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いくつもの文化・文明が交差した国、トルコアジアとヨーロッパを結び、遺跡の宝庫

 いくつもの文化・文明が交差し重層化してきた遺跡の宝庫、トルコへの旅は宿願だった。ギリシャの詩人、ホメロスの叙事詩『イーリアス』の舞台となったトロイの遺跡や、凝灰岩の台地が侵食されてできたカッパドキアの奇観は一度目にしておきたいと思い続けていた。そしてシルクロード踏査の夢を実現するためにも、アジアとヨーロッパの二つの大陸を結ぶトルコは要所なのだ。2006年12月、16日間かけて六つの世界遺産を中心に巡ってきた。

■伝説の地トロイは、9層の遺構が重なる

 トルコへは関西空港からソウルの仁川空港を経由して深夜にイスタンブールに到着した。翌朝、黒海とマルマラ海をつなぐボスポラス海峡を渡りヨーロッパ圏からアジア圏へ。「冬のボスポラス海峡は荒れていて、船で越すのは大変だった」。アガサ・クリスティの『オリエント急行殺人事件』の一節にも書かれている。オリエント急行は1977年までイスタンブールとパリ間を運行していた。まさに文明の十字路だ。

黒海とマルマラ海をつなぐボスポラス海峡

 ホメロスの叙事詩に名高いトロイの遺跡は、ダーダネルス海峡の港町チャナッカレ郊外の丘にあり、世界遺産(1998年)の一つだ。遺跡に着くと、入口に置いてある大きな木馬が目に飛び込んできた。もちろんレプリカで、古代の記録やトロイア戦争時(古代名はトロイア)の城壁の規模などから推定し復元されたものだ。この辺は風が強く、木馬はシーズンオフに修理するため、腹部に上れなかった。

修理中だったトロイの木馬
トロイの木馬(現地のパンフレットより)

 トロイは長い間、ホメロスのフィクションの都市と思われていた。しかし実在すると信じてやまなかったドイツ人シュリーマンによって1873年に発掘され、脚光を浴びることになったのだ。

 シュリーマンは8000点にのぼる宝飾品を見つけ、神話のトロイ王の名をとり、「プリアモスの財宝」と名付けた。そして多数の発掘品を自国に持ち帰る。それらの一部はロシアへ流出したが、大半は第二次世界大戦時の爆撃で焼失してしまう。ところが、その後の研究でトロイア戦争が想定されている年代よりも遥かに古いものであり、はたして戦争が史実であったと証明されていないのだ。

 トロイ遺跡は、戦争や地震で崩壊するたびに新しい街を築いていったため、BC3000~AD400年頃にかけて、九層もの都市遺構が複雑に重なり合ったのだ。

上積みされた街の各層が分かるトロイ遺跡

 見た目に圧巻なのは堅固な城壁を残す前2000年紀の第六層だ。ここでは、当時、ギリシャ本土で栄えたミケーネ文化の土器も出土しており、トロイ戦争伝説の背景にエーゲ海を中心とする活発な交易活動の存在したことが立証される。門を入ると、六層の東の塔と城壁の外側を通って進む。遺跡の規模は小さく、城壁に沿ってぐるりと一周するように見学路が設けられていた。

トロイ第六層の城壁

 二層は最初の繁栄期で、陶器や金・銅製品などが出土し、高度の文明があったようだ。シュリーマンが財宝を掘り当てたのも、この二層とされる。ここは地震によって崩壊した。侵略してきた外敵により滅亡する。しかしホメロスの描いたトロイは、全盛期とされる六層という説が強くなっている。

 出口に向かって歩いて行くと、ローマ期の九層で、生贄を捧げる祭壇や井戸のような円筒形の構造があり、女神の像が立っていたと基壇もあった。小劇場跡が比較的形を遺していた。音楽堂として使われていたようだが、客席も少なく、当時は木造の屋根で覆われていたという。

 訪問時も発掘調査が続けられていたが、大きな成果が上がっていないそうだ。現地ガイドは「発見したシュリーマンの功績が大きいが、目的は宝探しに来たのです」と皮肉っぽく説明していた。確かに「ホメロスのトロイ」より新しいと考えた遺構を潰して掘り進めたからだ。遺跡の発掘があと100年遅かったら、調査は慎重に進められていただろうし、貴重な発掘品も現地に残っていたかもしれないと思われた。

■巨大な遺跡群、王国の文化の栄華を偲ぶ

 トロイから南へ、松の生い茂る山地を下ると、オリーブの繊細な葉が波打ち、ギリシャ・ローマ時代の壮麗な列柱が印象的なエーゲ海に面したベルガモへ。前3~2世紀に栄えたギリシア系のべルガモン王国の都だ。高さ300メートルほどのアクロポリスの丘に王宮、神殿、劇場、図書館などの遺跡がひしめく。急斜面を利用した大劇場の客席からは、医術の神アスクレピアスの神殿を中心とした医療都市遺跡などのある広大な平地が見下せ、王国の文化の栄華を偲ぶことができる。2014年に世界遺産に登録された。

べルガモン遺跡のトラヤヌス神殿跡
神殿を象徴する壮大な柱

 ところが、ヘレニズム芸術の代表作として名高いゼウスの祭壇は、回廊や大階段などと共に丸ごとベルリンのペルガモン博物館に運び去られて久しい。現場で見る事が出来るのは空虚な撤去跡でしかない。かけがえのない歴史を景観として追体験できるように、「略奪」文化財のうち、せめて建造物だけは元へ戻して欲しいと思った。

山の斜面を活用して造られたべルガモンの野外劇場跡

 帝政ローマ期の隆盛を彷彿とさせるエフェソスは、トルコ有数の都市遺跡群だ。何本かの大通りの両側に崩れ落ちたままの神殿、公共施設、劇場、商店、邸宅から公衆トイレまでが、まるで大災害直後の都市を見るように広がっている。また裕福な市民の邸宅前には美しいタイルで飾られた歩道も見ることができた。

エフェソス遺跡に置かれている勝利の女神のレリーフ

 一部復旧されており、往時をしのばせてくれる。とりわけローマ時代に建てられたセルシウス図書館は復元され、ほぼ原型をとどめていた。知恵、運命、学問、美徳を表す4体の女神像が壁にはめ込まれ、その建築技術と芸術性には脱帽だ。

ローマ時代に建てられ、ほぼ復元されたセルシウス図書館

 さらに進むと、ほぼ原型を留める巨大な円形劇場に。山の斜面を削り造営した野外劇場は横幅14メートルで、2万4000人が収容できたという。日本にまだ文明と言えるものがない紀元前三世紀に、このヘレニズム世界では庶民の娯楽のために大劇場を造っていたのだから感動する。トロイの比ではなく大規模ながら、世界遺産になっていなかったが、2015年になってやっと登録された。

2万4000人が収容できたというエフェソスの大劇場と港への大通り

 この地は当時、エーゲ海を望む港湾都市として交易で栄え、最盛時25万人も暮らしていたという。かつては海が迫っていて、オリエント貿易の先進的な海港都市だったが、川の運ぶ土砂で埋まり衰退した。「万物の源は水」と考えたターレスのふるさとは、水で栄え、水で滅んだわけだ。

■キノコ岩の奇景と洞窟内に教会や住居…

 広大なアナトリアの大地には所々に息を呑む自然景観が出現する。エフェソスの東、200キロの内陸部にあるパムッカレもその一つだ。石灰台地を温泉が流れ下って純白の岩壁となった。斜面の途中に出来た無数のプールはまるで棚田のようだ。この地域は昔から綿の産地であったことに加え、雪のように白い大きな石灰棚が広がっていることから、トルコ語で「綿の城砦」を意味するパムッカレと呼ばれている。

まるで棚田のようなパムッカレの石灰棚

 台地上には、神託を授かる聖なる都市として栄えたヒエラポリスの遺跡が広がる。パムッカレとヒエラポリスは、複合遺産として1988年に世界遺産に登録されている。アポロ神殿やローマ劇場・浴場などの遺跡が残る。お湯の流路だった溝跡が幾筋も走っており、かつてこの都市は湯煙に包まれていたと想像できる。しかし、開発のためか今は流量が減り、石灰棚へは日々水路を変えながら少しずつ流している有様。乾いて赤茶けた所もあり、自然遺産保護の難しさを見せつけていた。

ヒエラポリスの遺跡

 パムッカレから約300キロ、地中海に面するトルコ最大の観光都市アンタルヤは見どころが盛りだくさん。絶景のリゾート地で、可愛い古い建物が並ぶ旧市街はもちろん、周りには遺跡も多い。とりわけ高さ38メートルのイヴリ・ミナーレは、束ね柱のような特異な姿で印象的だった。

束ね柱のような特異な姿のイヴリ・ミナーレ

 念願のシルクロードも通過した。コンヤからカッパドキアに向かう途中のキャラバンサライ(隊商宿)は大きな建物で当時の様子を伺うことができた。またアスベントスの円形劇場がほぼ完全な形で残っているのはキャラバンサライとして活用されていたからだと知り、隊商の旅を彷彿させた。

コンヤからカッパドキアに向かう途中のシルクロードにあるキャラバンサライ

 「美しい馬の地」を意味するカッパドキアを初めて目にした時は、実物の迫力に目を見張った。紛れもなく世界遺産にふさわしい光景だ。標高1000メートルを超えるアナトリア高原中央部に、約100キロ平方にわたって岩石地帯が広がる台地だ。柔らかい凝灰岩が侵食されてできたのだが、まるでキノコが大地からニョキニョキ生えたように奇岩が林立し、巨岩がそびえる景観は驚異であり、自然が創った芸術の趣だった。「三姉妹」と呼ばれる奇岩もあり、興味深く見入った。

巨大なキノコ岩がそそり立つカッパドキアの景観
「三姉妹」と呼ばれるカッパドキアの奇岩

 自然の奇景にとどまらず、岩窟をくりぬいて作った教会群にも驚いた。3世紀半ばのビザンチン時代、キリスト教の修道士たちがイスラム教徒からの襲撃を避けるために住居や教会を作ったのだった。この荒涼とした台地の中で、多難な時代を懸命に生き抜いたキリスト教徒たちの光と闇が岩窟に深く刻み込まれ、それがカッパドキアの史伝となっていた。

洞窟教会に描かれたフレスコ画

 カッパドキア全体には、何百もの洞窟教会があるとされているが、30余の教会が集結するギョレメ野外博物館を訪ねた。入り口のすぐ近くにバシル教会があり、岩肌には赤い塗料でキリストやマリアの肖像画、馬に乗って大蛇を退治している聖人の姿、幾何学模様などが描かれていた。光がささないため残ったと思われる。いくつかの教会を見学したが、完全なフレスコ画はほとんどない。同じような図柄だが、キリストの顔の部分が削られ、心無い観光客の落書きも散見された。博物館内はまだ監視下に置かれているものの他は放置されたままだ。

ギョメレの谷は国立公園

 洞窟をくりぬき移り住んだ生活者が今もいる。急斜面に洞窟とテラスを組み合わせ暮らしている。1970年代に政府は洞窟の家の住民にヨーロッパ風の家に移り住むように勧めたが、冬には暖かい洞窟で暮らし、暑い夏になると明るく開放的なテラスで過ごし快適だという。洞窟住居だけではなく、観光用のホテルやレストランもある。

洞窟をくりぬき生活の場に

 1965年に発見された地下都市は、地下8階、深さ65メートルに及ぶ巨大なものだ。地下1階にワイン製造所、地下2階に食堂、居間、寝室などがある。外敵から守るため迷路のような構造になっていた。

1965年に発見された地下都市

 この地帯を一望できる城砦のウチヒサールに登った。頂上から眺めるパノラマ風景は格別だった。しかし世界遺産の足元では荒廃が進んでいるのだ。遺産登録で観光に拍車がかかる一方、壁画などの保護や修復対策はい取られていないからだ。

 トルコにかつて存在したヒッタイト帝国の首都ハットゥシャの遺跡は、1986年にユネスコの世界遺産に登録された。人類初の鉄の帝国といわれ、宮殿、神殿、倉庫などの立ち並ぶ広大な遺跡だが、建物の上部がほとんど残っていないため、往時の姿を思い描くことは難しい。それを補って余りあるのが、ここから出土した大量の粘土板文書だった。その楔形文字が解読され、ヒッタイトが印欧語系の民族で、エジプトと覇権を争う大帝国を築いたことが判明し、オリエントの古代史が塗りかえられた。だが、前12世紀に突然、歴史の舞台から消え去った事情を含め、ヒッタイトをめぐる謎はまだ深い。

ヒッタイト帝国の首都ハットゥシャの遺跡

■4つの帝国の首都、歴史的建造物の数々

 再びイスタンブールに戻る前、首都のアンカラにも立ち寄った。ここではトルコ初代大統領で建国の父、ムスタファ・ケマル・アタチュルクが眠る丘を訪ねた。1944年に作られた大規模な霊廟があり、衛兵たちが守っている。博物館も併設しており、アタチュルクの衣服や、生前に愛用していた品々と蔵書、各国から贈られた品々などが展示されていた。

アンカラに建つ巨大なアタチュルク廟

 イスタンブールは、330年にコンスタンティノープルとして再建されて以降およそ16世紀の間、ローマ帝国、ビザンティン、ラテン帝国、オスマン帝国と4つの帝国の首都であった。1453年にオスマン帝国により征服され、キリスト教からイスラム教に変わった。

 しかしギリシャ正教の大本山として建てられ たの聖ソフィア大聖堂を破壊せず、そのままイスラム教のモスクに改装した。

 イスタンブール歴史地区には、ビザンチィン建築の最高傑作とされているアヤ・ソフィアはじめ歴史的建造物が数多くあり、1985年に世界遺産登録されている。アヤ・ソフィアは、アタテュルクの改革で聖堂が宗教と切り離され、博物館となった。壁面のモザイク画は18世紀、すべて漆喰で塗りつぶされていたそうだが、20世紀になって発見され、歴史の闇から甦った。仰ぎ見る大ドームには薄明かりの中、モザイク画の聖母子像が浮かび上がるように望める。

ビザンチィン建築の最高傑作とされるアヤソフィア聖堂

 宮殿や聖堂と競い建っているのがブルーモスクの名前で親しまれるスルタンアフメット・ジャーミィだ。直径27メートル超す大ドームに4つの副ドーム、30の小ドーム、そして6本のミナーレを持つ外観もさることながら、内部のタイルや敷き詰められた絨毯も見事だ。

大ドームに描かれているモザイク画の聖母子像(現地の絵葉書より)
ブルーモスクと親しまれるスルタンアフメット・ジャーミィ

 歴代スルタンの居城であったトプカプ宮殿のハーレムには、宦官や女性の部屋があり、300~500人の女性たちがいたという。

トプカプ宮殿の全景、背景にマルマラ海(現地の観光冊子より)
トプカピ宮殿に入る「表敬の門」

 宮殿は博物館になっており、その秘宝の数々に堪能した。陶磁器展示室では、日本の有田や伊万里、中国の宋、元の名品も数多く展示されていて見応えがあった。陶磁器コレクションだけで1万2000点もあるというから、その富と権力が想像できるというものだ。

博物館では有田や伊万里などの日本の陶磁器も数多く展示

 宝物館の財宝の一部は来日し、大阪歴史博物館の「トルコ三大文明展」(2003年)の《エメラルド入り短剣》(オスマン朝時代 1467年頃)《や、京都文化博物館の「トプカプ宮殿の至宝展」(2007年)の《礼装用兜》(オスマン朝時代 1550年頃)、京都国立近代美術館の「トルコ至宝展」(2019年)の《射手用指輪》(16—17世紀)で鑑賞した。

《エメラルド入り短剣》(オスマン朝時代 1467年頃)
《礼装用兜》(オスマン朝時代 1550年頃)
《射手用指輪》(16?17世紀)

 イスタンブールでは地下宮殿にも足を延ばした。貯水池として築造されたというが、内部は列柱が林立し、天井などのレリーフも行き届いていて、まるで竜宮城に迷い込んだ感じだ。そのうち2本の柱の下に魔女・メドゥーサの顔が逆さや横になって支えていた。薄暗いライトに照らされ幻想的だった。

地下宮殿には魔女・メドゥーサの顔が逆さになった支えも

 アジア大陸とユーラシア大陸にまたがる特異な国土を持つトルコは「東西文明の十字路」あるいは「東洋と西洋を結ぶ文化の架け橋」ともいわれ、近世まで常に歴史の表舞台にあった。それだけ興亡の荒波に翻弄されてきたともいえる。

 トルコの旅を通して、ヒッタイト帝国から現共和国の時代までに幾重にも積み重なった文明の生々しい露頭を目の当りにした感動は忘れがたい。各時代の支配民族がこの大地の歴史を刻んだ主要な文字だけでも、楔形文字、ギリシャ文字、ラテン文字、アラビア文字、現代トルコ文字という多彩さだ。文化遺産の価値、文明共存の可能性などに思いを廻らせる上でも、触発されることの多い旅であった。

 世界遺産以外でもミレトス、ディディム、シデ、ペルゲ、アスベントスなどの遺跡にも足を踏み入れた。4000を超すと言われる古代遺跡が確認されているトルコの世界遺産は訪問時わずか9つだった。その後急増し19を数える。

 アジア大陸とユーラシア大陸にまたがる特異な国土を持つトルコは、遺跡の宝庫だった。不安定な政治状況や不穏な中東情勢の中で動静が気がかりだが、豊かな歴史遺産を生かした国づくりをしてほしいと願わずにいられない。

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