見出し画像

甦った2000年前の古代都市ポンペイ 現地を歩き、出土展を見て栄華を偲ぶ

 京都でよみがえる、古代ローマの至宝と謳う「ポンペイ展」が7月3日まで京都市京セラ美術館開催中だ。東京国立博物館を皮切りに、京都展の後、宮城県美術館(7月16日~9月25日)、九州国立博物館(10月12日~12月4日)へ巡回する。紀元後79年、イタリア、ナポリのヴェスヴィオ山噴火により、厚い火山灰の下に埋もれた都市ポンペイは、約1万人が暮らした都市の賑わいをそのまま封じ込めたタイムカプセルともいえる遺跡だ。そのポンペイを訪れたのは、18年前の2004年4月だった。遺跡の街を歩き、古代ローマ人の豊かで快適な暮らしを求めていた痕跡に驚愕し、一方で自然災害のすさまじさに戦慄を覚えた。これまで何度か開催されてきた「ポンペイ展」での出土品も合わせ、歴史的な街並みや文化遺産についての印象をまとめてみた。

■火山灰の下に埋もれた街発掘は今も

 まずポンペイの史実をひも解いておこう。79年8月24日午後1時に、300年の眠りから目覚めたヴェスヴィオ火山が大音響とともに噴火した。ポンペイ市民の頭上に、火山灰や焼けた小石が降り注いだ。さらに火砕流や火山灰に混じった高熱の有毒ガスは、逃げ惑う人々に襲い掛かり、2000人以上の命を奪った。その後3日間にわたって、6メートル以上もの火山灰が降り積り、ポンペイの街は、灰の下に埋もれてしまったのだ。

 以上のような記録は文献や碑文にはっきり銘記されているにもかかわらず、次第に人々の記憶から忘れ去られた。ところが18世紀に入って、ここに別荘が建てられるようになり、井戸を掘っていて、古代の彫像や円柱などを発見する。1748年になると、ナポリのカルロ王(後のスペイン王カルロスⅢ世)が発掘物を王宮に運ばせ、注目を集める。以来、発掘は200年以上経た今日まで様々な形で引き継がれている。近年は考古学だけでなく、火山学や人類学の視点もまじえ総合的な調査が行われ、古代の史実に科学的な分析が進んでいる。

 ポンペイのことは、「日本におけるイタリア年」が開かれた2001年に開催された「世界遺産 ポンペイ 古代ローマの輝き」を見て、いつか現地を旅したいとの思いを募らせていた。何しろ高度な文明を持った都市が、邪馬台国の卑弥呼が登場する前の倭の時代に、こつ然と消滅したのだから。

 イタリアへ旅行した帰国前日、宿泊のローマのホテルを早朝5時過ぎに出発した。

 途中通過のナポリには国立考古学博物館があり、展覧会で見た展示の出土品をもう一度見たかったが、この旅の目的は遺跡にあった。ナポリからは南へ20キロ走ると,やがて車窓の右側にティレニア海、左方に問題の火山が見えてきた。風光明媚な格好のリゾート地として、ローマの貴族たちが別荘を求めたのもうなずける。 

 車がポンペイに近づくにつれ、道の両側に溶岩の黒い塊が目につくようになった。高速道路が溶岩台地を切り拓いたからだ。火山の麓は今では葡萄が繁る穏やかな村になっている。椰子や夾竹桃、ブーゲンビリアといった南国の花々が咲き誇る向こうに、大理石の飾りを剥がれた煉瓦壁が木の間に見え隠れしてきたかと思うと、そこがポンペイの遺跡だった。

■石畳や柱列…タイムカプセルの世界

 青く輝くナポリ湾に臨み、背後に火山がそびえる大地に、古代ローマ時代の都市遺跡ポンペイが広がっていた。豊かな自然と肥沃な土地に恵まれたこの地が、紀元直後の大噴火で、一瞬にして埋没してしまったのだ。その後1700年近くも歴史に埋もれたタイムカプセルの世界へ足を踏み入れた。

ナポリ湾(2004年4月)

 小雨がぱらつくあいにくの天気で、ヴェスヴィオは山裾のあたりに靄を纏い、静かに眠っているようだった。もう少し威圧感のある姿を想像していたのだが、「かくも美しい自然のもう一つ顔」を見た思いがした。海抜1281メートルにある火山は1944年にも噴火している。

ヴェスヴィオ山噴火の復元図(現地の図録より)

 遺跡はサルノ川の河口近く、海抜約40米の高さにある古い溶岩で出来た岸壁の上にあった。石畳を敷き詰めた急な坂道が上の方に続いていた。かつてはここまで海が迫っていたのだろう。坂を上りつめたところに二つの石組のアーチがあった。歩行者のためと、海から魚や塩を運んだ荷車用だ。

マリーナと呼ばれる海の門の前で記念撮影の筆者(2004年4月)

 マリーナと呼ばれるその海の門をくぐると、遺跡が目の前に開けた。何と石畳で舗装された道が延びていた。小雨に濡れた石畳は輝いて見えた。ぼんやりとかすむヴェスヴィオの下、芝に覆われた広場の緑がくっきりと目に映えた。在りし日には、ポンペイの全市民が集まることができた公共の広場(フォロ)だ。

石畳で舗装された道(2004年4月)
掘り出されたかつてのポンペイの街並み(2004年4月)

 広場を取り囲んでいる美しい柱列は柱の上に台輪を載せ、さらにその上に柱を建てた2層式の壮麗なものだ。また広場の周辺には、いくつかの神殿をはじめ、商取引所として使われた後に法廷となった公共施設(バシリカ)や、穀物取引所、市場などがあり、その名残をとどめている。

ポンペイ遺跡の中央広場からユピテル神殿跡と背後のヴェスヴィオ山を望む(2004年4月)
ポンペイの重要な公共建造物であるパシリカ(2004年4月)

 広場の正面に今は凱旋門と台座しか残ってはいないが、ジュピター神殿の跡である。神殿の背後にヴェスヴィオが位置しているのは、山を崇めての都市設計がなされたためと思われる。悲劇の起こった日も、人々はここに集まってきて火を噴き上げる山を恐ろしい思いで見上げたことだろう。その真後ろから立ち昇る火柱を見ながら、神の怒りと受け止めたのではないかと、想像された。

 今もヨーロッパの街を訪ねると、必ずと言っていいほど、広場を取り囲むように市庁舎や教会が建っている。その原型は早くもポンペイに出来あがっていたのだ。広場には時計塔が付き物だが、ここにもあった。西側にアポロ神殿があり、中央祭壇脇に白大理石の円柱の上で日時計が今も時を刻んでいる。アポロのブロンズ像も建っていたが、これはレプリカで、本物はナポリの博物館にあるという。

 ポンペイの重要な公共建造物であるパシリカには、行政機関や奥には法廷もあった。そのパシリカの近くには有力者のエウマキアの建物もあり、周りは2層の柱廊で囲まれていたという。

周りは2層の柱廊で囲まれていた有力者のエウマキアの建物(2004年4月)

■公共浴場や居酒屋、市民生活生々しく

 当時の街の区画がそのまま掘り出されており、過去にタイムスリップした錯覚に陥る。マリーナ門からサルノ門まで約1キロ、広場を突き抜けてほぼ真っ直ぐに道が貫いている。それが当時の目抜き通りのアボンダンツァ通りである。

 大きめの平石を敷き詰めた通りには、石と石の隙間に猫目石と呼ばれる白い石が埋め込まれている。それが夜目に光って車道であることを示していたという。車道の両側には歩道も整備され、一階は店舗、二階は住居という商店街が続いていた。店の壁には所々に四角な穴が残っているが、ガイドによると当時そこに松明をかざし、夜の街を照らしていたそうだ。

 アボンダンツァ通りを南に折れ、だらだら坂を下りていくと小さな広場が現れる。大きな木がつくる陰の中に高い壁があった。入り口を抜けるとそこは馬蹄形をしたギリシャ様式の大劇場だ。紀元前3世紀から2世紀のもので5000人の観客が収容できるという。

 ポンペイは他の遺跡と異なり、市民の生々しい生活の場が見て取れるのが特徴だ。大劇場から東に進んだ辺りで一軒のかつて別荘であった住宅に入った。入り口近くの天井は四角に切り取られて、自然光を取り入れる工夫もこらされていた。天窓の下の床は一段掘り下げられた今で言うスキップフロアで変化をつけてあった。

 そこには随所に壁画があったそうで、今は博物館に保存されている。印象的なのは奥の部屋である。「ポンペイの赤」と呼ばれる独特の朱色で周囲を囲った壁一面に動物の走りまわる様が圧倒的な迫力で描かれていた。1700年も地中に埋まっていながら、よくも無事に残っていたものだ。そう驚いた後、これだけの絵が個人の住宅を飾っていたということでも文化の持つ厚みが裏付けられた。

 また別の住居跡に残るモザイクの床は、石の剥がれた部分もなく、敷き詰めたままのように完全な図柄を残していた。幾何学的な紋様と動物をあしらった絵柄をうまく組み合わせたデザインになっている。色は二色のモノトーンとはいえ洗練されていた。聖堂や宮殿のように特別な場所ではなく、市民の生活の場にあるのだ。

 アボンダンツァ通りとスタビア通りが交差する位置に公共浴場跡が残る。三方を柱廊が囲み、芝生の運動場まである豪勢なものだ。個人の家には浴室がなかったことから、貧富にかかわらず浴場に通ったようだ。おそらく社交場として、団欒や商売の話しがなされたのであろう。

 浴場近くには、今でいう居酒屋もあった。当時も赤ワインが主流だったようで、おつまみに当たるのは、パンやチーズ、魚介類だったそうだ。どうやら、かめにお酒を入れていたようだ。居酒屋の隣はパン屋だ。左にかまど、右には石臼が並ぶ。発掘された時、かまどからこげたパンの化石が数多く出てきたという。また娼婦の館もあり、男女の愛の場面を描いた風俗壁画も認められた。

浴場近くには何軒もの居酒屋があり賑わった(2004年4月)

■衝撃的な被災した人間の石膏像多数

 ポンペイの遺跡でもっとも衝撃的だったのは、被災した人間の石膏の姿だ。火山灰に埋まった犠牲者の遺体が朽ちると、骨だけ残るが遺骸の中が空洞になっていた。そこへ石膏を流し込むと、当時の遺体の様子が石膏型となって再現される。この方法は1860年代に発掘を指揮していた者が取り入れた。

犠牲者の樹脂型どり(『世界遺産 ポンペイ』図録より)

 火山灰から逃げるのをあきらめ横たわっていたり前かがみになった被災者の姿が当時の惨劇をリアルに伝える。ある建物の中では、避難していた50数人が折り重なって見つかった。妊婦の石膏像もあり、いたたまれない気持ちになった。これはポンペイの人たちの人生の最後にして最も悲劇的な瞬間の姿がそっくりそのまま刻印されることを意味していた。運命の日も変わらぬ日常があり、突如襲ってきた惨劇に自分ならどうするだろうか。暗澹たる思いがした。

噴火で犠牲となった市民らの石膏像

 約2時間かけて、かつての街の遺構が残る「過去の世界」を歩いた。その保存状態の良さに感嘆するばかりだ。さらに2000年も前に水道や舗装道路などの公共施設を設け、建物を整備し、都市を形成、豊かな社会を求めた古代人の知恵に驚かされ通しだった。その建物跡から一日の労働の疲れを浴場でいやし、劇場で芝居を楽しみ、絵画などの芸術を好み、市場で買い物をした市民生活の様子を十分知ることが出来た。

 ポンペイは2000年の時を経て掘り出された「人類の宝もの」であり、ポンペイと周辺地域の遺跡は1997年、ユネスコの世界遺産に登録された。美しい景観というのではなく、圧倒的なスケールで、そこに住んだ人たちの営みなど古代人の世界を垣間見ることができた。

 古代の街は、現代に生きている者に様々な感懐を抱かせた。かつて人々の生きた痕跡を確認するたびに、その知恵や感性に心が動かされた。ポンペイには、素朴ながら人間らしい文化生活があった。私たち日本人が物質的な豊かさを得たのは近年になってからだが、文明の便利さで人間性を失っているのではなかろうか。この旅を通じ、家族との絆や地域社会との共生、文化的な豊かさとは……などを顧みるきっかけを与えてもらった。

■壁画や宝飾の出土品が物語る高度文明

 過去に見た「ポンペイ展」にも触れておく。最初は2001年、江戸東京博物館で見学した。国際巡回展として企画され、発掘された壁画断片や粘土細工、金属、ガラス製品など芸術品と生活用具が展示されていた。高度な文明を持った都市の遺物に感銘した。中でもナポリ国立考古学博物館の目玉のフレスコ画《パン屋の夫婦》(紀元55‐79年)や、かつて邸宅の庭に面した壁に飾られていた《庭園の風景》(1世紀半ば、ポンペイ考古学監督局)などに目を見張った。

2001年の展覧会 《パン屋の夫婦》(紀元55‐79年、ナポリ国立考古学博物館)
2001年の展覧会 《庭園の風景》(1世紀半ば、ポンペイ考古学監督局)

 2006年には、「ポンペイの輝き 古代ローマ都市 最後の日」を東京・Bunkamura ザ・ミュージアムに続いて大阪会場の・サントリーミュージアム[天保山]内覧会でも観賞した。この展覧会では、《アポロ像》(1世紀、ナポリ国立考古学博物館)はじめ、金製のブレスレットやネックレスのほか、《葉飾りが付いた首飾り》や《スキュフォス形の杯》(いずれも1世紀前半、ポンペイ考古学監督局)など居住空間や身体を華麗に飾った品々から当時の贅沢な暮らしぶりがうかがえた。さらに被災者の姿を型どりした石膏などの展示や、ポンペイだけでなくヴェスヴィオ火山周辺のモレージネ遺跡やテルツィーニョ遺跡にも初めてスポットをあて、ポンペイ考古学監督局を中心に進められてきた最新の研究成果が盛り込まれていた。

2006年の展覧会 《アポロ像》(1世紀、ナポリ国立考古学博物館)
2006年の展覧会 《葉飾りが付いた首飾り》(1世紀前半、ポンペイ考古学監督局)
2006年の展覧会 《スキュフォス形の杯》(1世紀前半、ポンペイ考古学監督局)

 2016年にも「世界遺産 ポンペイの壁画展」を兵庫県立美術館で見た。出土遺物の中でも、とりわけ色鮮やかな壁画の数々が出品された。火山灰が乾燥剤に似た役割を果たし、劣化を防いだことにより、奇跡的に保存されたという。住宅や公共建築など、さまざまな建造物を美しい絵画で飾り、人生を謳歌した古代ローマの豊かな暮らしをつぶさに見ることできた。

 《赤い建築を描いた壁面装飾》(前1世紀後半、ポンペイ監督局)は、現地で見たヴェスヴィオ火山麓にあった別荘の壁を飾っていた。

2016年の展覧会 《赤い建築を描いた壁面装飾》(前1世紀後半、ポンペイ監督局)
(C) ARCHIVIO DELL’ARTE-Luciano Pedicini/fotografo

 《踊るマイナス》(後1世紀後半、ナポリ国立考古学博物館)は、黒地を背景にオリーブの冠を被り、細い杖を持ち宙を舞う優雅な作品。

2016年の展覧会 《踊るマイナス》
(後1世紀後半、ナポリ国立考古学博物館)
(C) ARCHIVIO DELL’ARTE-Luciano Pedicini/fotografo

 さらに《赤ん坊のテレフォスを発見するヘラクレス》(後1世紀後半、ナポリ国立考古学博物館) や、《ケイロンによるアキレウスの教育》(後1世紀後半、ナポリ国立考古学博物館) なども出品され、目を引いた。

2016年の展覧会《赤ん坊のテレフォスを発見するヘラクレス》
(後1世紀後半、ナポリ国立考古学博物館)
(C) ARCHIVIO DELL’ARTE-Luciano Pedicini/fotogra


2016年の展覧会 《ケイロンによるアキレウスの教育》
(後1世紀後半、ナポリ国立考古学博物館)
(C) ARCHIVIO DELL’ARTE-Luciano Pedicini/fotografo

 そして2022年、京都の展覧会では、モザイク、壁画、彫像、工芸品の傑作から、豪華な食器、調理具といった日用品にいたる様々な発掘品を展示。2000年前に繁栄した古代ローマの都市と、市民の豊かな生活をよみがえらせている。まさに「そこにいた。住民たちの息吹を体感してもらおうとの趣旨だ。

2022年の展覧会 ポンペイ展チラシ

 火山の噴火を描いた《バックス(ディオニュソス)とヴェスウィオ山》(ナホリ国立考古学博物館)をはじめ、牧神ファウヌスの躍動的なブロンズ像《踊るファウヌス》(1世紀半ば)や、真珠母貝を加工して作られた《エメラルドと真珠母貝のネックレス》やもヘレニズム彫刻の傑作だ。美術品と異なる《炭化したパン》(ナホリ国立考古学博物館)も注目だ。

2022年の展覧会 《バックス(ディオニュソス)とヴェスウィオ山》(ナホリ国立考古学博物館)
Photo (C) Luciano and Marco Pedicini
2022年の展覧会《踊るファウヌス》(ナホリ国立考古学博物館)
Photo (C) Luciano and Marco Pedicini
2022年の展覧会 《エメラルドと真珠母貝のネックレス》(ナホリ国立考古学博物館)
Photo (C) Luciano and Marco Pedicini
2022年の展覧会 《炭化したパン》(ナホリ国立考古学博物館)
Photo (C) Luciano and Marco Pedicini


 ポンペイを旅し、約2000年前の姿を想像し、展覧会を通し、古代の美とともに、悲劇の実相に驚くばかりだった。ただ阪神淡路大震災や東日本大震災など自然災害とは無縁ではない日本人にとって、「美しくも厳しい自然と向き合い、人間らしく心豊かに生きていこう」と教えられたように思う。それが時空を超えた旅で、私が受け取った古代ポンペイに生きた人々からのメッセージでもあった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?