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映画『この世界の片隅に』のはなし


誰か見ず知らずの特別な人の物語ではない。戦時中という現代の私達からするとあまりにもかけ離れていて想像しにくい現実ではあるが、そこで描かれている人たちはまさにその当時の悲惨な現実を必死に生きた普通の人々だ。

普通というと語弊があるかもしれないが、戦争に巻き込まれ、人生、家族、土地、自由を失いそれでも明日を思い描き懸命に生きていた人たち。当時の日本ではおそらくそれが普通の光景だったのだろうと思った。

すずの健気な生き様と、のんの優しげで頼りない芝居で鑑賞中2度ほど目頭が熱くなった。慣れない環境で身を粉にして働き、不平を言わず笑顔で生きているすずが理不尽な暴力により唯一の拠り所の絵描きのための右腕を失う。姪っ子を守りきれずさらに追い詰められ徐々に居場所を失って行く。

この物語は居場所を求める話なのだろうか。『この世界の片隅に』難しいタイトルだと思う。一人称で見れば、いま自分がいる場所こそが真ん中であると言っても過言ではないし、ましてや片隅ではないと思う少し楽観的かもしれないが。居場所を求め悩み、最後ここ呉でともに生きて行くことを決め居場所を見つけたすずは、次に身寄りのない子どもに居場所を提供する。

この映画を見ていて皮肉というかそんな感情を抱くことがあった。まぁエンドロールごの右手首から先で手を振っているのは悪趣味というか蛇足に感じたが、人目につきにくい片隅ではありながらも懸命に生きていてそれぞれに人生があって特別な人なんていなくてだれかの中心は誰かの世界の片隅で、それでもみんな時には場所を分け合い、失い、貸したり借りたり、移動しながら探し求めてるわけだ。タンポポの綿毛のように。

そしてオープニングには世代が別れたタンポポが四つ描かれている。つぼみ、黄色い花、白い花、綿毛。居場所を探すメタファーとともに世代の繰り返しの表現でもあると思う。

また、皮肉というと、中盤出てくる「良かった」という言葉。何も良いことなんて何一つ起きてないのだ。消去法で考えるまぁ良かった。不幸中の幸でまだ良かった。右腕失っても生きてるから良かった。死んだのが2人じゃなくて1人で良かった。良いわけがない。それでも良かったと思わなければ報われないやりきれない時代だったのだろう。心が苦しくなる。

多少の歴史を知っているから画面の出てくる日付が徐々にタイムリミットのような役割を持ってあの日に近づいて行く。ここも演出としては成功しているとは思うが、皮肉のような気もするしやりきれない気持ちになる。

終戦を迎え蓄えていた白米を引き出しから出す。今日は何も混ぜずに食べようという。でも全部はダメだと、明日も明後日もあるんだからね、そんなようなセリフが義理の母から出る。ここで涙が出た。すごく分かりやすい説明的なのは分かっていても、日本が敗戦し少し安心したのかそれとも悔しいのか先の見えない状況でどのような思いを持っていたのかはまるで想像はできないのだが、それでも明日に希望を持っていることに心が震える。

娘を亡くした義理の姉が、娘の服を孤児に着せてあげようとするシーンもすごく良かった。人間誰しも居場所が必要なんだ。

戦争に対してはどんな理由があっても反対だし、守るための武力は最低限必要であってもそれを行使する日なんて絶対に訪れないで欲しいと心から思う。わたし自身愛国心があるかと言われたらなくはないが強くはなく一般人という自己認識だが、母国に爆弾を落下させるシーンは見ていて辛いものがあった。

誰かの世界の片隅は誰かの世界の中心かもしれない。自分の国だからとか、知らない土地、国だから関係ないなんてことは無く。2度とこのような悲惨なできことが起こることがないことを願う。

いつか呉に足を運ぼう。当時のたんぽぽが世代を超えてどこかで咲いているといいな。

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