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国道沿いの脇にある細い坂道を
10mほど上がると
ふいに抜けていく風は潮の匂いが濃くなる。

道は緩やかに右へカーブを描いて続く。
8歳の私の足で5~6分ほど行くと
自宅の築山が見えて来る。

築山といってもそれは祖父の趣味で
手作りの庭にある2メートル四方ほどの
やはり手作りの小さいものである。

庭は道と住居の境界になっていて、
端に植えられた私の背より高い松の後ろに
玄関の重い引き戸がある。
潮のせいで鉄のレールは錆びていて軋む。

両手でその戸を開けると
中は薄暗い土間がまっすぐ奥へ続く。

一番奥の台所に来るとそこで靴を脱ぎ、
かまちを使わず腰より高い床板へよじ登る。

框の前には見慣れた祖父の草履だけが
いつもの場所に置かれていた。

祖父は午前中と夕方の1~2時間、
庭いじりをして、それ以外の時間は部屋で
読書や書き物をして過ごす。

反対に祖母は人づきあいの好きな人だから
日中に彼女の履物があることは少ない。


「ただいま」

返事がなくても挨拶はするものだと
幼い頃から大人に言われている。
だから
朝も返事はないが「行ってきます」を言う。



私は二階の自分の部屋へと階段を上がる。

西向きの窓は瓦屋根の形状により
視界の半分が遮られていて
日中でも部屋は薄暗い。

部屋の扉を開けてすぐ
学習机に置かれた便箋が目に入った。

見慣れた母の字がそこにある。

読むと言うほどの文字数はない。
短いフレーズだった。

玄関の履物でいないとわかっていた。


私はその便箋の四隅を丁寧に合わせ
机に押さえつけて四つ折りにした。

それから机の一番下の引き出しを開け、
奥からクリーム色の缶を取り出す。

缶の蓋の表には繊細な曲線で
淡い色合いの花々が描かれている。

大好きな叔母が
私の6歳の誕生日に買ってくれた。
焼き菓子が綺麗に並んで入っていた。

お菓子より、この容器が気に入って
買ってもらったのだ。

蓋を開けた中には
同じ形に折られた紙切れが幾つも入っている。

どれも今日のように置かれていたものだ。

その中へ
今折ったばかりの便箋も重ねて入れ、
蓋をそっと閉める。

それから被っていた帽子を脱いで
コートラックにかけ、下したランドセルを
椅子の背もたれに引っかけて中を開ける。

今日の学習で使った教科書やノート、筆箱
中のものをすべて机の上に取り出して
本棚や引き出し、
それぞれ所定の位置にひとつずつ戻す。

筆箱の鉛筆4本と赤鉛筆を1本、
丁寧に鉛筆削りにかけ、
芯の尖り具合を確かめてから
また左から長い順番に並べて入れる。

それらいつもの流れが済んで椅子に座る。

これを済ませるまで次のことをしない。
これは母の言いつけだ。

急いで遊びに行きたくても
誰も見ていなくても
挨拶と同じにこの言いつけも守る。


椅子に腰かけたところで
机の上に残した数冊の本の一冊を開く。

小さい弟たちも母が連れて行ったから
邪魔されず、静かにゆっくり本が読める。

私は読書が好きだったので
学校の図書館で毎日
数冊借りて帰るのが日課だった。

小学校に上がって
初めて図書館という場所を知った。

いつでもそこに行けば
どれにしようか困ってしまうほど
たくさんの本が溢れかえっている。

小学校に上がる前は
定期的に自宅へ届く本が楽しみで
何が来るか待ち遠しかった。

でも図書館では好きな本を自分で選んでいい。
5冊までならいくらでも選んでいい。

図書館へ向かうときの気持ちは
お祭りの出店の前を歩いたときに似ている。


8歳になっても私は絵本が大好きで
それを見つけると、もう二年生なんだからと
母はちょっと眉間をしかめるが
それでも私は1~2冊いつも借りていた。

母の目を気にせず絵本が読める。

…明日は絵本をたくさん借りて帰ろう…

ちょっといいことを思いついた気がした。



今日はお気に入りで何度も読んだ絵本を
また借りて帰った。

西洋の古風な家のかまどで焼き上がるパン
聞いたことのない赤い木の実のジャム、

歓声を上げる様子の子供
それに応える大人の優しい顔。

異国のダイニングが描かれた
それらの挿絵がとても好きだった。

何度見ても見飽きることがなかった。
私は心ゆくまで眺めた。

そうしているうちに
外で無線のチャイムが町に鳴り響く。


もう日が暮れる。



母は帰らない…弟たちも。



便箋の一行では
それがいつまでか子供の私にはわからない。

もうこのまま帰って来なかったら
私はどうなるんだろう…
いつもそんな思いがよぎる。

父は私がとっくに眠った後に帰宅し、
朝、目覚めるともういない。

言葉を交わす以前に
姿を見たのが先週のいつだったろうか。


弟たちの騒がしい声がない古い家は
ひっそり静まり返っている。

窓の外、屋根の向こうには
海が見える。

こういう静かな日は波の音が
部屋の中まで忍び込んで来る。



今夜もこの音を聞きながら眠る。
耳馴染んだはずのこの低くうねる音。

私はまだ時々おねしょをしてしまう。
布団に入る前には忘れずに
ちゃんとトイレに行ってから眠ろう。

もし夜中に目が醒めたとき、
海鳴りが聞こえたら
怖くてまた泣いてしまうから…



そんな不安をよぎらせながら
本のページに視線を戻す。

するとすぐ
頭の中の海鳴りはすーっと消えて行って

チェックのテーブルクロスの食卓で
微笑む人たちに囲まれて
私もいつの間にかほころぶ。


私はまたいいことを思いついた。

今夜は布団の中で
このページを開いたまま眠ろう。

私はその考えにとても安心して
また挿絵の家族に戻って行った。






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