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羽化する

 玄関のドアノブは昨日より冷たかった。ドアを開けた瞬間にひやりとした風が頬に絡んだので、ああ、また季節が変わったなと思う。マンションの錆びついたドアを出ると冷気が濃くなった。息を吸うと鼻の奥がツンとして、僕はジャンパーのファスナーを首元まで あげる。僕は右手に持ったデジタル一眼レフカメラを弄びながら、歩きなれた道をぶらぶらと歩いた。左手はポケットの中にある。

 この街に来てもう5年が経つ。小さなデザイン会社に就職が決まって、大学を卒業すると 同時に実家を離れた。誰も知らない土地で生活をするのは心細かったが、今となってはここでの生活が随分肌になじんできたように思う。
 マンションを出て15分ほど歩いたところに大きな公園がある。休日に予定がないとカメラを片手にここへ来て写真を撮ることにしている。写真は唯一の趣味で、このカメラも高校生の頃に必死にアルバイトをして買ったものだ。撮ったものを飾ったり、人に見せたりするつもりはないが、いつからかカメラと共に散歩をすることが習慣になっていた。

 日曜だからか、公園はにぎわっていた。中央にある大きな池では、家族連れやカップルが、派手な色のアヒル型のボートを楽しそうに漕いでいる。
 アヒルボートの鳴き声を聞きながら池の周りを歩いていると、僕の横を数人の子供たちが嬉しそうに声を上げながら走り抜けていった。彼らは何歳ぐらいなのだろう。手足をこれでもかというぐらい大きく動かし、たどたどしくも、転ぶものかと地面を強く蹴っている。笑い声をあげている口からは、眩しいぐらい白い歯が覗く。
 僕にも、あんな風に走り回っていた時期が確かにあったのだ。
 今の僕はどうだろう。生活に何も不自由はなく、自分のことを不幸だと思うことは無い。身体は健康だし、仕事もそれ以外もなんだかんだうまくやっている。
悪くない。決して悪くないのだ。
 しかしなぜだか、この先も続く自分の生活のことを思うと、ぼんやりとした憂鬱が襲ってくる。この得体の知れない気持ちはなんだ ろう。それはここのところずっと、静かに僕の身体の隅のほうに張り付いている。

 カメラのシャッターを切っていると、比較的人がいない静かな広場に出た。だんだん指先が冷たくなってきた。僕は自動販売機を見つけると、ポケットから小銭を出して缶コーヒーのボタンを押した。鈍い音で落ちてきた缶コーヒーを両手で包むと、指先のほうから細胞がじんわりとほどけていくような心地がした。
 適当なベンチに座って、缶コーヒーで片手を温めながら、今日撮った写真を見ていく。鮮やかな落ち葉、池で泳ぐ鯉、木に立てかけられた自転車、花に止まる虫、ベンチに寝転ぶ猫...。慣れ親しんだ公園の風景が僕のカメラの中にある。

 一通り写真に目を通し満足してベンチを立とうとすると、 ベンチの後ろから高い声がした。
「お兄さん。なんの写真、撮ってるの?」
驚いて振り返ると、小学生ぐらいの男の子がベンチの背の後ろから僕のカメラを覗いていた。
「公園の写真だよ。花とか。虫とか。そういうの。」
「え、虫?僕、虫の写真見たい。」
「ああ、別にいいけど。でも、そんなに大したものじゃないんだけど。」
「やった。」
 少年は嬉しそうに言うと僕の隣に腰かけて、カメラの画面をのぞき込んだ。乳歯が抜けたのであろう隙間が、笑った口元から見えた。
「このボタン押していったら写真変わるから、好きに動かしていいよ。」
「ありがとう。」

 少年は画面に虫の写真を見つけては、虫の名前を呟きながらボタンを押していった。今日撮った写真が過ぎると、夏に実家へ帰った時の写真が出てきた。都会よりずっと鮮やかな緑。
「これ、どこ?」
「僕の地元だよ。ここよりずっと田舎だから、たくさん虫の写真撮ったはずだけど。」
「あ、白いセミ。」
「ああ、それ。歩いてたらセミが羽化してる瞬間見つけたんだよ。」
「これすごい。これ好き。」
 少年はボタンを押す手をとめて、その写真が移った画面をじっと見ている。
「僕さ、図書室の図鑑で読んだんだけどさ、セミって土の中に5年ぐらいるんだよ。それで、土から出てきて殻から出るまで2時間かかるんだって。でもそれから何週間もしないうちに死んじゃうんだって。すごいよね。」
「詳しいんだな。なんか、セミってかわいそうだよな。」
「かわいそう?なんで?」
「いや、だってそんなに長く土の中にいるのに、すぐ死んじゃうだろ。」
「でもそれって 、セミの中では決まってることなんじゃないの?このセミももう死んじゃってるよね?」
「うん、まあそうだろうけど。」
「じゃあかわいそうじゃないよ、たぶん。」
「そうなのかな。そうだといいよな。でも、人間はもっと長く生きられるから、良かったな。」
そう言って少年の顔を見ると、彼は不思議そうに僕の顔を見た。
「寿命って長いほうがいいの?」

 あれ、と思った。
 そうだよ、と言うつもりが僕は何も答えられなかった。彼は黒々と大きな目を僕からそらさずに続けた。
「きっとさ、セミはさ、羽化してるときすごく気持ちがいいんだと思うよ。それでさ、たくさん飛んで、たくさん鳴いて、もう十分だなあって思ったときに死んじゃうんだよ。あ、でもこれは図鑑には書いてなかったから、僕の予想だよ。でもさ、そんなにちょっとの時間で満足できるってすごいよね。僕は全然十分だなって感じがしないから、まだ死なないんだと思うよ、多分。」
 そこまで言うと少年はまた画面に目を戻して、カブトムシやクワガタの写真に夢中になった。

 僕は少年から目を逸らして考える。この先も今のように健康であればあと50年ぐらいは生きられるだろう。しかし、このままずるずると生きていって、「もう十分だな」と思える日がやって来るのだろうか。
 もしもその日が来なかったら。
 僕は羽化してない幼虫のままずっと生き続けなくちゃならないのだろうか。それは少し悲しすぎやしないか。
 パシャ、と乾いた音がした。少年が僕に向けてシャッターを切っていた。
「お兄さん、泣いてるの?なんで?」
我に返ると右の頬が一筋ぬれていた。
「あれ?なんでだろう。」
「変なの。」
少年は笑いながら僕にカメラを返した。遠くのほうから彼の母親が呼びかけている声が聞こえる。広場にいた子供たちは帰り支度を始めている。
「あーあ、もう帰らなきゃ。いっぱい見せてくれてありがとう。またね、セミのお兄さん。」

 少年は母親のほうへ駆けていった。その汚れたスニーカーが土を蹴り上げる様はとても果敢に見えた。
 カメラの画面に目をやると、情けなく泣いている僕の横顔が写っている。削除ボタンを押そうとして手を止める。やっぱりこの写真は少し残しておこう。いつか今日を思い出して笑いながら消すのがいいだろう 。

 もう広場にいるのは僕だけになった。街灯が帰り道を優しく照らしている。僕はあのセミの写真を現像して部屋に飾ってみようと決める。そして、いつもより地面を少し強く蹴りながら、歩きなれた道を早足で帰った。

おわり

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冬に書いたものを少し修正して載せました。
人との距離が広がる前に書いたものなので、今読むと、近くて変な感じがします。
最後まで読んでくれてありがとうございました。

渡部有希

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