社会心理学・社会福祉学・仏教哲学から考える「死にたいなら一人で死ぬべき」という非難が良くない理由

 神奈川県川崎市で、スクールバスの乗車待ちをしていた児童が多数殺傷され、死亡者が出るという大きな事件が発生しました。まずは被害を受けられた方の回復と、亡くなられた方のご冥福を心からお祈り申し上げます。本記事は、その折にNPO法人「ほっとプラス」代表理事の藤田孝典氏(以下、藤田氏)が記事として執筆し、ツイートもされた「死にたいなら一人で死ぬべきという非難は控えてほしい」という旨の内容について、社会心理学・社会福祉学・仏教哲学の視点から、学術的説明を交えつつ、考究を試みるというものです。

 藤田氏の見解に対し、「まさにその通りだ、負の連鎖を生じさせてはいけない」という旨のものから、「被害者の気持ちを考えたらそのような事は言えない、加害者擁護ではないか」という旨のものまで、多くの意見が寄せられています。私自身は藤田氏の見解に肯定的です。そして、藤田氏の属する専門分野からの視点、つまり社会福祉学的視点からすれば正しいものであり、携わる人であればこの見解になるのが自然ではないかと思いました。なぜかと問われれば、私の専門が社会福祉学であり、そのような教育を受けたからという答えになります。

 しかし、「死にたいなら一人で死ぬべきという非難は控えてほしい」という見解は理解できますが、同時に懸念点も浮かびました。それは、記事やツイートに、なぜそうなのかという学術的視点がなく、誤解を受けそうな印象があるということです。内容に納得できない人が出るのは当然だろうと感じ、そのような混乱を抑えるためには、もう少し詳しい補足説明が必要ではないかと思いました。私は、皆さんに誇れるアカデミックな地位も、社会的功績もない人間ですから、私の知識でお力添えできるかは分かりませんが、少しばかり補わせていただきたく、執筆するしだいです。


「死にたいなら一人で死ぬべきという非難は控えてほしい」には学術的根拠がある(社会心理学)

 藤田氏の見解に対し「何の根拠もない」という意見を見かけましたが、それは単に知らないだけであり、間違いであるといえます。社会や集団から否定・拒絶される事により攻撃性が強化されるという複数の研究結果と学術的根拠が存在しています。(大渕 2007、リッチマンとレアリー 2009、浦 2009など)さらに、研究によると自分を拒絶した対象だけではなく、無関係な対象にも攻撃性が向けられることが判明しています。

 トウェンジーたち(2001)の実験では、学生の集団にある共同作業を行わせ、その後、次の作業でも一緒にやりたいメンバーを選ぶように指示しました。このとき、他のメンバーから受容された学生と拒絶された学生に、その後、コンピューターゲームをさせたところ、拒絶された学生は相手に対しより強いノイズを与え、さらに、拒絶された学生はたとえゲームの相手が自分を排斥した人でなかったとしても、そのような振る舞いが見られました。つまり、社会や集団から否定・拒絶されると人間は攻撃的になり、それが時に、直接の対象以外にも向けられることが示されています。その究極たるものが、まさしく「通り魔殺人事件」ではないでしょうか。単に、一緒に作業をする事を拒否されただけでも攻撃性が生まれるのですから、「一人で死ね」などという生命存続に関わる程の発言を、集団で一斉に浴びせ、見境なく拡散すれば、より強い効果が生まれるであろう事は、特段頭の良い人でなくとも容易に理解できると思います。それらの言葉を観測した誰かの攻撃性を強化し、別の事件へと発展する確率は、上昇する可能性があるといえるのではないでしょうか。


「ノーマライゼーション」を知ってほしい(社会福祉学)

 社会福祉という分野には、根幹をなす理念があります。1950年代、ミケルセンが提唱した、「ノーマライゼーション」というものです。簡潔に言うと、障害を持つ人が社会から隔離・分断されることなく、それぞれが人として尊重され、均等に、当たり前に、社会役割を果たせるような世の中にしていこうという考え方です。元々は、知的障害者の「親の会」がすすめた、脱施設化運動が発端ですが、やがて知的障害者だけでなく、精神障害者や犯罪者、その他、生きる上で何らかの社会的障害を持つ人々へという形で、全体的な視点に拡大されました。

 かつては、社会に不適合であるとみなした人を隔離、分断させることが一般的でしたが、そのような形で分断し、差別化を図ることで、多くの問題が生じました。その究極たるものが、ナチスドイツの行った、T4作戦などの政策です。これは、お笑い芸人の松本人志氏が「凶悪犯罪者は人として不良品」という発言をした件にも絡められると思いますが、生きる価値が無い、あるいは社会にとって不必要だと判断した人々を受け入れず、分断したことで、偏見・差別・迫害の構造が生産されていったということがあります。1944年、ナチスドイツはデンマークに侵攻、ノーマライゼーションの提唱者であるミケルセン自身も、強制収容所に入れられ、状況を直に体験した上で考えを構築しています。人を社会から仲間はずれにしたり、追放していた過去の歴史への反省から、今日の社会福祉学的理念が成り立ったといえ、藤田氏の発言は、おおよそそのような視点から発せられたのものであると推測できます。

 オランダでは、犯罪者への刑罰や隔離を重視するのではなく、更生保護、つまり、復帰後の犯罪者が社会との関わりを円滑に営めるようにする為のプロセスを重視した結果、2013年以降19ヶ所の刑務所が閉鎖され、「受刑者不足」になっています。空いたスペースは難民に貸し出したり、外国の受刑者を受け入れているそうです。スウェーデンでも同様のアプローチを実施し、2010~2014年で56ヶ所の刑務所が閉鎖されたとのことです。

 ノーマライゼーションは、単なる考え方にとどまらず、そのような歴史的背景と、実践に基づく結果が付属しているということをお伝えしておきます。


社会と個人とは相互依存的なものである(仏教哲学)

 「死にたいなら一人で死ぬべき」だとする考えには、社会と個人とを分離させる思考が無意識的に働いていると思います。確かに、カテゴリーが異なりますし、分けて議論をすることもありますから、そのように思ってしまいがちです。しかし実際は、社会と個人は相互依存的であるといえます。個人がどこにもいなければ、社会は存在のしようがなく、また、社会的な関わりが全く存在しなかった個人なるものがいるならば、その人は社会からは一切観測ができないということになってしまいます。

 大乗仏教ではそのような現象を、「縁起」と定義しています。物事は、見かけ上はカテゴライズされ、それぞれが独立別個に存在していると見えがちですが、実際はすべてが何かに依存をして成り立ち、何らかの依存を経なければ、今ここにいる私の前に現れることすらなく、観測もできない、という訳です。科学的でもありますね。

 それを踏まえたうえで、社会や環境からの働きかけを否定し、個人の行いで社会に迷惑をかけるな、一人で死ねという旨の言説を成り立たせるには、つきつめると、「個人の存在しない社会」や「社会とはまったく関わっていない個人」といった立証不可能な例をあげなければならないという状況に陥ってしまいます。やはり、個人の形成には、社会が関わっており、社会の形成には、個人が関わっているということです。

 これは、哲学的な問答のような話だけではありません。遺伝と環境の相互作用の存在は複数の研究で認めらています。「どのような社会や環境であっても、必ず凶悪犯罪を起こす遺伝的要因」なるものが特定されたという話は、聞いたことがありません。生まれながらの凶悪犯罪者を完全に定義することは、今の所できないといえます。従って、社会が受け入れる事により、凶悪犯罪者の発生を未然に防ごうとする試みを、完全に否定することもできないといえるのではないでしょうか。


おわりに

 凄惨な凶悪犯罪を目にすると、たとえ遠い地方のことであっても、直接の知り合いでなくとも、被害を受けられた人々にのことを思ってとても悲しくなり、凶悪で利己的な振る舞いをした加害人物に対し、怒りや破滅的な思いが込み上げてくることがあります。それを否定するつもりは全くありません。なぜなら多くの人が、見知らぬ誰かの思いに共感でき、一緒に悲しむことができる利他的な心を持っている証だと思うからです。「自分の愛する人を殺されて、死にたいなら一人で死ねばいい!と思わないのか」と問われれば、思うかもしれないと答えます。

 しかし、見切り発車的に、ただ怒りにまかせて拡散する、ということであれば好ましくないといえます。この社会で、自らが可能な限り、合理的な状況把握に努め、怒りに囚われず、適切な判断をし、陽転させようとする心がけは、大切だと思います。

 ここまでお読みくださり、ありがとうございました。皆さんにとってより良い社会になる事を祈っています。以上です。


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