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「ヒトはなぜ踊るのか」NHK BSプレミアム

「踊り」という言葉で何をさしているかは、かなり人によってバラつきがあるのですが、この番組は、人類の進化・発展において踊ることにどういう意味があるか、という切り口で、現代における踊ることの価値を伝えていてとても有意義な番組でした。あわせて私の活動も紹介させていただきます。

(番組サマリー)人類の進化・発展と踊り

人間の社会性の基盤に身体を通じてつながる能力というものを挙げていました。まさに、私がやっている活動と同じだと思いました。以下箇条書き。

・踊りは健康で余裕があって遺伝子を残すのに適しているとアピールできる。言外に伝わってしまう。相性もわかる。
・人間だけが熱帯の森林を出て発展した。これには危険や恐怖を乗り越える集団行動、社会力が必要。この獲得に身体の同調・共鳴を通じてこころを一つにするというのが大きい。ゴリラは4足歩行で胸をたたくドラミングはできるけれど、踊らない。人間は2足歩行になって表現力が格段に向上した。
・ヒトの動きを自分の動きに変換するミラーニューロン。これは音真似をする能力と関係ある。動きを真似る事、音真似は通ずるものがある。動きを真似ること、音真似が言語の発達につながったのではないか。
・言葉を持たないヒトも、踊りを持たないヒトも現代の地球上には存在しない。

(番組サマリー)現代の私達に踊る事はどういう意味があるか

・踊るとは、相手がどこかにいる事を想定して踊る。社会的な行動。
・ダンスは意味付けしない事で想像性を発露する。受け取り手に伝わる事が沢山ある。(以上 岡ノ谷一彦)
・踊る事によって、自分が自分と感じる。生きてる感覚が素直にでる。以前は縛られてた。自分の意思がなかった。踊りは自分の意思でやってる。集団の動きも、揃える、一体感を得るのではなく、あえて個性をなくさないでやる。集団の中で自分という個を見つける。(ダンスグループ ソケリッサメンバー)
・ダンスをやってない身体が舞踊に向き合うと人間味が出る。(ダンサー辻本知彦)
・コロナ禍で人は断絶されてずっと座っている。それがどんなに創造性を剥ぐものか(岡ノ谷一夫)

わたしの活動紹介

2020年5月から毎週Zoomで踊る会を開催しています。ここでの踊りは、まさに番組で語られていたコミュニケーションそのものの踊りです。

即興で自由に動き、時に誰かを模倣したり、誰かの動きに反応して動く(「感じ合い」と呼んでいる)という事をしています。表現すべきテーマも掲げません。これが不思議な程、その人に触れた、つながっていると感じる事ができます。同じ曲の中で、その人の動く様から、私とは違うその人自身が、滲み出る様に伝わってきます。むしろ会話をしている時よりそう感じます。

毎週続いているのは、それがみな楽しくて欲しているからだと思います。

メンバーに特別に踊りの為の訓練の要求はありません。みな、思うように、その人の身体の状態のままで動いてみること、在る事をしています。
関連する記事を「生活の中の踊り」という題でエントリーしています。

仮説 踊る事はどういう意味があるか。日本社会と照らし合わせて

身体でお互いに共鳴し合う事が人間の社会性のベースにある。なんとなく元気がないな、とかイライラしているな、とか心ここにあらずだな、というのは身体の気配から感じられるといえば少しイメージがわくだろうか。人は言外にそういうレイヤーで通じ合っているものだ。

ところが最近は人が機能でつながる側面、情報を交換する側面だけに圧倒的に光があたっていて、身体性でつながっている側面、身体という存在であることを忘れている、アンバランスな状況だと思う。

そのアンバランスな状態に均衡を取ろうとして多くの若い人がダンスをしているのではないか。身体としての存在を否定されたエネルギーの発露だ。(小学校においてダンス授業が必修化された事で、多くの若い人がHIP HOPなどのリズムダンスを踊るという経験をしているのもその一助となっているとも思う)

元々踊るというのは生命としての魅力を伝えるものだから、アイドルグループがダンスをし、ファンがそれに魅了されるように、若い人がダンスをすることには、そういった側面もあるけれど、現代の状況はそれを超えているように思う。それだけ日本社会の個の抑圧が強いのかと推察する。

そこで踊る事を経験するのはよいのだが、多くの場合若い時の一時のエネルギーの発露で終わってしまい、本来の人との共鳴、そこから安心して社会につながれるという確信といったその後に活きる力に繋げられていないのではないかと、残念に思っている。
それは踊る事を単なるリズム運動ととらえ、身体性とそれによる社会性への視点が希薄だという事だと思うので、今回のような番組はとても有意義だと思う。

今後テクノロジーがより一層進化し、コミュニケーションが変貌する社会において、この身体性への視点は重要なポイントになると考えている。

もう一つ。
ヨーロッパでは舞台芸術が社会のセーフティーネットに位置付けられていると感じる事があるのに対して、日本のそれは刺し身のつまの様だ。
舞台に乗っている作品を見て感じる相違は、ヨーロッパのそれは、被創造物としての人間だ。罪を背負った被創造物が、この世界を生きていくのは辛く困難な事で、お互いそれを慰め合いながら生きていく。それが彼らの身体性のベースにも舞台芸術とその位置づけにも反映しているように思う。だから身体性も舞台芸術も自分たちに必要なものなのではないか。

一方日本では、人は自然に埋没し世界と等価な存在なので、自然でつながっている事は当たり前で意識すべき事ではない。セーフティーネットは自然。無自覚なものだ。

それがこれだけ身体性が失われ、人の価値が機能としての価値で語られる社会になると、個が分断され、何かにつけて自己責任といわれる冷たい社会、セーフティーネットのない社会になってしまった。

だからこそ余計に、舞台にのせるのだけでない、普通の人が普通の生活の中で身体性を再度獲得する、踊る事が、どれだけか重要なことなのではないか、と思っている。

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