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【少年・青年・中年・老年小説集】「小心地滑国内旅行記…〈秩父への旅⑤〉」


ユキオは大浴場にいた。

この宿は本物の鉱泉湯であった。
したがって…たいへん面倒な入り方をしなくてはならない。

説明が大浴場…とはいえないほど、大きくはない浴場の壁に、
細かく説明が書かれている。

長く入ってはいけないらしい。
休憩をはさんで、何回までと書かれている。

胃にいいという飲み水があって、
これもまた少しずつ時間をあけてのむだとか…
詳しく書かれている…

めげた。

パンフレットに1泊は8000円と書かれていて…
かなり落ち込んだ。
払ったのは1万2000円…
今日の経緯を思い出しては、また落ち込んだ。


半地下のもしかしたら自炊客用の相部屋かもしれない部屋に
案内されたかもしれないことに…落ち込んだ。

上の階の様子を探りにいったら…
1階より…いや、半地下よりも雰囲気が明るかったことに落ち込んだ。


卓球場がないことに…
売店がないことに…
遊技場もなく、
食堂もないことに…

ユキオは落ち込んだ。


すべての判断力、決断力、
コミュニケーション力に欠けることに落ち込んだ。

落ち込んだことを言い訳に…
めんどくさくなって
ユキオは30分以上連続で湯につかり、
鉱泉水を一気飲みして…

さっさと大浴場をあとにした。

ほんとは、泊り客と浴場で一緒に
すごしたくなかったこともある。

いまは誰ともしゃべりたくなかった。

急いで着替えて、
ぬれた髪のままで…
タオルでぬぐいながら顔を隠して
自室に逃げるようにして帰った。


ふと、会社でのいやなことを想い出した。

なにもかもがうんざりだ。
替えた汚れた下着を自宅から持ってきた
スーパーの袋に入れた。

落ち込んではいるが…午後5時の夕食のことは、
頭に入っていた。

しかし、ユキオとしては
ありえないことに
食欲がなくなっていた…

食い意地だけは裏切らないおまえが…
どうしたんだい?

胃が痛くなってきた…
ん? 
さっきの鉱泉水一気飲みのせいか?

「お客さん。夕食の準備ができました」

合図もなく、おばさんが入ってきた。
廊下に置かれた料理が部屋の卓袱台にのせられていく。

ふいをつかれて、
足を投げ出した状態で、
髪もぬれたまま…
ただぼうぜんと配膳を見守っていた。

おばさんは無口だった。
なんだか、助かった気がした。
気を使って話すこともないだろう。

お金は払ってあるし…

配膳が終わった。
型どおりの挨拶をおばさんがしたあとに、
ユキオは目の前の刺身の正体が知りたくなり、
尋ねた。


「鹿のおさしみです」

会話は終わってしまい、
旅のクライマックスの食事が始まる。

食欲もなく、
胃も痛い。

ユキオは料理を見つめながら…
哀しい気分で、
今日起こった出来事がぐるぐるまわることを
止められないままでいた…











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