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廃墟:神戸南洋植物パーク(調査編)

 神戸南洋植物パーク跡地、調査編。先の実地探索で位置を特定し、現状を明らかにしたが、今回は文献調査によって在りし日の姿と歴史を探る。ヘッダーの写真はこの先廃墟になりそうな須磨海釣り公園。すくすく育て。

本領発揮の調査編・開始!

 文系の人間として、文献を読んで調査することが普段の生活に近い行動であるから、文献調査こそ本領発揮の面目躍如といきたい。現地調査当日から、調査計画を考え始めた。
 まず、これだけの施設があったのであるから、古い地図にはその形が残っているはずである。なので、完成後数年の地図、廃園後少したった頃の地図、そして現在の地図と航空写真、これらを並べて比較すれば、明らかになることはあるはずである。その次に、当時日本一と謳われた温室があった施設のこと、当然新聞にドカンと取り上げられたであろうから、当時の大阪朝日とローカル紙である神戸新聞を調査すれば必ずや華やかなる時代の写真が見られることだろうと見込んだ。
 翌日、まずは新聞のアーカイブを手に入れようということで検索を開始した。

暗雲

 この世に存在する新聞データベースの中で最も整理されているのが朝日新聞クロスサーチだ。新聞に対しての好き嫌いは別にして、当時どんなことがあったかを知るのに最適な手段であることは間違いない。「神戸南洋植物園」、早速検索する。0件が見つかりました。なるほど。検索ワードを色々と工夫するも、南洋真珠という会社があることと、南洋工科大学と神戸大学との提携を超える情報は得られなかった。早速暗雲が立ち込める。仕方ないので、神戸新聞に一縷の望みをかける。
 神戸新聞のアーカイブはアクセスが難しい。近年の新聞であれば神戸新聞NEXTを契約することで簡単に読めるが、ある程度古いものとなると図書館で読むしかないだろう。ということで、神戸大学が所蔵していないか、リファレンスに問い合わせる。しかし、残念ながら過去1年しか所蔵していないとのことだった。国立大学でもそんなものか……と思っていると、「県立には確実にある、そして市立中央にもあるかもしれない」との情報を頂いた。ありがたい。県立は明石市にあってちょっと遠いので、市立中央図書館に架電した。

マイクロフィルム版神戸新聞

 市立中央図書館「神戸新聞ならマイクロフィルムで所蔵しています」私「行きます」
 ということで、大倉山の中央図書館までやってきた。正直、三宮図書館か地元の図書館にあって欲しかったが仕方ない。マイクロフィルムということもあって遠隔で見ることもできないし、送ってもらうこともできないので来るしかなかった。何年ぶりかに来たが、相変わらず館内の電波は弱い。
  図書館のマイクロフィルムカウンターへ向かい、神戸新聞の昭和39年10月~12月(オープン時期はWikipediaより11月と判明していた)と、念のため朝日新聞の同時期をリクエストする。程なくして9本にも及ぶフィルムが手渡される。マイクロフィルムのビネガーシンドロームによる強い酢酸の香りを我慢しながらリーダーにセットする。ここからが骨が折れる。10月1日からの朝刊と夕刊すべての記事に目を通し、あるかどうかすらわからない記事を探すのである。朝10時、戦いが始まった。
 朝11時。「神戸三宮・生田神社前 観光施設国際トルコセンター ミスヘルス増員募集 最高の収入をお約束します」の広告を発見。「月収確実に50,000円」だそう。当時の平均年収が45万円という時代であるから、現在の価値だと月収50万円近い。現在も(全く信頼に足る数字ではないが、一説に)同様の職業で年収500万程度といわれるので、あまり変わっていないようだ。無料の女子寮も完備だそう。
 昼12時。当時は神戸にもたくさんあった18禁映画館で上映されていた、えっちな映画のリストを眺める。疲れてきた。ちなみにあまり気になるタイトルはなかった。当時のトレンドは「総天然色」と「団地妻」(筆者の感想)。
 13時。10月のフィルムを終え、11月のフィルムに入るが、11月のフィルムの先頭が破損しており、なかなか飲み込んでくれない。結局30分近く費やしてしまったが、なんとか挿入完了。フィルム操作ノブを持つ手がしびれてきた。もうちょっと操作しやすい位置につけてほしい。
 14時。ついに発見。昭和39年11月19日(木)夕刊6面(市内版面)であった。以下、内容のみ抜粋する。なお、横書き化に伴い算用数字にしたほか、一部表記方法の変更は断りなく行った(㍍→mなど)

<ここから引用>

<新聞記事>日本一の温帯熱室

神戸の塩田さん 移民救済事業に建設

 神戸市須磨区一の谷町2に日本一といわれるマンモス熱帯温室がこの程完成し、21日から3日間、関係者を集めて披露会が行われ25日から公開される。
 この熱帯温室は神戸市生田区明石町30、貿易商塩田富造さん(64)が帰還移民救済事業として建設したもので、直径30m、高さ15mのドーム型、銀色に輝く総ファイロン張り。総面積は709㎡で、総工費4,000万円。
 塩田さんは昭和36年11月10日の新聞で、ドミニカから失敗した開拓移民5世帯29人が神戸港に帰ったが政府の態度が冷たかったというのを知り、自分でこの人達の力になってやろうと南洋植物パークの建設にとりかかった。
 温室の中にはバナナやパイナップルなどのほかに、マンゴ(原文ママ)、パパイヤ、タロイモなど珍しい熱帯植物200種6,000本が植え込まれている。将来はこの熱帯温室の周囲に南洋植物パークを建設する計画だ。その中には帰還移民者の宿泊所を設け、帰還移民者やこれから移民しようとする人たちに仕事をしながら果樹園芸の技術を習得してもらうことも予定している。また、このほか同温室でできた果樹の即売、入園料なども帰還移民の救済に当てたいと山本恵二園長はいっている。
<引用おわり>

……これだけ?

 実に4時間をかけて探し出した一本の記事。夕刊のカコミ記事といったサイズで、当時の温室の写真が添えられている他は上記の内容が全てだ。写真も当然モノクロ、マイクロフィルムなのでセピア色に染まって哀愁を漂わせる。この記事のおかげでオープン日が判明したので、喜び勇んでオープン日前後を(朝日新聞を含め)丹念に読んだが、二度と出てくることはなかった。
 日本一の熱帯温室を擁する観光施設が市内にできてこの扱い。当時の新聞各社が何を考えていたのかは分からないが、同じページで5倍ほどの面積を「神戸市内の社員向け弁当事情」が占めていたことからしても、当時から注目度はかなり低かったことがうかがえる。発見の喜びから5秒で落胆に変わってしまった。

新聞調査の結果:
 オープン日 昭和39年11月25日
 プレオープン 昭和39年11月21日
 温室の面積 709㎡
 総工費 4,000万円(当時)
 素材 ファイロン(エチレンビニルアセテート(EVA)の一種)
 温室オープンと南洋植物パーク全体のオープンは別

地図調査

 新聞にはつくづく失望したところで、地図調査といこう。実際には図書館で住宅地図を見てから地理院地図等のネットで閲覧できる地図を参照したが、わかりやすさのためにまず地理院地図を用いて説明を始めたい。

位置はここ(地理院地図(淡色地図)+マーカー追記)

 神戸南洋植物パーク自体の位置はここだ。左下に見えているのが山陽電鉄須磨浦公園駅。現在の地形図では建物の遺構は全く記載されておらず、登山道としての表記が残るのみだ。より詳しくみていこう。

今回発見した遺構と温室跡地の位置(地理院地図(標準地図)+マーカー追記)

 今回発見できた植物パークの3つの遺構と、温室跡地の位置をプロットした図がこちらである。それぞれどんな場所だったか、探索編で載せた写真もあるが、掲載する。なお、相対位置とマーカーの見やすさを重視したため、正確な位置とは若干異なる。

半壊遺構(全壊といえば全壊だが、廃墟的には半壊ということで)
建物遺構(完全に道を外れた私有地内なので近寄れなかった)
門柱遺構(おそらく異人館のもの)
トイレ遺構(区別のためトイレ遺構と呼ぶが、トイレかどうか定かではない)

 こうして整理すると、おおよその姿が見えてくる。もっとも、異人館跡地は門柱のようなものを残して一切がなくなっているし、温室跡地は現在完全に畑と空き地になってしまっていて、全く当時の様子とは変わってしまっていることから、その他の建物も一部が取り壊されている可能性はある。なぜこの3つの建物と門柱だけは残されたのかがむしろ謎である。
 次に、航空写真を用いて探っていこう。

空から遺構をみてみよう

  まずは当時の姿から。温室がはっきりと写っている。土地の区画は現在とほぼ変わっていないこともわかる。一方で、今回発見した遺構群は森に隠れてしまい、当時存在していた姿を確認することはできなかった。

国土地理院撮影の空中写真(1974~1978年撮影)+マーカー追記

 

国土地理院撮影の空中写真(1996年撮影)(CKK953)

 参考までに、1996年の空中写真で確認してみると、すでに温室は消え去っていた。しかし、温室があった場所はそのままの形で空き地となっており、温室の場所を示している。これが現在の航空写真になると状況は変わる。

国土地理院撮影の空中写真(全国最新写真シームレス・オルソ画像2007~)

 森に覆い尽くされ、全く見えなくなってしまっているのだ。青い屋根の家が変わらず存在してくれているおかげで場所の特定は容易だが、もはや航空写真から当時に思いを馳せることはできない。

住宅地図から考える

住宅地図は今も昔も土地利用を把握する上で便利なツールだ。一方で、こうして調査結果をまとめる際には著作権が厄介な問題となる。しかし、好都合なことに当時の住宅地図は著作権保護期間が満了しているので、心置きなく共有することができる。

昭和41年版ゼンリン住宅地図(神戸市立図書館にて40年度版が欠品していた)

 デカデカと「神戸南洋植物パーク」の文字が踊る。不思議なことに現在の登山道を挟んで左側に「南洋植物パーク」とある。こちらが中心だったのだろうか。そして、敷地境界を示す線は逆くの字に折れ曲がったところで明確に引かれている。このくの次の頂点がちょうど「トイレ遺構」のあるところだ。やはり、建物群がある範囲のみの比較的狭い植物園に、温室が付属した施設だったのだろうか。
 また、温室のみが先に完成、公開されていたことは神戸新聞の記事から明らかなのだが、完成から2年後にはすでに拡張され、植物パークが完成していたこともわかる。
 ところで現在の住宅地図(21年版)は著作権の都合上貼り付けることはしないが、ご覧になっていただくとちょっとおもしろい。実は、今回発見した遺構のうち門柱遺構を除いた3つがはっきりと描かれているのである。航空写真で見えない以上、ゼンリンさんはこんなところも歩いて調査したうえ、完全に崩壊した建物まで地図に載せている努力に敬服する。

まとめ

 長い調査の旅も終え、実地調査から記事化まで足掛け1週間(うち2日は完全にサボっただけだが)。ここまで大事になるとは思わなかったが、久々に骨のある調査ができたので満足している。一方で、当時の新聞での扱いの悪さも相俟って、華やかなる当時の様子は十全に調査できなかったうえ、オープン中の写真も得られなかった(調査の過程でfacebookに掲載されている写真は発見したのだが、趣味の調査なので声はおかけしていない。検索すれば出てくるので直接ご覧いただきたい。)。そして、閉園にかかる情報も多くは得られず、航空写真からすこしずつ自然に戻っていく跡地の様子を確認できたに過ぎない。
 当時日本一として建設され、帰還移民の支援という目的をもって建てられた巨大温室と植物園。当時は神戸市近辺の小学生も学校行事で訪れたというこの施設は、今やほとんどの人に忘れられながらもひっそりと余生を過ごしている。廃墟の魅力は、時間と自然に流されるままとなったその姿もさることながら、当時そこにいた人々の姿や思いを、廃墟となった建物を介して感じ取ることにあると思う。ぜひ、これを読んでくださった皆さんも、この醍醐味を味わってみて頂きたい。
 自由研究などにも手軽で骨太な内容となるので、オススメです(当時の新聞調査のピンク広告にだけは注意で)。

 ではまた、次回の調査でお会いしましょう。本noteはこの記事(神戸南洋植物パーク探索編・事後調査編)をもって開始しましたが、今後は幅広い趣味の内容を扱っていきたいと思いますので、ご興味ご感心をいただけましたら、今後ともご覧いただけますと幸いです。

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