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器用貧乏ではたどり着けない場所へ

きよう-びんぼう【器用貧乏】
なまじ器用であるために、あちこちに手を出し、どれも中途半端となって大成しないこと。また、器用なために他人から便利がられてこき使われ、自分ではいっこうに大成しないこと。
(出典 : goo辞書https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%99%A8%E7%94%A8%E8%B2%A7%E4%B9%8F/

僕は自他ともに認める器用貧乏。自分で言うのもあれだけど子供の時から運動神経は悪い方ではなかったし、勉強もそこそこできた。他人と比較してもそうだし、自己評価でもそれなりに満足行く結果が大体いつも得られてきた。

器用貧乏はあくまで他者との比較の中にしか存在しない言葉だとおもう。偏差値的な考え方。偏差値60くらいならちょっとやればいろんな科目で簡単に行けるけど、70には届かない。

僕はそんな今までに不満はなかった。満足していた。

そう、満足してしまう。自分ならこんなもんだ、それなりに上手くいって楽しいし、一番にはなれないけど自分よりもできないやつだってたくさんいる、こんなもんだろ。よくも悪くもない。むしろちょっと良い。大きな失敗をすることもなく、感情の起伏も少なく、緩やかに生きていける。

満足と諦めは自分の中では同義に近い。僕は自分の人生に満足していたと同時に、諦めていたんだと思う。22歳の若者が何いってんだかって感じだけど。

自分の器用貧乏とめんどくさがりな性格が絡み合って22年生きてきた結果、この中途半端な満足感は厄介な病となって気づかないうちに僕を苦しめていた。停滞する病。なんとなく感じる閉塞感。でも自覚症状は出にくい。なぜなら不満がないから。

『でも、あるとき僕は気づいた。この人生は自分だけのものだ。』

とかなんとかさも啓示を受けたかのような強烈なパンチラインを書きたかったけど、そんなことはなかった。別にいまでも大層な哲学があるわけじゃない。それでも段々きづいてきた。比較の世界ににいない人生を送りたい、自分の楽しさを一生追求したい、とかとか。

どこかでパラダイムシフトがあったのか、それとも少しづつ僕が変わり始めていたのか、それともそもそも自分はこんなところで停滞する器ではなかったのか。

自分の価値観が変わり始めたけど、それに合わせて性格や気質が変わるなんてことはない。意識は変わっても無意識は変わらない。だから無意識が着いてくるまで意識と行動で引っ張る。(これができる自分は純粋にすごい!もちろんそれができる環境や幸運のおかげでもある。)だから風邪だろうとなんだろうとスノーボードをしている。

まずは器用貧乏で行ける場所を超えなくちゃならない。ここから先は不快だし、楽じゃない。自分に絶望することだってただの一回どころの話ではない。そんなのわかってる。だけど、多分この過程も僕は楽しめる気がする。

こんな抽象的なことつらつら書くのは自分的にはちょっとダサくてNG。でも内容に嘘はないし、自分の中での具体的な体験が少しづつまとまってきて一度吐き出さないとスッキリしなさそうだったからしょうがない。クリスマスでスキー場が開いていないので珍しくゆっくり時間を取れたのも大きかった。

もし他にも僕と同じように器用貧乏に苦しんでいるひとがいたら、この文章がなにかの参考になるといいなあ。

日本の大学を休学してノルウェーに住んでいます。スノーボードをするためにここまでやってきたので、本気で滑り続ける毎日。自分の目標を管理するために日々Snowboard noteを更新しています。