ広場を見下ろすように聳えるクトゥビアの塔は、高さが77メートルあり、マラケシュのシンボル的存在だ。塔の頂を飾る玉は、人びとに平穏をもたらす力があると信じられている。フナ広場の西側に12世紀中ごろに建設されたクトゥビア・モスクは華美な装飾が排されたシンプルさが特徴だ。

ジャマ・エル・フナ広場の賑わい
マラケシュのシンボル、クトゥビアの塔
シンプルなクトゥビア・モスク

 マラケシュに一泊した午前中も旧市街の観光スポットへ。バヒア宮殿は、モロッコのアルハンブラ宮殿とも言われ、広大な庭園に4人の妃と24人の側室の部屋を配した豪華な建物だ。彩り鮮やかなタイルの床や壁に、アトラスシーダの細密画の天井、見事な彫刻の柱や壁、イスラム芸術の粋を集めている。サラディーン廟は、サアード朝の王が眠る霊廟。1917年に空撮で発見された廟だそうで、サアード朝の歴代スルタン(王)が眠っている。

豪華なバヒア宮殿
サラディーン廟

 最後の訪問地は、最初に到着したカサブランカに戻ったことになる。マラケシュから238キロ、モロッコ最大の都市だ。 商業・金融の中心地で、2019年に発表されたグローバル都市指標では世界第94位の都市と評価されるなど、アフリカ有数の世界都市でもある。イスラムとヨーロッパが共存した近代的な都市で、大西洋に面した主要貿易港を有す。

 ここではまずハッサン2世モスクのスケールに驚いた。1993年に完成の新しいモスクで内部に2万人、モスク前の広場に8万人が収容できる。高さ200メートルのミナレットを備え、外観のモザイクタイルもすばらしい。ムハンマド5世広場は街の中心に位置し、主な道路はこの広場から放射線状に延びている。

ハッサン2世モスク
ムハンマド5世広場

 映画「カサブランカ」(1942年製作)は、第16回アカデミー賞で作品賞、監督賞、脚色賞の3部門を受賞している。ハンフリー・ボガートとイングリッド・バーグマンが共演したラブロマンス。第2次世界大戦下の1941年、アメリカへ行くためには必ず通らなければならない寄港地だったフランス領モロッコのカサブランカ。そこで酒場を営むアメリカ人のもとに、かつてパリで恋に落ちたものの、突然目の前から姿を消した恋人が、夫で反ナチス活動家を伴って現れるストーリーで、「君の瞳に乾杯」の名セリフが広く知られる名作だ。

 再びムハンマド5世国際空港から帰国の途に就いたが、機内の窓からの光景を眺めながら「いつか再訪したい」との思いを強くした。

ムハンマド5世国際空港から帰国の途

 地中海と大西洋に面し、南東にはサハラ砂漠が広がるモロッコは、ヨーロッパ世界と交流を持ちながら、先住民族のベルベル人が築いた文化と、さらにイスラム文化を融合させ、独自の街や社会を創り上げた魅力的な国だった。数々の名画の舞台となり、フェズの迷宮都市が象徴するように、旅人を誘う不思議な世界が、確かにあった。

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