寂しさの見方
4月になった。
いつもこの時期になると思い出すことがある。
かれこれ15年前になる。
私の息子は年子で二人。
長男が進学で家を出た翌年には
やはり進学で出て行く二男を見送った。
灯りのともらない家に帰るのは辛いかな?
と、想像したりしていたが、
仕事でクタクタになって帰ることもあり、
毎日、まったく淡々としていた。
彼らの夕食のことを考えなくていい分、
むしろ、どこか気楽さもあった。
あっさりと子離れが出来た自分が
誇らしいような
でも、薄情なような気もしていた。
一週間ほど経った頃だっただろうか、
月末の棚卸を終え、遅くに帰宅。
ーさっさとお風呂に入って早く横になろう
着替えを済ませて風呂場へ向かう。
浴槽のコックをひねり
勢いよく流れ出すお湯に手をかざし
適温になるのを待つ。
立ち上る湯気をかぶりながら
自分が泣いていることに気づいた。
ぽろぽろとこぼれて出る涙に
うろたえる。
ーん?んん?
ー何で泣いてるんだ?
私、どうした?
自分が泣いている理由がわからない。
気を取り直してシャワーを浴びる。
シャンプーの膨らんだ泡にくるまれながら
ようやく気づく。
ーああそうか、私は寂しいんだ
息子たちがいた頃は
日々の家事分担をしていた。
長男が食器の洗い物、二男はゴミ捨て
そして
お風呂はそれぞれ彼らが交代で
私の帰宅に合わせて準備してくれていた。
月末の棚卸は毎月恒例なので
「今日は棚卸だから
お風呂の準備は九時頃でいいよね?」
いつも時間をきいてくれた。
さりげない毎日。
私は、当たり前に過ごしていた。
息子たちを守る、
息子たちとの暮らしを守る、
その一心で働いてきたけれど
クタクタになって帰っても
お風呂の準備が出来ていたり
決まった曜日にゴミ袋が出されていたり
優しい日々の中にいることに
無頓着だった。
いつも当たり前に
そこにいてくれることが
私を支え、守ってくれていたことに。
息子たちが私にくれていた
何気ない日常のシーンに
今は自分ひとり。
そのことに気づいて
寂しさが一気に流れ出したのだ。
でも、それは寂しいというだけではない
ちょっと違う感覚も混じっていた。
寂しいのに嬉しい、
寂しいけどありがたい、
初めて出会うような、
よくわからない、初めての感覚。
だから、泣く理由がわからなかったのかも。
ー感情より先に涙が出ることって
あるんだな~
湯船でそんな思いにふけりながら
「ありがとう」と思ったらまた泣けた。
おいおい泣けた。
その20分後、
入浴を済ませてドライヤーをかけながら
今度はふいに笑えて来た。
大泣きした自分がちょっと恥ずかしくて
鏡の自分にニヤニヤした。
長いこと生きて来ていい年をして
まだ知らない感情に戸惑った自分が
何だかとてもおかしかった。
この同じ時間、
私から遠く離れてはいるけど
それぞれの場所で、彼らは
健康で、無事で、在てくれている。
一人で歩き始めている。
そして私も。
ーこれって、最高にありがてぇ!
って、ことじゃないの?
「寂しい」とは
他に何も案ずることがないから
目一杯味わえる感情だったのだ。
こんな思いにたどり着けたのは
幸せでなくて何だろう。
「寂しい」
この感情に浸れる自分、
これは母として最高の感情かもしれない、
そう思えた。
「寂しい」という感情が
こんなに豊かなものだったとは。
忙しさにかまけて、ただ流されて
過ぎ去ったと思っていた時間は
ただただ、流れて行ったわけじゃ
なかったんだな。
どれにしようか迷うくらいの洋服が
ドレッサーの中いっぱいに
色とりどり並んでいるみたいに
たくさんの色んな感情が
私をこんなに豊かにしていた。
「寂しい」に「感謝」を
コーディネートできるなんて
過去の私はこんな未来の自分を
想像したこともなかった。
息子たちが旅立って
私は一人用の土鍋を買った。
私の大好きな春菊を「苦い」と言って
嫌っていた息子たちがいない今、
心置きなくたっぷり入れた鍋を
ビール片手にひとり
「寂し~」と、
わざと声に出してみたりして
グラスをあおる。
ヤバい...
旨し、黄金の喉越し。
春菊一束は多いかなと思ったけど、
気付けば完食。
あらやだ、おほほ。
行く春を
「寂しい」と満喫している私だった。
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