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長い戦禍を乗り越え近代化―ベトナム 多くの流された血の犠牲の上に築かれた平和

 ウクライナ戦争は1年が過ぎ、長期化の様相だ。戦争といえば安保世代の筆者にとって、半世紀前のベトナム戦争が頭をかすめる。ベトナムの地が南北に分断されて、東西陣営の軍事衝突が1960年代初頭から1975年まで約15年間も続いたのだ。日米安全保障の下、米軍基地から爆撃機が飛び立ち、ベ平連(ベトナムに平和を市民連合)の「安保ハンタイ」のデモが鮮烈に思い出される。結局、近代兵器を駆使するアメリカが、ベトナム民衆のゲリラ戦で敗れたのだから驚くとともに皮肉な史実だ。ベトナム同様、ウクライナも一方的に侵攻され、多くの国民が犠牲になっている図式は変わらない。アメリカやNATO加盟各国から軍事支援を受けるウクライナが、やはり大国のロシアに勝てるかもしれない。ベトナム戦後、分断国家は統一され、近代化への道を突き進んでいる。ウクライナもそうあってほしい。

旧大統領官邸が統一会堂と名を変え観光名所に


 私がベトナムを初めて訪れたのは、2006年2月末から3月初めにかけてのこと。関西空港を午前10時50分発。ベトナム航空直行便で午後2時25分にホーチミン市のタンソンニャット国際空港に到着した。日本との時差は2時間

関西空港から直行便で到着したホーチミン市のタンソンニャット国際空港
(以下、写真はいずれも2006年)

なので約6時間足らずの所要時間だった。あの泥沼のような長期の戦争が続いていたベトナムへ旅ができるとは、感慨深いものがあった。
正式国名のベトナム社会主義共和国は、東南アジアのインドシナ半島東部に位置し、北を中華人民共和国の雲南省・広西壮族自治省に接し、西はアンナン山脈を隔ててラオスと、南西はカンボジアと国境を接する。東は南シナ海に面していて、北に西沙・南に南沙諸島が位置している。その海域中には領土問題が未解決のままで、紛争の火種を残している。
 インドシナ半島の東海岸をしめるベトナムの国土は南北1650キロと長く、冬から春にかけて、北と南の地域では気温が極端に違うのが大きな特色だ。後述のハノイを訪れて驚いた。
 カンボジアのアンコールワットへの旅の往路、まず南ベトナム時代の首都でサイゴンと呼ばれていたホーチミンで一泊した。サイゴン陥落から30年余、市街は社会主義国のイメージは無かった。高層ビルが建ち外国企業の広告看板が目立ち、街は車やバイクであふれかえっていた。
 

南ベトナム時代の大統領官邸だったホーチミンの統一会堂
統一会堂の入口
統一会堂の内部

 到着後真っ先に訪ねたのが南ベトナム時代の大統領官邸だった統一会堂だ。解放軍の戦車がこの官邸を突破し、無血入城した報道写真を見ていただけに、歴史の舞台に立つことに感動した。 南ベトナム政権時代に独立宮殿とよばれた旧大統領官邸で、この建物は、1962年から4年間にわたり建造され、大小1000以上の部屋と、内閣会議室、応接室、宴会室などがある。1975年4月に南ベトナム解放軍の戦車がフェンスを乗り越え、大統領官邸に突入したことにより、ベトナム戦争は終結を迎えた。そして南北の分断国家が統一され、統一会堂と名付けられたわけだ。
 

サイゴン中央郵便局
サイゴン大教会[聖マリア教会]

 フランス統治のもと、壮麗精緻な彫刻と絢爛豪華の装飾で彩られたコロニアル建築が建てられた。現在もホーチミン市内には、サイゴン中央郵便局や、サイゴン大教会(聖マリア教会)などコロニアル建築が残され、往時の華やかな雰囲気の余韻を今に漂わせていた。

統治していたフランスからの観光客も多い
通りで果物を売る出稼ぎも

 夕刻に街に出た。転車の前に人力車の着いた乗り物が客を待ち受ける。かつて統治していたフランスからの観光客も多い。通りで果物を売る出稼ぎも見かけた。ベンタイン市場を散策した。肉や魚、野菜、フルーツなどの食材を扱う屋台で賑わい、場内には生活用品店に衣類、雑貨など多彩な小売店が軒を連ね、東南アジアならではの喧騒と活気を感じる。

ベンタイン市場の香辛物売り場
夜に立ち並ぶ屋台のナイトマーケット

 夜には屋台が立ち並び、名物のナイトマーケットで賑わっていた。夕食は、焼きめしに揚げたカニや春巻き、イカフライや帆立スープにバナナの花のサラダが添えられて、とても美味だった。

カニや春巻きなど美味な夕食

 翌朝、ホーチミンから車で1時間30分ほど走った場所にあるミトーの船着場からメコン川クルーズに出向いた。メコン川はチベット高原に源流を発し、タイ、ラオスカンボジアを経てベトナム南部のデルタに抜ける4000キロに及ぶ。

メコン川クルーズに出向くミトーの船着場
4000キロに及ぶメコン川

 マングローブの森が広がるメコン川を手こぎボートでゆっくりと移動し、トイソン島へ。ガイドから植物の名前や島の人の暮らしなどを聞き、カフェ

トイソン島

で楽器演奏やニシキヘビを首に巻いた現地のショーなどを楽しんだ。昼食に出た“象の耳”という日本語訳の料理は、その大きさと言い、形と言い忘れられない。魚のフライにすり身、手長エビなどをボイルしたものだ。かつてゲリラ戦が繰り広げられたメコン川で、平和な時代になったこその光景に浸った。

“象の耳”という日本語訳の料理

世界遺産のハロン湾に水上生活者、学校も


 アンコールワットからの帰路、ハノイのノイバイ空港に降り、再びベトナムに再入国した。夜間に到着したこともあり、ホーチミンと比べ気温が一気に15度以上も下がり震えるほどだった。ベトナムは、南北に長く気温の高低差も大きいのだ。

総大理石造りのホーチミン廟

ハノイの観光はホーチミン廟から始めた。総大理石造りの内部には、民族的英雄となったホー主席の遺体がガラスケースに入れられ安置されていた。社会主義国共通の廟はレーニンや毛択東、金日成しかりだ。地方から訪れたのか、小学生たちの長い列が続いていた。

1994年にユネスコの自然遺産に登録されたハロン湾

 その後、バスで約2時間かけ1994年にユネスコの自然遺産に登録されたハロン湾に出向いた。ベトナム戦争のきっかけになったトンキン湾に連なるハロン湾には、1500平方キロにおよぶ海面に約3000もの奇岩の島がそびえ、「海の桂林」とも呼ばれている。
 昔、この地は海底にあり生物の死骸がうず高く積もって石灰岩が形成され、海底が隆起して石灰岩の山岳地帯となった。11万年前もの地球の氷河期に、山岳地帯は沈みはじめ、柔らかい地質の部分は海底に流された。高さがあり、硬い岩の部分だけが、浸食されずに海面に浮かんで残り、ハロン湾の景勝を形づくったという。
 ハロン湾の「ハ」は降りるで、「ロン」は龍の意味を持つ地名で、ベトナム建国にまつわる伝説から、名付けられたという。中国の侵略に苦しんでいた時代、空から舞い降りた龍が、火を吐いて中国船団を撃退し、龍の炎の舌が海に触れて、それが奇岩になったという伝説だ。

鶏が羽を膨らませて、激しく闘っているイメージの「闘鶏」と名付けられている島

 緑豊かな島や、刃で切り裂いたような断崖絶壁の島などを眺めながら、観光船は滑るように走る。波が穏やかで心地よい風が吹き、クルーズには最高だ。途中、二匹の鶏が羽を膨らませて、激しく闘っているイメージの「闘鶏」と名付けられている島があった。また「天国の宮殿」との異名をもつ鍾乳洞に立ち寄った。世界遺産になって、歩道が整備され、ライトアップし幻想的な雰囲気を醸し出している。

「天国の宮殿」との異名をもつ鍾乳洞
ライトアップされた鍾乳洞

 そんな天下の景勝地の一角に水上生活村があった。タグボートのような浮遊物の上に住居を建て、42世帯、約200人が生活していた。学校もあり、平らで広い甲板を持つ小さな小屋みたいな教室も見える。教科書を広げ学ぶ子や、運動している子どもたちもいた。

ハロン湾に浮かぶ水上生活村

 比較的大きな島の入り江には、水上市場が開かれて、ごった返している。ボートに物品を載せて、商売している様子が眺められた。私たちの観光クル

観光クルーズ船

ーズ船に、何隻ものボートが近づいてきた。手をさしのべ果物やジュース、ミネラル・ウオーター、珊瑚やきれいな貝殻などを見せ、売ろうと懸命だ。小学生くらいの男の子らも売りに来ていた。発泡スチロールの箱に生きている魚を並べた漁師が、シャコや海老、貝を手に、大声で叫んでいる。中にはその場で調理してもらって食べている人も。世界遺産の中で、たくましく生きる民衆の力に心が動かされた。すばらしい風景は、単に絵葉書の美に過ぎない。生活者が背後の風景になじみ、自然とともにたくましく生活する「共生」する姿に、深く感銘を受けた。
 翌日には、現地通貨の5000ドンにも描かれている一柱寺を訪ねた。李朝の太宗が蓮華の上で子どもを抱いた観音様の夢を見てから、まもなく子どもを授かった。感謝した太宗は蓮の花に見立て、一本の柱の上に仏堂を載せた形で建立した。

一本の柱の上に仏堂を載せた形の一柱寺

 市街から南東へ約10キロの陶磁器村で知られるバッチャン村にも出向いた。約600年の伝統を持ち、大小100軒の工房がある。村の人口の90パーセン

多様な陶器が売られているバッチャン村

トが陶器づくりに従事しているそうだ。植木鉢から花瓶、茶器やマグカップなど多様な陶器がそろっていた。ここで買い求めたマグカップは、欠けもせずを現在も重宝している。この村でも苦難に耐えた、たくましい民衆の生活力がみなぎっていた。
 

田舎の露天商

 ベトナム最後の夜、ハノイの街で伝統の水上人形劇を見た。非常にユニークな人形たちが演じ、村人や役人、動物が主人公の昔話だった。動きがユニークで劇場内は笑いが絶えない。昔からベトナム人は、生活の苦しさを笑いにして耐えてきた民族である。あの理不尽なベトナム戦争に勝利した原動力になったのかもしれない。

ハノイ名物の水上人形劇

ベトナム絹絵修復に取り組んだ金沢の一市民


 私が初めてベトナムを旅した前年の2005年11月、 東京ステーションギャラリーで「ベトナム近代絵画展」を鑑賞した。たまたま上京中に開かれていた内覧会で、来日していたベトナム国立美術館のチュオン・クオック・ビン館長に案内していただいた。館長は「展覧会にはベトナム近代絵画の歴史をたどることができる代表的な作品がそろっています。今回のような規模での紹介は日本で初めてです。わが国の文化を知っていただく良い機会です」と力説していた。
 当時、私は金沢の能登印刷発信のネットのサイト「アートシティ展」に、アート・エッセイを寄稿しており、取材した「ベトナム近代絵画展」を取り上げていた。この一篇のエッセイが、危機に瀕したベトナム絹絵修復に取り組む金沢の一市民の夢のプロジェクトに関わることになったのだ。
 金沢で広告の企画・制作、テレビのCMや番組、企業のPR映像などを扱うクリエイティブ・ポジション・コアを経営する中村勤さんが2007年1月、プロモーション・ビデオ制作の事前調査のため、ホーチミンで小さな卓上カレンダーの一枚の絵に目が止まったことが、絵画修復プロジェクトの発端となった。漠然とではあるが、この絵を通して、ベトナムに息づく精神的な何かを映像に表現できないかとの思いがあった。

グエン・ファン・チャン(1892-1984、中村勤さん提供)

 その絵は、ベトナム近代美術史に大きな足跡を遺したグエン・ファン・チャン(1892-1984)の作品《籾篩》(1960年)で、「風に吹き流される籾の動きが独特の手法で表現され、描かれた農村の女性の表情に気品があふれていた。作者のセンスの良さと確かな力量が強く感じられた」と述懐している。

《籾篩》(1960年、グエン家蔵) ©Nguyen Nguyet Tu

 それから1年有余、ハノイのベトナム国立美術館にあるグエン・ファン・チャンの特別展示コーナーに掲げられている9点の作品を見る。そして当時83歳になる画家の長女のグエン・グエット・トゥさんに会う機会を得た。トゥさんの自宅で遺品として所持する作品を拝見した。どの作品も色が褪せ、裂け目や欠損もあり、劣化の現状を目の当たりにしたのだった。
 帰国後、インターネットなどで調査を始めた。NEWSWEEK日本版の創刊号(2008年4月16日号)は「ベトナム絵画を救え!」と題し、「一部の絵画は美術品としてだけでなく、歴史的にも重要だ。最もダメージが大きい作品群には、20世紀前半を代表するグエン・ファン・チャンの絹絵も含まれる」とあった。グエン・ファン・チャンは、ベトナム戦争の空襲の最中のハノイ、防空壕にも駆け込まず描いていたそうだ。
 こうして、私の書いたエッセイを知った中村さんは、危機に瀕したベトナム絹絵修復への取り組みが急務であると、熱っぽく語った。私も方策の手立てがあるわけではなかったが、院展の審査員である日本画家や、アジアの近代美術に造詣の深い後小路雅弘・九州大学大学院人文科学研究院教授を紹介した。
 後小路教授は、「絹にフランス製の水彩絵の具で描いているので、日本画と西洋絵画の両方の修復が可能な人に頼むのが良い」という見解で、岩井絵画修復研究所(千葉県佐倉市、後にIWAI ART保存修復研究所)の岩井希久子さんにたどりついた。中村さんは意を決し、2009年3月に修復家の岩井さんを伴ってベトナム調査行を断行した。こうした経費は中村さんの自費でまかなっていた。
 中村さんの情熱と執念は、プロモーション・ビデオを依頼した金沢の三谷産業本社の三谷充会長の心を動かし、費用の支援が決まった。修復前に岩井さんの仕事場で見た時は、繊細な絹の画布に水彩絵の具で描かれていたが、かびや虫食いなどで色褪せ、欠損も目立っていた。高温多湿の環境が劣化の進行を早めていたのだ。修復後は、三点とも欠損部分が見事に埋められ、元の作品の再現が図られていた。

修復前の《牛に乗って川を渡る女》(1967年、グエン家蔵) (C)Nguyen Nguyet Tu
修復後の《牛に乗って川を渡る女》(1967年、三谷産業株式会社蔵)


 紆余曲折を経て、2011年10月から翌年2月、金沢21世紀美術館で「ベトナム絹絵画家 グエン・ファン・チャン 絵画修復プロジェクト展」が開催された。会場にはグエット・トゥさんも車椅子で、ハノイから駆けつけていた。トゥさんは「修復の完成度が高く、驚き感激しました。父が生まれて120年目の大きなプレゼントになりました」と、しっかりした口調で語った。

修復された絹絵作品の前で歓談する左からグエン・グエット・トゥさん、岩井希久子さん、中村勤さん(2011年、金沢21世紀美術館)

 これより先2011年7月、ベトナムの絹絵修復の話題がBSプレミアムの新番組「旅のチカラ」で取り上げられた。「幻の絹絵よ!よみがえれ~絵画修復家 岩井希久子ベトナム・ハノイ~」のテーマで、岩井さんを旅人にして、修復のために関係先をめぐるロケーションが行われた。画家の作品が描かれた場所に立って画家の実像を求める旅を続ける。今回修復された《牛に乗って川を渡る女》の背景になっている場所では、夕陽の中に身を置き、画家が絵筆を執った風景を追体験していた。

経済発展の最中、枯葉剤など戦争後遺症なお


 激動の時代、ベトナムの文化も長く支配されていたフランスや中国などから影響を受けながら、融合や変容を繰り返してきたといわれている。植民地や戦争の苦難を乗り越えて、民衆の芸術活動が続けられたことは注目される。
 グエン・ファン・チャンはフランス植民地時代からベトナム戦争の時代にかけて作家活動を行い、プロパガンダの作風にも染まらず孤高の位置で創作していた。それゆえベトナム特有の絹絵の修復プロジェクトは、日本にとって有意義な文化支援だった。
 図らずもこのプロジェクトに関わった私は、その顛末を『ベトナム絹絵を蘇らせた日本人』(2012年5月、三五館)にまとめた。
 

『ベトナム絹絵を蘇らせた日本人』(2012年5月、三五館)の表紙

 ベトナムはいま経済発展の最中にあり、日本からの企業進出も顕著だ。2022年のGDP経済成長は、国内外の変動にも関わらず8.02パーセントにも達している。東日本大震災に伴う原発事故後も、日本からの原発を輸入する方針に変わりない。
 インドシナ半島にあって、長く戦火にまみれてきたベトナム会主義国。長い国境線を接し、東西のイデオロギーや大国のエゴに翻弄されてきた。ベトナム戦争が「民主主義」と「共産主義」のイデオロギーの戦いであったことは事実だ。
 しかしアメリカ映画の『地獄の黙示録』のように、戦争とは狂気であり、戦地は地獄なのだ。北ベトナムが母国を守る戦いであっても、「共産主義」イデオロギーに基づいた抗戦であるから民主主義の敵であり"悪である"とする理論付けて、徹底的な化学兵器攻撃を用いて、無差別に人民を殺した。
 この化学兵器の影響に受けて、身体に障害を持つ子供達を見かけた。当然、彼等はベトナム戦争を体験していない。撒かれた枯葉剤で生まれながら影響を受けたり、地雷で身体に傷がついたりした人々だ。しかしベトナム人の持つ特有の明るさに救わる思いがした。
 かねてから日本と同じアジアにあって、戦争と隣り合わせあったベトナムとカンボジア両国の復興ぶりを現地で見たいと思っていた。カンボジアは別項で取り上げるが、ハロン湾やアンコールワットという、すばらしい世界遺産を有し、観光によって経済復興に力を入れていた。そこには、文化財や自然を生活の糧にするたくましい民衆の力を感じた。
 今回の旅では、王宮や寺院、皇帝廟など風格のある古い建造物が点在し1993年にベトナムで初めて世界遺産になったフエには行けなかった。近い国なので再訪し、さらに観光とともに、近代化した街並みも確認したいものだ。
 ベトナムを旅して、かつてこの土地であの「理解し難い戦争」が行われたとは思えないほどだった。現在、日本で働く海外の労働者で一番多いのがベトナム人で、46万人以上を数える。日本の米軍基地から空爆の戦闘機が発進していた史実から、日本は経済や文化の発展に寄与することに異論はない。ベトナムと同様に、ウクライナに一日も早い平和と、戦後の経済発展を祈らずにはいられない。

近代都市として発展のべとなむ。ホーチミン市の中心街(2020年、『フォトジャーナル』より)

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