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お彼岸が終わります

 今年は、境内の彼岸花をゆっくり愛でるゆとりが無いままに、はっと目を引く朱色がくすみつつあります。
 ゆとりが無かったわけは、おババを法事に連れてゆくことになったからであります。おババは、現在は介護4の肺病を患った車いす人間。先日の在宅の日には、私が目を離したすきにお参りのお客さんが玄関に現れ、車いすから身を乗り出して落下するという事件を起こしたところに台風が接近し、気圧だの泥んこの足元だの、大きいところから小さいところまでケアしなくてはいけないことだらけ。計画断念したらどうだ、と施設から提案を受けた時には半分その気になっていました。
でも、いろんなことが杞憂に終わり、ババは本日も元気にお客様と面会し、本日お彼岸最終日であります。

 この時期の小さな失敗は、三途の川を渡りかねないので、私としてはとても考えた次第であります。といっても、考えても仕方のない事なので、考えるだけ損で疲れてしまった、という訳ですね。

 雑感ではありますが、何事も1度経験しておく、というのはものすごく威力のあることで、次からはそこを基準に物事に取り組むことが出来たり、誰かと話をするときにも相手の話をイメージするとっかかりになったりします。その時の全く関係ない心のモヤモヤとかも含めて、実はつながっていたりすることが多いので、何でも経験だ!と私は思っています。そして、それに引きずられないように心の引き出しにしまうところまでが何かを経験するということ。

 それでもって、介護という作業も、子育てと同じくらい、これまで誰かの話で聞いていた感触と現実のギャップが激しいものなのだなあ、と思っております。介護した経験のある人とそうでない人では、そこに付随するモヤモヤ感の共有が圧倒的にしにくい。想像できるモヤモヤ感が人によって随分違うのです。子育てに関しては、そのモヤモヤ感の通じなさはあまり感じたことが無かったのですが、介護はそうでは無いような気がします。
 まだ子育てを経験したことのある人の方が多いだろうから、様々な情報も共有しやすいのかもしれませんし、これから育つ若い命に向き合う話ともう人生の幕を閉じようとしている命に向き合うのでは、本能的に子育ての話の方が受け入れやすいのかもしれません。きっともう少し時代が変われば子育てしたことある人の方が少数派になり、逆転の可能性もあるのかもしれない、なんてことも思ったりします。恐ろしや。

 そして、私の杞憂は続きます。
果たして、子育てしたことの無い人は介護できるのだろうか。もっといえば、子育ても介護もしたことない人は、自分が介護してもらう時にどう感じるのだろうか。

 疲れ始めると、やたら働き始めて自分を忙しくする悪い癖のある私。パソコンを開いて仕事をしようとしていたのに、横道にそれてnoteを書く。
さっさと気になることを終わらせてしまうのだー--。

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