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神秘に満ちたインカの文明 マチュピチュ遺跡やナスカ地上絵の実見に感激

 古代の謎と神秘に満ちた南米ペルーの世界遺産を2010年1月に訪れた。砂の平原に描かれた壮大で不思議なデッサンのナスカの地上絵と、神秘のベールに包まれたインカの空中都市のマチュピチュ遺跡は、何度も写真や映像で見ていただけに、実際に自分の目で確かめたかった。これより先2007年8月に京都文化博物館で「ナスカ展」を、同じ年の10月に神戸市立博物館で「インカ・マヤ・アステカ展」を見ていて、一層好奇心をくすぐられていた。さらにペルー訪問後の2012年4月には、東京の国立科学博物館で「インカ帝国展」も鑑賞していて、こうした企画展の概要や感想も踏まえリポートする。

■セスナ機でナスカの地上絵観覧

 地球儀を見ればよく分かるが、日本のほぼ裏側にあるペルーは遠い。伊丹から成田空港を乗り継いでロサンゼルスまで約13時間半。ロスで約3時間待ち、リマへは空路約8時間半もかかった。時差は14時間。日本と昼夜も逆になる。機内で仮眠しホテルに到着したのは午前2時過ぎだった。

 ペルーに着いて、まずナスカの地上絵を観光した。1994年に世界遺産に登録されているが、その「世界遺産 ナスカ展 地上絵の創造者たち」展では、ミイラをはじめ、紀元前からのナスカ文化の数々の埋葬品が展示されていた、とりわけ関心を寄せたのが、会場内でバーチャル・リアリティの遊覧飛行の映像が流されていた。古代の人々の宇宙的ともいえるメッセージの地上絵は、地上からでは分からない。

 現地はリマからバスで440キロ、パンアメリカンハイウェイをドライブすること約3時間半の道のりだ。ナスカは太平洋沿いの漁港だ。この辺りの家には屋上に鉄骨が何本も突き出ていた。ガイドの話だと、まず1階を建て、お金が貯まると、2階、3階へと上に建て増しするそうだ。

ナスカの飛行場

 ナスカの飛行場には、観光用のセスナ機が待機していた。30分も飛ぶと、機長の「右」「左」の日本語が発せられた。30度以上の角度で右に、左に旋回する。シャチ、クモ、サル、ハチドリ、コンドル、カモメ、サギ、イグアナ……。全体の形が十分に把握でないまでも、明らかにその形象が目に飛び込んでくる。しかしカメラに収めるのは難しかった。何しろ400平方キロもの広大な平原に壮大な地上絵が描かれているのだ。

セスナ機の車窓から。難しい遊覧飛行からの地上絵の撮影

 文献によると、6世紀ごろに描かれたとされる地上絵は、台地の表面を覆う暗赤褐色の小石を約20センチの幅で取り除き、下の白い砂を露出させる手法で描かれたようだ。幅が約10メートルから、大きいものだと約300メートルもある。ほとんど雨の降らない乾燥地だけに、残存したとみられる。

10メートルを超すハチドリの地上絵(『ナスカ展』図録より)

 ペルー南部のこの大地に、こうした数々の絵模様が発見されたのは、1939年のことだ。地上からでは巨大過ぎて不明なこの絵を、別の調査で上空を飛んだ学者が偶然に見つけたという。

ユーモラスなサルの地上絵(『ナスカ展』図録より)

 その後、生涯を地上絵の調査研究に捧げたのがドイツの数学者マリア・ライヘ博士だ。線が太陽、月、星の軌道、絵がナスカの神だった星座を意味しているとの「天文カレンダー」説を唱える彼女が建てた観測塔は、上空からもパンアメリカンハイウェイの近くに確認できた。この塔は地上の観光客に開放されているそうだ。

 それにしても大地をキャンパスにした巨大な地上絵をだれが、なぜ、何のため描いたのか、宇宙人説など諸説が飛び交うように、未解明なことが多い。この古代人からのメッセージに思いをめぐらせながら、ナスカの地を後にした。

セスナ機を操縦し、案内役の機長と記念撮影

■閉鎖直前だったマチュピチュに感激

 ペルーの南東部にあるマチュピチュへは、リマからクスコへ飛行機で1時間15分、空港からペルーレイルのオリャンタイタンポ駅へバスで約2時間、その先112キロの終着駅アグアス・カリエンテスまで1時間半の鉄道の旅。さらに専用バスで約30分、九十九折のイハラム・ビンガム・ロードを一気に400メートル上り、やっと入り口に至る。

 クスコから現地へは大型バスが乗り入れられず、国家政策で開設した鉄道が一般の観光客の唯一のアクセスとなっている。帰国直後に伝えられた豪雨による観光客約2000人の孤立ニュースには驚いた。豪雨で土砂崩れによって鉄道が寸断されてしまうと孤立する。邦人旅行者も約70人が孤立し、アルゼンチン観光客や現地ガイドら5人が死亡した。豪雨で土砂が崩れ鉄道が寸断されてしまい、ヘリコプターによる救助騒ぎとなったのだ。

 この時期は雨季で、私が訪れた時も小雨混じりだった。その数日前にも豪雨に見舞われたとのことで、鉄道と平行して流れるウルバンバ川には濁流が渦巻いていた。当初検討していた4日後の出発だと、まともに事故に直面しており、肝を冷やしたものだ。

数日前の豪雨で濁流が渦巻くルバンバ川に

 さて肝心のマチュピチュは、第九代のインカ王が築いたといわれる。「幻の都」を捜し求めていたアメリカ人探検家のハイラム・ビンガムによって1911年に発見された。標高2400メートルもの断崖絶壁の、わずか5平方キロの尾根に、15~16世紀のインカ帝国時代に築かれたまさに天空の文明都市が存在していた。

高台から撮ったマチュピチュ遺跡。後方にワイナピチュが聳える

 いち早く1983年に世界遺産に登録されたマチュピチュ遺跡は、奥深いジャングルに守られ、スペインの侵略の手が届かず、何世紀もの間だれの目にも止まらず遺されたのだ。遺構はウルバンバ川から運ばれたという石造で、居住区域と農耕区域に分けられていた。

居住区域内には庶民、聖職者、貴族の住居があり、主神殿や太陽神殿も

 居住区域内には庶民、聖職者、貴族の住居があり、主神殿や太陽神殿、コンドルの神殿、ピラミッド状の高台に造られたインティワタナと呼ばれる儀式的な施設、さらには陵墓や石切り場、水汲み場などの建築群が配置されていた。一方、農耕地区には段丘を利用した段々畑や灌漑施設が備わり、農地管理人の住居跡もあった。

太陽の神殿の石組み
綿密な工事がなされた石組みの遺構

 藁葺屋根が復元された見張り小屋まで登ると遺跡が一望できる。前方にワイナピチュ山がそびえている。観光パンフレットで目にするパノラマ光景が目の前に広がっていて、心躍った。自然の丘陵地を活用した段々畑は幾何学的な美しさだ。太陽を崇拝する建物群も見事に自然と融和していた。

藁葺屋根が復元された見張り小屋
農耕地区の見事な段々畑

 天候がめまぐるしく変わり、雨の中、霧雨で曇れば、時折り雲間から陽光も射し、様々な風光を楽しめた。まさに「空中都市」と称されるだけあって、高台に立つと想像以上の別世界で、はるばる訪ねてきた値打ちがあった。

降りしきる雨の中、難路のワイナピチュへの登山道

 マチュピチュ観光は普通、2時間半から3時間半。私は麓のアグアス・カリエンテスに泊まる日程だったので、一日半をかけることができた。翌朝、遺跡や周辺の山々を一望できるワイナピチュ山へ登った。あいにくの雨で足場は最悪でだった。1時間半かけて登った頂上は大きな一枚岩で、視界もきかなかった。下山中に霞の間からわずかに望めた神秘的なマチュピチュ遺跡に慰められた。

ワイナピチュの標識の前で記念撮影
ワイナピチュの頂上にある一枚岩

■クスコは滅亡インカ帝国の名残

クスコとマチュピチュを結ぶペルーレイル

 マチュピチュからの帰路、再びペルーレイルに乗った。この列車は全席指定の1両で、アンデスの踊りのショーと特産のアルパカ製品のファッションショーが楽しめた。ショーを演じるのは、なんと乗務員なので驚いた。約1時間半でオリャンタイタンポ駅に着き、バスでクスコの街へ。

帰路の車両内ではアンデスの踊りのショーも
仮装しているのは乗務員

 クスコはインカ帝国の「黄金の都」の中心地。15世紀、アンデス地方で隆盛を誇ったインカ帝国は南北5000キロにわたる領土を所有していた。しかし1532年、スペイン軍に滅ぼされる。征服者たちは神殿を破壊し、次々とスペイン風の教会を建てたのだ。

クスコ市街を望む

 マチュピチュと同じ年に世界遺産となったクスコの中心はアルマス広場であり、100年かけて建造した大聖堂の威容が目を引いた。サント・ドミンゴ教会はインカ時代コリカンチャと呼ばれる太陽の神殿の土台の上に建てられた。教会を襲った地震にも、土台はひずみを起こさなかったという、インカの石組みの精巧さを物語る逸話が残っている。

クスコの中心にあるアルマス広場に面した大聖堂
クスコのサント・ドミンゴ教会(インカ時代のコリカンチャ=太陽神殿)の回廊

 市街から離れたサクサイワマンにも足を延ばした。ここはインカ時代に政治や軍事、宗教儀式の場として使われた砦です。巨石を組み合わせ3層の要塞を建造しているが、石がぴったりとかみ合っている。

精巧にかみ合わされたサクサイワマンの要塞岩

 さらにプーノでは海抜3890メートルに位置するティティカカ湖を訪ねた。この湖にあるウロス島はトトラと言う葦を積み重ねた「浮き島」だった。人間の知恵に驚かされるばかりだ。

海抜3890メートルに位置するティティカカ湖
ティティカカ湖のウロス島は葦を積み重ねた「浮き島」

 ペルーの旅は神秘に満ち満ちていた。とりわけマチュピチュはインカ帝国の要塞だったのか、聖都だったのか、多くの謎を秘め、その都市の終焉も未解明なことが、一層魅力を高めている。

別れの際、見送ってくれたウロス島の島民ら

■ミイラやヒスイの仮面など異文化の展示

 神戸市博の「インカ・マヤ・アステカ展」は、NHKスペシャルの「失われた文明 インカ・マヤ」と連動し企画され、初公開のマチュピチュ出土品やアンデスのミイラなど約220点が展示されていた。アンデス地域では古くから死者をミイラとする風習があった。「父と子のミイラ」(マルキ研究所)は帽子を被り服をまとった姿で、リアリティーに富んでいた。ミイラの顔を見ながら共に暮らしていたインカの死生観に驚く。

 またインカは文字がなかった文明として知られているが、インカ道を行き来した飛脚は《キープ》(15世紀中頃-1532年、ペルー・リマのラルコ博物館蔵)という情報記録具を持っていた。縄の結び目で数や情報を記録したとされ、色分けもされているが、何の情報を伝えたのかは未だ解明されていない。

《キープ》(15世紀中頃-1532年、ペルー・リマのラルコ博物館蔵)

 マヤの方は、ユカタン半島を中心に紀元後、巨大な階段式基壇を伴うピラミッド神殿が築かれ、王朝の歴史を表す石碑などを刻み、2000年にもわたって継続された文明だ。会場内ではNHKならではの映像を駆使し、鬱蒼としたジャングルの中に突如現れる階段ピラミッドを空から見せていた。

 展示品としては、カラクルムの遺跡から出土した葬祭用のマスク3点が初公開されていた。《ヒスイ製仮面》《ジャガーの爪王の仮面》(いずれも600-900年、カンぺチェ博物館)は緑の顔に口紅の赤が印象的だ。
アステカは、14世紀から16世紀に現在のメキシコ中央部で栄えた。かつてのアステカ王国の首都は湖に浮かぶ島の上に築かれ、人口は20万にものぼったと推定される一大都市だった。

《ヒスイ製仮面》(600-900年、カンぺチェ博物館)

 《トラロック神の土製壺》や《トラロック神の鉢》、等身大の《ワシの戦士像》(いずれも1345-1521年、メキシコ市テンプロ・マジョール博物館蔵)は、神事にふさわしい神秘的な造形だ。会場ではアステカ王国の人身供犠の儀礼にまつわる珍しい品々も展示されていた。

《トラロック神の土製壺》(1345-1521年、メキシコ市テンプロ・マジョール博物館蔵)

 不便な高地に都市を築いたインカ、川さえもない密林に高度な文明を育んだマヤ、そして湖上に築かれ、太陽神を崇め生贄を捧げたアステカは、神秘に満ちた異文化で、興味は尽きなかった。

 もう一つの展覧会は、「マチュピチュ『発見』100年 インカ帝国展」だ。「インカ帝国の始まり」、「帝国の統治」、「滅びるインカ、よみがえるインカ」、「マチュピチュへの旅」の4部から構成されており、ほとんどが日本初公開という約160点が出品されていた。

 インカは文字をもたなかったこともあり、帝国の全貌が解明されていないのも、好奇心をくすぐる。展示会場もナゾ解きをする解説がほどこされていた。ケロは儀礼用に使われたコップで2個一組になっている。インカ王や王妃の姿が絵付けされたもの、ジャガーや人の頭部の形をしたものなど様々。合金や金製の小型人物像をはじめ水盆や壺、儀礼用容器などユニークな形態や色彩に特徴があって見飽きなかった。

 ここでも注目されたのはミイラだ。《成人男性ミイラ》(レイメバンバ博物館蔵)など4体分の生々しい姿で展示されていた。いずれも脚を折り曲げ座った形態で、これまでエジプトや中国などから出土したものも見比べても、大きく相違していた。《若い女性ミイラ》(ペルーのレイメバンバ博物館蔵)の包みは、褐色の糸で顔の形を描いていた。生前の顔に似せて描いたのかもしれない。

《成人男性ミイラ》(ペルーのレイメバンバ博物館蔵)

 マチュピチュのパノラマ光景が、展示の最後のコーナーに特設された「3Dスカイビューシアター」で再現されていた。世界で初めてという広範囲な三次元計測で実現したバーチャルリアリティー技術を用いて、マチュピチュ遺跡の壮大な姿を空から体感でき、感動的だった。

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 私が訪ねた南米のペルーのインカ文明から派生して、中米のマヤ文明とアステカ文明にも触れたが、いずれも15世紀末にヨーロッパ人が大西洋を越えてやってくるまで、私たちの住む旧大陸と切り離され、新大陸に位置づけられ、独自の文明を築き、発展していた。そこには神秘と謎に満ちた多様な文明が存在していたことに、あらためて驚くばかりだ。


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