「死」との距離感

 いやいや、それほど物騒な話ではなく、うちの子の話です。
数日前のこと。2件の葬式と、ババの入院を2週間のうちに体験したうちの子が、布団に入りながらしくしく泣き始めました。
 今日は特にキレる母を演じてはいないはずだぞ・・・とまずは我が身を振り返りつつ、どうして泣いているのか尋ねたところ。

 「ぼくは、死んじゃうのが怖いんだよ。死んじゃうのが怖くて、暗いところが怖くなって、布団にくるまると苦しくなって怖くなって・・・。」
しくしくしく。

とのこと。
どうりで、私の掛け布団の分量が少なすぎる!とここ数日感じていたのです。私に怒られたからじゃなくって良かった、とホッとしながらも、さあ、とうとう出たぞ、生きとし生けるもの全てがぶつかる命題中の命題じゃないか、と布団の中で居住まいを正したわけです。
 
 これまでの「死」は、ゲームの中と「名探偵コナン」の中にだけ出てくるキーワードの一つでしかなかったものが、生まれて初めて自分の身の回りの現象として表れた訳です。
彼にとって「死」は、痛いもの、苦しいもの、暗いもの、一人ぼっちで寂しいもの、取り返しのつかないもの、といったイメージと結びついておりました。絶望的に、あらがえないマイナスなものなのです。
これはこれは、、、泣きたくなる気もわかります。
 
 思い返すに、私自身も子供の頃は同じような「死」のイメージを持っていました。誰が教えたのでもないのでしょうが、どことなく世の中がそんなものだと思っている節があった気がするのです。でも、今現在の私は、もう少し「死」の輪郭が緩んできている気がしています。沢山の、とまではいかなくても、いくつかの死と向き合ったり、知識として知ったりするうちに、生きていることと死んでいることが表裏一体であったり、臨終の際の恐怖感が少しずつ薄らいでいったり、揺るがない力と形を持つ死神の絶対的なイメージは薄れ、時には間違いも起こしあの世に送る人を間違える、くらいになっています。
 何となく、生きてるパワーに溢れている人ほど「死」は遠い存在であって、それゆえにとてつもなく「死」を恐ろしく感じる気がします。もうすぐ死にそうな人は、もっと「死」が優しさを持つのではないのだろうか、なんて妄想をしながら私なりに子供に返してみました。

 「本当のことは、今生きている人は誰も知らないんだけど、生きているうちに出来ることと死んじゃってから出来ることは違うんじゃないかと思うのよ。あなたの身体は死んじゃったら出ていかないといけなくて、身体が無いとできないことは今のうちに精一杯やっとかないといけないと思うのよ。怖いって思うのはみんな同じで、ママも怖いと思うもの。その怖いことにも逃げないでいられる強い人間になれるといいねえ。だんだん練習なのかなあ、今日はまだ練習できていないから、ママとギューして寝るかー-。」

と応えておきましたが、この先、この子はどんな死生観を育ててゆくのだろうか、と天井の豆電球を眺めながらぼんやり、いや、かなりしみじみ思ってしまいました。
 死にゆくジジとババと暮らすってことは、とても大きな学びをもたらすのですね。私も精一杯に、生きてるジジババと向き合いたいと思いました。
 
 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?