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謎の婚約者

私には今現在、婚約者がいる。

しかし難ありというか、とても微妙な相手なのである。


彼とは知り合ってかれこれ15年になる。離婚してすぐ仕事上で知り合った。彼は自分は弁護士だと言った。

私は離婚したばかりだったので、ふたりの子ども達のために働くのに必死だった。彼とは仕事の合間に、年に1〜2度お茶する仲になった。

頻繁に話すようになったのは、2019年夏頃私の父が亡くなり姉と相続争いになったときから、彼に弁護士を紹介してもらったからだった。

彼は現在もそうだが、ある企業に所属しており、企業外での弁護士業務をすることが出来ない立場にあり、彼の母校の後輩の後輩というひとを紹介してもらったのだ。その弁護士はきっちり仕事をしてくれて満足出来る結果に着地させてくれた。

それからもうひとつ。2020年私は知人から性的な被害を受け刑事告訴したのだが、そのとき彼は友人として全面的に私のサポートをしてくれた。警察から受理するので書いて提出して欲しいと言われた告訴状を書いてくれのだ。併せて『陳述書』というものまで書いてくれた。

この『陳述書』は、刑事さんも、それに検事さんもびっくりするほどに凄いものであった。(その内容については割愛する)

そんな事が重なり、話す頻度が増す中、私の末子である息子がひとり暮らしを始めたいと言ってきたことがきっかけで、2021年終わり頃彼から「結婚を考えてほしい」と言われたのだった。

誠実で心から尊敬していた彼だったので私には彼の申し出を断る理由がなかった。そこで一昨年の2022年8月に入籍することをふたりで決めた。8月に入って具体的な日時も決めて、入籍日前日私達はLINE交換しながら浮かれていた。


ところが入籍日当日の朝、彼から電話で母親が緊急入院したと言ってきた。病院から電話していると。私の子ども達にも同日会ってくれることになっていたので、申し訳ないと言っていた。

私は母親が心配で入籍どころではないと思い、彼のためにすぐに電話を切った。

そしてその日から連絡がLINEだけになった。ほぼ、母親の容態を知らせるのみのものに。クリスマスも年末年始も過ぎ、そんな事態が半年続いた。私はその間、彼が仕事と看病で体調を崩さないようサプリメントや冬にはバスソルトなどを彼と彼の妹に送っていた。

正直なところ電話くらいしてきてくれてもいいのでは?と思ってはいたが、母親が心配な状態だったのでそれも言えなかった。


そんなある日ふと、かかりつけのドクターにこの事を話してしまった。そうしたら意外なことを言われた。

「それは高月さん、あなた純粋すぎますよ。半年も放ったらかしって、入籍の話でしょ?私もそんなにマメなほうではないですが、一度約束した入籍をそんなに延ばすなんて、そんなに蔑ろにされて酷い話ですよ。絶対に有り得ない。騙されてますよ」

騙されてる?あの彼に?そんなはずはない。

そう思い、帰宅して今度は行きつけの喫茶店のマスターに相談した。

「怪しいな半年もて。入籍やろ?母親がどうのとか関係ないやん。俺やったらすぐに次の入籍日決めるで。だいたい母親の入院が入籍のその日て怪しすぎるし嘘やと思うで」

嘘?何故あの彼が私にそんな嘘を?

私は誰を、何を信じていいかわからなくなった。

その夜、何気にFacebookから彼が所属しているアマチュアオーケストラのページを覗いた。彼からは母親が入院してすぐに、しばらくオケの練習は休むことにしたと聞いていた。

彼の言葉の全てを鵜呑みにしていた私は、そのページを見て全身凍りつくような感覚に陥った。

1ヶ月前に行われていた定期演奏会に彼は出ていたのだ。それだけではない。遡って写真を見ていくと、なんと「オケを休むことにした」とLINEを送ってきた翌日の練習からずっと練習に参加していたことがわかったのだ。

オケの練習は毎週土曜日の夕方から行われ、練習会場へは彼の自宅から車で1時間掛かる。練習は3時間、合計5時間を費やすことになる。看病の気分転換には良いとは思うが、母親の容態から考えてそんなに積極的に長時間気分転換を計るのはアンバランスに思えた。

しかも入院したほんの数日後から気分転換などと考えるだろうか。そもそもなぜ私に嘘をついているのか。

「オケを休むことにした」とLINEしてきた翌日の夜、「病院の帰りだ」とLINEに書いていた。それはオケの帰りの時間と重なった。毎週土曜夜、彼は同様に私に嘘の報告をしていたことになる。他にも何か隠していると思えてならなかった。

しばらくして彼から母親の容態を知らせるいつものLINEが着た。私は咄嗟に電話を鳴らした。が、しかし彼は電話に出なかった。

「間違えて電話を鳴らしてしまったみたい。ごめんね。でも可能なら出て欲しかったです。もう半年くらい声を聞いていないので」

私もこれくらいの嘘を言ってもいいだろうと思えた。

「じゃあ今度の土曜日に」

彼はそう返事をくれて週末電話で話せることになった。


そうして半年ぶりに彼からの電話を受けた。

母親が入籍日当日の朝昏睡状態になったと言ってきた彼、その後半年間母親の容態を知らせるだけの連絡のみしてきていた彼、どれだけ疲れた声をしているだろう、どんなに憔悴しているのだろうと考えていたが、私の心配をよそに彼は電話に出るなりはしゃいでいた。

「あ、塔子さん塔子さん、やっとお声が聴けて嬉しい!電話できるこの時間が僕は大好きなんだ!」

そしてあんなに詳細に母親の具合の悪さを、見舞う焦りや儚そうな希望を伝えていたのが別人だったかのように、高いテンションのまま彼は話し続けた。

しかし入籍をドタキャンしたことについてもこれからについても、入籍に関して微塵も触れてこなかった。訊いてもいないのに「母がたいへんなときに自分だけ楽しい思いをすることに罪悪感のようなものがあった」と、電話出来なかった言い訳のように、私にではなく自分に言い聞かせるように何度も口にしていた。

そうして白々しいことを言ったのだった。

「楽器も全然弾いてないし」と。

いや、練習行ってましたよね?演奏会もしっかり出てましたよね?と私は思ったが、口に出して言えなかった。

入籍日の前日と当日のギャップ、それから半年間と今このときのギャップが激し過ぎて、私の頭はおかしくなりそうだったのだ。

結局この日はご機嫌な彼の話を聞いただけで終わり、また次の週末も以前のように電話しようと言われた。

次の電話でも彼は具合の悪い母親のことは忘れたかのようにご機嫌だった。しかし前回とは違い、私にはハッキリさせたい気持ちがあった。だから意を決して訊いたのだった。

「オケの練習、ずっと行かれてましたよね」

すると彼は、急にしどろもどろになった。それまで饒舌だったのにだ。

「え、、、いや、、、そんな、そんなことないけど」

「なぜ嘘をつくんですか」

「行ってないから」

「行ってたじゃないですか。演奏会にも出てらしたじゃないですか。なぜ嘘をつくんですか」

「…ごめん。ごめんなさい」

それだけを認めて謝ってくれても、もう彼のことは信じられなかった。でもこれを示してくれたならまだ信じたいと思っていたことがあった。

それは、彼は入籍日前日に、婚姻届の証人になってくれると言っていた人物からサインを貰ったと言っていたのだ。それを見せてほしいと私は言った。

けれども彼の応えは、「今はない」だった。

「どうせそれも嘘なんでしょ?」と私は詰め寄った。

「それは違う!証人になってもらったのは本当だよ!」

「時間の無駄なんで」

そう言って電話を切った。

終わったと思った。これでいいと思った。早く忘れようと思った。

だがしかし、数日絶っても私は彼との事を自分の中で終わらせることが出来なかった。忘れるなんて無理だった。

真実はどうだったのかを知りたくなったのだ。

「会って話を聞かせてほしい」彼にそうLINEを送った。

けれども彼は、思っていた以上に卑怯者だった。

「嘘はオケに行っていたことだけでした。でももう何を言っても信じて貰えない。全部僕が悪いです。
この先母が目覚めようともこのままなくなっても、僕はもうひとりでいます」

絶対に許せないと思った。逃すものかと。そして厳しめの文言で私は迫った。

「私をあまり甘く見ないで。あなたがしたことは私の子ども達をも傷付ける許せない行為です。顔を見て弁解出来ないと言うのであれば、こちらにもそれなりの考えがあります」

これに対して彼は踵を返すような返信をよこしてきた。

「明日時間をつくります。どこへでも行きます。時間と場所を指定してください」


翌日駅で待ち合わせをして彼と会った。彼は半年前と変わらない体型で、半年前と変わらない顔をしていた。

私を見て彼はすぐに頭を下げて何か言ったが私はそれを遮るように「これからあなたの戸籍謄本を取りに行きます」と告げた。

実は数日間のあいだに私は弁護士事務所といくつかの探偵事務所に相談したのだが、どこも口を揃えて最初に疑ったのが「その人は本当に独身なのか」だったのだ。そして彼が逃げるようであれば正式にどこかに依頼しようと私は考えていたのだ。

だが彼は来た。そして戸籍謄本を取りに行くことにすんなり同意した。どこへ行けばいいのか彼に訊くと彼は自分が住んでいる管轄の区役所を言い、何駅かを言った。切符を買って電車に乗った。

しばらくして彼は「間違えた」と言った。現住所ではなく、生まれた住所の区役所へ行かねばならないと言ってきたのである。

私はおかしいと思った。入籍時には婚姻届の他に戸籍謄本も提出しなくてはならなかったからだ。彼は入籍日当日の朝いちばんに戸籍謄本を取得しに行くと言っていた。が、そう私に言っただけで、実際には心積りなどしていなかったと思えたのだ。でなければここで間違えるはずがない。

確かめたいことは他にもあったのでとにかく訂正された駅へ向かうことにした。

戸籍謄本を取得し見せてもらった。それで間違いなく彼は婚歴もなく独身であることは判明した。

近くにあったファミレスに入った。今度は電話してほしいと私は言った。母親が入院しているという病院にだった。スピーカー状態で「保険屋さんに言われて書類を作成しているところで、母が入院したのは何月何日だったか確かめたいので教えてほしい」そう言ってほしいと。けれども。

「ちょっと待ってほしい。今日は全て話すつもりできたから聴いてほしい」

彼はそう言ってきた。私は聴くことにした。

彼は話し出した。まず、どうしても話せなかったことがあったと。それは、彼の母親は2017年体調が悪くなり原因不明で半年ほど入院していたのだが(このことは彼から当時聴いていて知っていた)、退院してからは長かった入院のため車椅子生活になったのだそうだった。

そのことをどうしても私に言えなかったと彼は涙を流しながら話した。それを私に言えば、私は彼から離れて行ってしまうと思ったのだそうだった。

だから入籍日の朝になって、このまま入籍する訳にはいかないと思い嘘を言ったのだそう。本当は7月の中頃から母親は入院しており、そのときの状況を思い出してずっと伝えてきたと。

証人欄に記入された婚姻届が今は手元にないのは、年が明けて、書いてくれた上司から「結婚はどうなったのか」と聞かれ、「まだ出来ていません」と答えると「母親のことを言ってないからだろう?そんな結婚は無理に決まっている。また出来るときが来たら書いてやるから今すぐそんな婚姻届は破って捨てろ」と言われて目の前で破ったと、これまた涙を流しながら話したのだった。

話を聴きながら私も泣いていた。なぜだかわからないが、涙を流しながら涙声で話す彼が「愛おしい」と思えたのだ。こんなに彼のことを愛おしく思ったのは初めてだったと思う。

私も彼の手を握って泣いた。

そして夕方には分かれてそれぞれ帰宅の途についた。


それからまた数日間が過ぎた。彼は何も連絡してこなかった。私もしなかった。私はどうしていいかわからなかった。

とそこに、娘(既婚で午前中はパート)がやってきて彼とはどうなったのか訊いてきた。話すと、「まだ好きなんやろ?」と痛いところを突かれた。

「早く連絡したほうがいいで」と娘に言われた。

娘に促され、勇気づけられてその夜彼に連絡した。

「また会いたい。これからの話をしましょう」と。



それから間もなく私達は会った。2023年3月に入っていた。彼はとても喜んでいた。本当の話をしたところで赦してはもらえないと思っていたと言って。

私は、これまでのことはもう変えられないので言ってもしょうがないから、今後の事を考えましょうと言った。

彼の母親には以前から長い入院生活によりまだ体調が万全ではないので、私に会うのは入籍してからでいいと言われていると彼から聞かされていた。

彼は未婚の妹さんとも同居していた。私は会わせてもらえないかと言った。けれども彼は「妹はちょっと変わっているので、話してみるけどたぶん嫌がると思う」と言った。「嫌とかそんなんじゃなく、通過儀礼みたいなものでしょ?」と私は返したが、「通過儀礼とかいうと余計にもういいってなると思う」と彼。

ふたりの間では通過儀礼だが、妹さんにそう言ってくれとは言っていない。埒が明かないと思った。

そこで、「こんな事は私から言いたくないのですが、婚約指輪をもらえませんか」と切り出した。

彼は「そうだった、婚約指輪、一度もそのことで話したことなかったね。それはすぐにする」と言ってくれた。

私の右手の薬指は5号であることを伝えた。私の誕生日は4月だった。そこに間に合わせると彼は言ってくれた。

そして4月、私の誕生日が来た。


その日は平日だったが、彼はいちにち休みをとってくれた。そしてランチと夕食を共にすることになった。

話をしながらランチを楽しんだ。その後場所を変えてお茶したのだが、彼はしきりに私の右手薬指を気にしていた。

「やっぱり指も細いよね」と彼は不安気な顔をした。

そしてディナータイムになった。少しお酒を飲んでやっと婚約指輪を見せてくれた。

けれどもその指輪は所謂立て爪の『婚約指輪』ではなかった。ダイヤの入った『結婚指輪』ではないのかと思えた。だがそんなクレームのようなことは言えなかった。喜んで受け取ろうと思った。

彼はごめんと謝った。店員さんにサイズを伝えたら細過ぎておかしいと言われ、標準は8号だとも言われたことから大きめのサイズで購入したとのことだった。

サプライズで選ぶ際には大きめサイズでいいと思うが、私ははっきりと自分のサイズを申告していた。なぜそこに店員の言葉を聞き入れなくてはいけなかったのか疑問に感じたが、彼にしたら初めてのことだったので仕方ないなと思い、笑って受け止めた。

更に彼は指輪について語った。

「リングはプラチナでこれだけのダイヤモンドが入っていて、これらのダイヤモンドはいい石にしてもらっているから、今度サイズ交換してもらうときにはこれらの石を取り出して、新しいリングに付け直してもらうからね」と。

私はまた首を傾げたくなった。婚約指輪などの石が大きなダイヤモンドを、グレードの高いものに変えられるというのは知っている。けれども目の前にある指輪のダイヤモンドは0.1カラットもなさそうな俗に言う『メレダイヤ(屑ダイヤ)』であった。

しかしやはりそんなことを彼に言えなかった。

「そうなんだね、どうもありがとう」と笑顔で受け応えた。

彼は指輪を仕舞う前に、「写真撮っとく?」と私に訊いてきた。私はそう言われてiPhoneで写真を撮った。そして夕飯を済ませて帰ったのだが。


帰宅して撮った写真を見た。いろいろと納得がいかなかった。

思いついて指輪のブランドの公式サイトから結婚指輪を選択した。やはりあった。同じデザインのものが。

こんな事をしていいのかどうかわからなかったが、私は確かめようと思った。翌日カスタマーセンターに電話して、この型番のものは石をグレードの高いものに変えられるのかと尋ねた。

カスタマーセンターの方は「こちらの商品はそのようなサービスは承る事が出来ません」と言われた。

彼がまた私に嘘をついたことに私はひどく落ち込んだ。彼には虚言癖があると思わざるを得なかった。

あのとき泣いて話す彼を「愛おしい」と感じた自分が憐れに思えた。ただの猿芝居だったかもしれないのに。猿芝居、きっとそうだと思えた。他人の婚姻届を「今すぐ破って捨てろ」なんて言う上司の話も今となっては疑わしい。

思えば入籍日の朝の電話も『嘘』というよりは芝居がかっていた。彼はいつになくとても慌てていて切迫した緊張感を感じさせた。そういう意味ではどちらの芝居も見事だったと言わざるを得ない。

母親の入院も本当かどうか確かめられてはいないし、本当に車椅子状態なのかも信じられない。あのとき本当は7月中頃入院したと言っていたが、7月の終わり頃私達は普通に会って食事をしたのだ。そんなに逼迫した母親の容態であったならなぜそのときに私に知らせなかったのか。なぜ食事になど行けたのか。8月以降は7月の状況を思い出してLINEしていたと言っていたが、なぜ7月は会えて8月からはLINEのみになったのか。全く整合性も一貫性もないと感じた。

再び彼を信じられなくなり私は仕事中の彼にLINEしてしまった。「もう婚約指輪は要りません」と。

彼はすぐに返信してきた。「あの指輪は、僕が一生懸命に選んだ指輪なんです。だからどうか受け取ってほしい」と。

カスタマーセンターに問い合わせたことも伝えたが、そこには触れてこなかった。そこには一切触れずに「一生懸命に選んだ」と言う彼を、私はまた卑怯だと感じながらも、そう言われたら受け取らないと私が悪者になりそうな気がして、要らないと告げたことを謝り、指輪を受け取ることにした。

そして昨年6月中頃、婚約指輪なるものを私は拝受したのだった。このときにしっかりとした話もして、年内12月には入籍を、翌年3月中には引越しをすることに決めた。


けれども彼の嘘はこの日からもまだまだ続くのであった。

それも理由がわからない、どうでもいいと思えるようなことでも彼は嘘をついた。嘘をつくことに戸惑いや躊躇がない、特殊な人種であると思わざるを得ない。

結婚しようと思っている相手、即ちこの私に、よくもそんなに次から次へと嘘八百並べられるなと、呆れるばかりなのである。

種明かしをもうひとつしよう。弁護士事務所に相談に行ったのは、入籍をドタキャンしその後半年間も連絡らしい連絡がないことが『婚約破棄』にならないかどうかを聞きたかったからだった。

弁護士の先生からは、「結納も無く結婚式の予約なども無く、家族の誰にも又友人にも紹介されておらず、婚約指輪の授受もないことから、婚約状態にあったとは云えない状況だ」と言われたのだった。

そこで私は、妹さんに会わせてほしいと彼に言い、それも駄目なら婚約指輪しかないと考えたのだ。


話を昨年6月に戻そう。

指輪を受取り、私は彼にそれほどの意味もなく、指輪をいつ取りに行ってくれたのか訊いた。指輪の仕上りは3日だと聞いていた。

彼は「4日に行った」と答えた。けれどもその日は彼は体調を崩していたと記憶していたので「具合が悪いのに取りに行ってくれたの?」と訊いた。

彼は「具合が悪くても早く受取りたかったから」と言った。その日帰る前に渡されたギャランティカードの日付は、6月7日だった。


10月、私は彼のもうひとつのオーケストラの演奏会に誘ってもらった。比較的カジュアルなオケで、5年程前にも聴きに行った事があった。そこで彼はそのオケで指揮をしている人物に、自分の婚約者として私を紹介してくれた。大きな進歩と思えた。

だがここで彼はまたつまらない嘘をついた。訊いてもいないのに「このオケでの演奏会は塔子さんに来て頂いて以来なんだ」と。とても久しぶりだと何度も口にしていた。私はあまり気に留めず「そうなんだね」と返事をしていた。

帰宅してその日のパンフレットを眺めていたら、このオケはどういったオーケストラなのだろうと少し興味が湧いた。オケの名前で検索すると立派なホームページが出てきた。

そこには『過去の動画』の欄があり、何気なくクリックしてみた。するとYouTubeに飛んで演奏会の沢山の動画が出てきた。また何気なく一番上の動画をクリックしてみた。すると前回の演奏会のものだったのだが、なんと彼が演奏者として映っていたのである。

今度は気になってその前の演奏会の動画も見てみた。やはり彼は演奏していた。結局ホームページに載せてある半年に1度開催される演奏会、9年分の全てに、休まず彼は出ていたのだ。


12月になった。入籍することになっていた12月。彼は兼ねてから紹介してくれたオケの指揮者に婚姻届の証人になってもらうと言っていた(昨年証人になってくれた上司に頼むべきなのではないかと訊いたのだが、少し前に定年退職したからと彼は言った。やはり嘘だったのだなと思った)。会ったときに彼は「この前の日曜日、オケの練習場を訪ねて婚姻届を渡しておいたから近々受取るつもりだ」と言った。

オケのホームページには律儀に練習日と練習場所も記載されており、また何気なく見てみたのだがその日は練習日ではなかった。

さすがにこの嘘は笑えなかった。どれも笑えないが。

その後もその指揮者がゴルフで足腰を痛めて練習に来れなかっただの、自分が仕事で練習に行けなかっただのと嘘をつき、その人から婚姻届の証人欄に書いて頂けたのは結局翌年(今年)4月になってからだった。

いずれの嘘もオケのホームページから判明していた。ご丁寧に練習後、都度都度練習中の写真をアップしてくれていたからだ。

3月には一緒に住もうと言っていたのだが、これも上手く先延ばしされた。

3月になってからだった。「3月中に引越ししようと言っていたのだけれど、ごめん。もしかしたら7月から東京に赴任することになるかもしれなくて。でも母のこともあるので全力で断ってはいるので多分行かなくて済むとは思うのだけど、はっきり決まるまで待ってくれないかな」と言ってきたのだった。

彼はそれまでに物件の相談など引越しについてただの一度も言ってはこなかった。なので私はそんなに驚いたりはしなかった。どうせまだまだ先延ばしにしたいのだろうと思っただけだった。

ところで私の方に少し厄介なことが起こっていた。股関節の軟骨を傷めたようで、近所の整形外科に通わなくてはならなくなった。故障は大した事ではないのだが、その整形外科には息子のママ友が勤めていたのだ。

離婚する際、息子は「離婚した事は誰にも言わんといて」と言った。息子は未だに同級生に親が離婚した事は言っていないらしい。

それなのに、ここで私の姓が変わってしまったら整形外科に勤めるママ友に知れる事になる。折角ここまで守ってきた息子との約束が果たせなくなってしまう。それを危惧して、私は彼に「入籍は引越しと同じタイミングにしてもらえないか」と言った。

彼は信じられないことを口にした。「塔子さんが不安がるから早く入籍したほうがいいのかなと思っていただけで、僕はそのタイミングでいいと思います」と宣うたのだ。

私が不安がるからだと?元々は一昨年入籍するはずだったのに。自分があれからどういう行動をとってきたのかまるでわかっていないのだなと恐ろしくもなった。

その後5月になり、やっと東京赴任しなくて済む事がはっきりしたと言ってきた。それから1ヶ月以上が過ぎたがまだ具体的に物件探しをしている気配はない。探していると言ってはいるが、またそれも嘘だろう。


という訳で、入籍がいつになるのか全く予想出来ない。けれども正直私はもうそんなに入籍に拘ってはいない。

息子がひとり暮らしを始めてから私もひとり暮らしになったのだが、今の生活は自由で楽しい。

私が住んでいるマンションは閑静な住宅地にあり、自然にも恵まれているとても良い環境だ。温水プールやテニスコートも徒歩圏内にあり、私は週3回プールに通っている。

DVだった元夫と離婚し、子ども達も巣立ち、私の人生の中で今が一番幸せだと言っても過言ではない。

なのに何を好き好んで作話好きな彼と一緒になる必要があるだろうと最近は考えているのである。

彼自身はというと、この半年間毎月のように体調を崩している。免疫力が落ちているように私は感じている。私と結婚することに対して、彼の身体が拒否反応を示しているのではないかと思えてならないのだが、私の考え過ぎだろうか。

こんなに嘘をついて先延ばしにする結婚を、なぜ彼は私に申し込んだのだろうか。本当に謎だ。

私はそれでも、余程の事がない限り自分からこの結婚話を断る気はない。


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