悟りについての疑念

おっはー今日は悟りについて書くよー(=゚ω゚)ノ

仏教の悟りについての動画が時たま伸びる度にあの思想を広めていいものか?という疑念が私のなかで絶えない。なんで簡単に自分が思っている悟りの疑念を書いていく。ちなみに以下は悟った後の人が読むことを想定しているので、悟りの解説は一切しない。

さて悟ると全ての概念は虚妄であり、全ては縁起によってなり、縁起の連なりの部分、部分を概念で表しているだけであるということになる。ソシュールに似てるね!(*´▽`*)
正直ここまでであれば、まあ広めてもいいかな?ぐらいの認識なんだが、釈迦はこの論理構造に色つけをした。というか本人は本気でそう思っていたことをそのまま言っていただけだと思うが_(:3 」∠)_

さて釈迦的には感覚の快・不快は予め決められており、欲望が原動力になり、快ばかり追うように仕組まれているぞおめーら!やべえぞ!だから悟ってそこから抜け出して、個人という概念を消そうぜ!みたいなことを、グダグダ語ったわけである。

悟りを体験したことがある人はわかるが実際に個人という概念を感覚的に消すことは可能である。これが一応悟りに入るということであるし、入ったことのある人は聖者ということになっているんだが、果たしてホンマにそうなんかいな?というのが私の考えていることである。

悟ると個人という概念が消えることが体感でわかる。しかし、何故これが起こるのか?というところを考えている人は少ない。私の予想では、おそらく自と他が区別されていない場所が脳のなかにあり、この脳の場所を発火させることにより可能になるのではないか?と考えている。これを発火させることに合理化したものが、様々な瞑想方法であるし、座禅である。なんでそんな場所があるのかはわからない。岸田秀が生まれる前は自と他がわかれていないから、そのときの記憶がどっかにある的なことを何かで書いていたが、所詮岸田の考えていることであり、何故あるのかわからない。まあしかしあることにはあるし、この部分の発火に向けての論理体系及び瞑想方法を含めた実践が釈迦論だという認識である。あんまり発火させることに執着すんのもよくないんじゃない?ってなれば中論(発火させることに躍起になるのも執着なので距離をとろうぜ論)になると考えている。なので、別になんかそういう場所があるんだなぐらいで止めることも実は可能である。

個人的に釈迦体系の1番マズイと思うところは欲望→執着→苦が全て因果関係で連なっており、それ故全ての欲望を捨てることが苦しみを滅するのに良いという発想である。これは簡単に書くと欲望を絶対に成就しない(何故なら全ての欲望の先にあるのは縁起であることからゴールがない。)という理屈と欲望に際限がないという理屈からでてくる。そのため、釈迦論的には欲望を全て捨て去ること以外に苦しみから逃れる方法はないということになる。

これにガチガチにコミットすると欲望を出さないことが苦しみから逃れる最強の方法となり座り続けるしかなくなる。そのため、仏教徒でよく座禅している人がいるが、理屈がどこまで分かっているかはおいておいて、座っていることこそが苦しみから逃れる最強の方法なのである。まあ、欲望のあまり苦しみが生まれている人には有効なのかもしれない。そして、座ることも1つの執着と捉えだすと時たま動く人が生まれ、そこら辺をウロウロする。

しかし、人間生きていくには欲望は必ずつきまとう。ウェーバーは悟りを理解した上で「いやそんなこと言ってもお前ら飯食わないといけねえじゃん」みたいなことをどっかで書いていた。その通りである(笑)
この欲望をださずに飯食うシステムとして「喜捨」があるんじゃね?ということも言っていたが、実際にそうなんじゃないかな?と個人的にもそう思う。喜捨というあちらからの贈与によりお金や飯をうけることで、あたかも自分は欲望をださないような体裁をとりながら、生きて座り続けることが可能となるわけである。
まあその飯は色々な人の労働によって実は支えられている。釈迦論的にはそこら辺について何も考えていないと言っていい。なんか飯は湧き出てくるものとしている。

勘だが、釈迦は自と他を区別しない論理の発見とその発火のさせ方を両方偶然にみつけ、真理と感じとったのではないか。それでこの思想を伝えなければ!と思い広めたのだろうという認識である。まあ広まったおかげで救われる人も多くいたのだろう。しかし、理屈での苦しみの滅し方に注視しており、肉体的なものは軽視されていると個人的には思う。
まあ、そんなこんなで釈迦論といえども結構怪しいというのが私の見解である。まあ論理構造は好きだけね。



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