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自分の部屋のある二階から降りて
台所へ行くと
いつの間にか帰っていた祖母が
火にかけた鍋の前に立っていた。

流しには包丁やまな板、ざるなどが
玉ねぎやじゃが芋の皮の上に
無造作に置かれている。

鍋の中へ目をやると
皮のむかれたそれらのものが
グツグツと沸騰している。

「お味噌、一緒に入れちゃったの?」

沸騰した鍋からは
味噌の煮立つ匂いがする。

小学校に上がってからは
お米を研いだりするようになり、
包丁はまだうまく使えないが
味噌汁の手順は覚えた。

「小さく切ったから火はじきに通るんだよ」

祖母は不貞腐れた声で言う。

自分が家事をやらなければいけないときは
こうして決まって機嫌が悪い。


祖母は家事を全くしない。

祖母がこの家に嫁いで来た頃は
姑の曾祖母が家事の一切をやっていたと
娘である伯母が言っていた。

伯母は兄弟一番上で
世話好きな性分もあり、
曾祖母が床に臥せるようになって以降は
嫁いで家を出るまで家事を仕切ったという。

伯母が嫁いだ後しばらくは
祖母はそれなりにやったらしいが、

器用で几帳面な祖父が
魚をさばいたり、掃除をしたり、
あれこれ手を出していたようだ。

跡取りの父に母が嫁いで来たことで
祖母はまた家事を一切やらなくなった。


母が二人の弟たちを連れて
実家に帰っている間、祖母は
自分が食事の準備や洗濯を
しなければいけないのが気に入らない。

祖父に口応えすることはないが
私には母への不満をくどくどと言い続ける。

私が少しでも言い返そうものなら
「あんたは母さんそっくりだ」と
今度は私への嫌味に変わる。

母も私を叱るのに
父や祖母にそっくりだと言う。

似ているということが
祖母も母も私を叱る理由だった。



台所には6人掛けのテーブルに
子供用の椅子がひとつ。

祖父と祖母が並んで座り
祖父側の向いに私が座る。

3人分の食事に使う食器が並ぶ。

このだだっ広いテーブルに
全員揃って座ることは無いのだから
半分くらいのサイズでいいのにと
私はいつも思う。


すっかり味噌の香りも飛んだ味噌汁を
テーブルに置くと

「あんた、尾上さんとこに
こないだ遊びに行ったんだってね」

祖母は私に箸の先を向ける。

「…おととい行った。」

私は短く答えた。



同級生で同じクラスの尾上久美子が
前から欲しかったキャラクターの鞄を
やっとのことで
買ってもらったとはしゃいでいた。

「今日、帰りに見に来ない?」といわれ
下校途中にある彼女の家へついて行った。

「ちょっと待っててね」
彼女は帽子を脱ぎ捨て、ランドセルを下ろすと
居間に私を待たせて奥へ取りに行った。

(ランドセルをしまわなくていいのかな)

そんなことを考えていると

入れ替わりで彼女の祖母が
奥の部屋から出て来た。

いつ見ても着物をきちんと着ていて
結わえた髪に乱れもない人だ。

「こんにちは」と挨拶すると

「久美ちゃんの鞄を見に来たの?」
挨拶には答えず、彼女は私に尋ねた。

私がおずおずうなずくと
「ふーん」と鼻を鳴らした。

久美子は部屋からすぐに戻って来て
「これだよー!」と
赤いツヤツヤの鞄を見せた。

財布とハンカチを詰められるくらいの
華奢で小さなショルダーバッグだった。

流行りのキャラクターが
表側に大きくプリントされている。

「かわいいね」
「でしょう?すごくほしかったの!」

「久美ちゃん、お腹空いてないの?」
二人の会話を遮って久美子の祖母が言う。

さっきとは打って変わった
優しい声色。

「空いたー!おやつ食べたい!」
久美子は無邪気に答えた。

ほどなくして彼女の祖母は
子供の手ほどもあるドーナッツを
一つ乗せた皿を久美子の前に置いた。

ドーナッツはまだ珍しく、
私はテレビでしか見たことのないそれを
興味深く見つめた。

久美子はそれを両手で掴んでほおばる。

「おばあちゃん、牛乳もー!」

「はいはい、こぼさないでね」
今度は牛乳の入ったコップを一つ置き
久美子の傍らに腰を下ろそうとする。

「お婆ちゃんはもうあっち行ってて!」

久美子の祖母は
肩をすくめ、小さく溜息をついて
久美子の帽子とランドセルを拾い上げると
奥の部屋へ入って行った。

「…あんなこと言っていいの?」

私が小さな声で言うと

「何が?」
久美子は口の端を手で拭いながら
丸い目を私に向けた。

「お婆ちゃん、怒らない?」

「どうして怒るの?」

久美子の言葉に戸惑って
返事に詰まった私は
久美子の新品の鞄へ目を落としながら
ドーナッツの甘い香りを吸い込んだ。


「あたしがどれだけ
恥ずかしい思いをしたか、わかるかい?」

祖母は苦々しげに言う。

「よその家で物乞いなんかして」

私は祖母の言う意味がわからず
黙っていると、

「久美子ちゃんのおやつを
自分もって、ねだったそうじゃないか」

「…そんなこと、してない」

「人ん家の台所じろじろ覗くなんて」

「覗いてないよ!」

「尾上さんに
お宅のようにちゃんとしたものは
何も用意してませんで~って、
まあ、イヤミたらしい言い方されて」

「・・・」

「よその家で恥ずかしいこと
するんじゃないよ!」

「してない!」

「尾上さんはあんたがしつこくて
どうしようか困ったって…」

「おい」

それまで黙々と食べていた祖父が
祖母の言葉を遮る。

「してないと言うとるんだ、もうええ」

それだけ言うと祖父は
一度置いた箸をまた持ち上げる。

祖母がまだ何か言いたそうな視線を
私に向けているのがわかる。

ーあんたの目つきは母親そっくりだよー

そう言いたいのだ。


私はお椀を顔に近づけ、
視界が歪んで見えて来るのを
息を止めてこらえた。

この不味い味噌汁を
祖父は黙って飲んでいる。

私も味噌汁の味などどうでも良かった。

口の中はしょっぱくて
どうせ味なんてわからない。



広い台所に陶器と箸が擦れる音だけが響く。


柱時計がゆっくり一回鳴り、
時を告げた。

















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