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アウシュヴィッツの悲劇を伝えたい 〜「戦争の狂気」を語り継ぐ大切さ 〜

今夏もヒロシマとナガサキでの原爆祈念の日、そして終戦記念日の8月が巡ってきた。満州やマニラ戦線に出兵したことのある亡父から死を待つ床で、「戦争は絶対あかん。お前を新聞社にやれて、ほんとに良かった」とつぶやいた。筆者は、戦争をテーマにいくつかの記事を書き、出版、展覧会にも関わってきたが、どれほど戦争の愚かさを伝えられてきたのか、悔いが残る。


 定年後、映画『戦場にかける橋』の舞台であるタイのカンチャナブリーをはじめ、ベトナムのハノイ、ボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボなど世界の戦跡を訪ね、ネットで、ささやかながら戦争の悲惨さを伝えてきた。第二次世界大戦下の最大の悲劇、アウシュヴィッツは、1979年に「負の世界遺産」に登録されている。いつの日か現地を訪ねてみたいといった宿願を2016年になって果たせた。忘れてはならない歴史の記憶を記す。

■「シンドラーのリスト」の場面を実見 

 アウシュヴィッツとビルケナウは、アドルフ・ヒトラー率いるナチス党政権下のドイツが第二次世界大戦中に国家をあげて進めた人種差別的な抑圧政策により、最大級の惨劇が引き起こされた強制収容所である。日本を発つ前、現地の気温は零下10度以下と聞いていた。厳冬の1月に行ってこそ、現実感があるように思われた。

 出発前に『シンドラーのリスト』をビデオで見直した。主人公のオスカー・シンドラー(1908-1974)は、実在のドイツ人実業家でナチスの党員だった。収容したユダヤ人の虐待や惨殺を見るに見かね、ユダヤ人を雇用し、一説には1200人を虐殺から救った、とされる。この実話をオーストラリアのトーマス・キニーリー氏が執筆し、ユダヤ人でもあるスティーヴン・スピルバーグ監督が映画化したのだった。一連の経過をドキュメンタリー風に撮っていて、モノクロの映像がより迫真性を高めていた。もちろん演出や脚色しているが、「この地で何があったのか」を想像できた。実際に現地を見て、映画の場面がいくつも検証することがになる。

 予習と言えば、『アウシュヴィッツ博物館案内』(2005年、凱風社)を読んだ。著者は現地で働く唯一の日本人公式ガイドの中谷剛さんだ。神戸市生まれで1991年から居住し、97年に公式ガイドの資格を得ている。その著書のあとがきに「僕と同世代の人やもっと若い日本人の多くは、何の苦労もなく手に入れたためか、自由や平和の尊さや民主主義を忘れがちだ。僕は、被害者としても加害者としてもアウシュヴィッツ強制収容所に直接関わらなかった日本人の一人として、同胞に伝えられることがあるのではないかと考えた」と綴っている。

■ナチス犯罪の痕跡を留める数々の証拠

 第二次世界大戦によって国土の大半が焦土と化したポーランドの中で、奇跡的に破壊を免れた歴史遺産の都市クラクフに泊まって、早朝からアウシュヴィッツへ。西へ54キロ、バスで約1時間の距離だ。JTBのツアー添乗員が「日本人のガイドでしたらいいのですが」と繰り返し告げた。名前を明かさなかったが、私は中谷さんと知っていたので、著書を持参していた。しかし、私のグループはポーランド人ガイドで、中谷さんは別の日本人ツアーの担当だった。途中で出会ったので挨拶をした。中谷さんのアウシュヴィッツ観を聞けず残念だった。

01 入り口

 収容所の入り口だったゲートの上部に標語が掲げられている。ドイツ語で「ARBEIT MACHT FREI」―働けば自由になれる、という意味だ。しかしこのアルファベッドをよく見ると、ARBEITの「B」の字が上下逆になっている。看板を作ったのはユダヤ人で、せめてもの抵抗だったようだ。自由どころか、まさに地獄への入り口だった。

02 Bが逆に

 収容所の周囲に張り巡らされた二重の有刺鉄線の柵には6000ボルトの高圧電流が流れていたという。敷地内には地下室と屋根裏のあるレンガ造りの28棟が整然と並ぶ。ここに連れてこられたユダヤ人はナチス親衛隊員によって選別される。労働力にならない老人や妊婦、赤ん坊はガス室へ。残った人々は男女とも丸坊主にされ軍需工場や石切り場で一日12時間以上働かされた。虐待や陵辱は日常茶飯事だった。

03 二重の有刺鉄線

04 有刺鉄線の柵

 収容された建物のいくつかを公開し、ナチスの犯罪の痕跡と、その証拠を展示している。廊下の壁をずらり囚人たちのポートレートが埋め尽くす。後年はあまりの数に写真撮影もされなかった。

05 収容棟

整然と並ぶレンガ造りの収容棟

06 ポートレート

廊下の壁を埋め尽くす囚人たちのポートレート


 持ち物や衣類はすべて没収された。名前や住所の書かれた旅行カバンや衣服、靴などがうず高く積まれている。遺体から取り外されたメガネや義足・義手、杖などもある。人の髪の毛も集められ、カーペットなどの織物や布団の綿に代用された。三つ編みのまま切り取られた髪もあり痛々しい。

07 トランク

名前や住所の書かれた旅行かばんの山

09 ガス缶

高く積まれた義足・義手


 強制収容所は、ソ連軍により解放された。無条件降伏のドイツは直前に証拠隠滅を図ったが、間に合わなかった建物や遺物が、歴史の証拠となった。一度に大量虐殺の手段として使用された毒ガスとして用いられた殺虫剤「チクロンB」の缶も展示されている。シャワー室を装って閉じ込め殺戮したガス室や遺体の焼却場も見学できる。

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毒ガスの「チクロンB」の缶も展示

11 焼却場

そのまま残された遺体の焼却場


 ナチス親衛隊は1941年から43年にかけて政治犯や死刑囚を何千人も射殺した。ユダヤ人女性囚に不妊処置など人体実験を犯した棟の中庭には、銃殺された「死の壁」の一部が残され、献花されていた。思わず手を合わせた。

12 死の壁

銃殺された「死の壁」の一部



 屋外には集団絞首台や、収容所の元所長が処刑された絞首台もある。冬には酷寒の地で死を待つ日々を過ごした収容者たちを偲ぶ。あの「シンドラーのリスト」の場面が現実に行われていたことが浮かび、戦慄を覚えた。

13 絞首台

収容所の元所長が処刑された絞首台


 クラクフには数多くの収容所があり、犠牲者は百数十万人に及ぶと言われている。現存するアウシュヴィッツ1号収容所の後、約2キロ離れた2号収容所のピルケナウに向かった。ここはユダヤ人絶滅センターとしての役割を担っていた。この時季、一面雪に覆われていたが、140ヘクタールの広大な敷地に300棟以上のバラックが建っていたそうだ。現存するのはその一部だ。

14 ビルケナウ

広大な土地に設けられたピルケナウ収容所


 鉄道の本線から続く引き込み線が監視塔のある「死の門」をくぐって敷地内へ入り込んでいる。貨車に詰め込まれたユダヤ人らが送り込まれた様子が蘇る。

15 死の門

16 引き込み線

ビルケナウ収容所の「死の門」をくぐって収容所敷地内に
鉄道の引込み線が続く


 「この門を入ると、お前たちの出口は煙突だけだ」との逸話が残されている。線路の尽きた場所に石碑があり、その脇に20ヵ国の小さな慰霊碑が建つ。いかに多くの人々が犠牲になったかを、物語っている。

17 当時の写真

貨車で運ばれてきた当時のハンガリーのユダヤ人
(博物館のパンフレットから転載)

18 パネル

敷地内に設置された説明のパネルには子どもの姿も

19 バラック

木造バラックの粗末な収容棟

 ここは自由に見て回ることができたので、いくつかの木造バラックの棟を覗いた。蚕棚のような木造の簡易ベッドの一段に平均して5人が寝かされたという。

 間仕切りが無く穴が並ぶだけのトイレを見ただけでも、苛酷な収容生活が生々しく伝わってくる。

20 便所

21 便所の拡大


 最後に監視塔に登って一望した。『シンドラーのリスト』でも印象深い光景が広がる。表現しがたい寂寥感に覆われた。

22 監視塔

「死の門」の上部に設けられた監視塔

■永遠に忘れてはならない人類の歴史の記憶

 第二次大戦中に、ソ連・カティンの森で22000人ものポーランド将校などが虐殺されて埋められた。当初ソ連は、ナチス・ドイツのしわざと主張したが、ソ連の行為であることがわかった。ポーランドの首都ワルシャワやクラクフの街に、この事件の慰霊碑がある。このほか世界各地には、戦闘による殺戮だけでなく、虐殺や強制収容所での虐待死などは数え切れない。

 今回は、アウシュヴィッツだけを取り上げた。二つの収容所をほぼ3時間かけて回ったが、当時のことを思うと、寒さも感じなかった。私にとって一生忘れられない光景となった。ヒロシマとアウシュヴィッツの悲劇から約75年しか経ていない。第二次世界大戦がもたらせた「戦争の狂気」としか言いようがない。この惨劇は忘れてはならない人類の歴史の記憶であり、そのためにも繰り返し伝えていかなければならないと痛感した。

 100歳で逝った映画監督の新藤兼人さんは『新藤兼人・原爆を撮る』(新日本出版社)の「『あとがき』にかえて」に、短編小説「蟻」なる一文を寄せている。

 ポール・ティベッツは、広島の上空に達したとき、望遠鏡をのぞいた。蟻が忙しく駆けずり回っていた。かれはふり向き、原子爆弾投下係の部下に合図を送った。ボタンは押され、原子爆弾は投下された」との寓話を紹介している。その一発の原爆は一瞬にして約14万人の命を奪った。被爆後も合わせると犠牲者は40万人を超すと推計されている。
 ナチスによるユダヤ人や戦争捕虜の虐殺は、その3倍もの数だ。人間を虫けらのように扱ってきた罪は重く深い。しかし救いもある。私が現地を訪れている時、ドイツやアメリカからの若者の姿も見かけた。ポーランドの学生には収容施設の見学が教育の一環として実施されている。日本の若い人にもぜひ訪れてほしいものだ。
 アウシュヴィッツ4号棟の入り口に次の言葉が掲げられている。「歴史を記憶しないものは、再び、同じ味を味わざるをえない。

 このメッセージは、人類の犯した取り返しのつかない罪を後世に警告したものだ。その言葉を深く心に刻んで、現地を後にした。

 時は巡ってこの夏、アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所を脱走した男たちの実話を描いた「アウシュヴィッツ・レポート」が、7月30日より東京・新宿武蔵野館ほか全国で順次公開される。

23 光景

監視塔から見たピルケナウの寂寥とした光景

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