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#難民アートプロジェクト 故国喪失者の声を響かせる〈第3回〉未来を奪い去るもの #雑誌KOKKO

西 亮太

故国喪失とは、人間と生まれ育った土地との、自己とその真の故郷とのあいだを、力づくで引き裂く癒しがたい断絶である。この別離に伴う悲しみを乗り越えることなど決してできはしない。
エドワード・W・サイード「冬の精神」

 これまで、アフガニスタン出身でハザーラの男性ムルタザを取り上げてきた。彼は民族主義的な標的殺人の危機から逃れるために、庇護を求めてオーストラリアにやってきが、オーストラリア本土に入る前にクリスマス島の施設に収容され、その後、シドニー近郊のヴィラウッド収容所に送られたのだった。その数年後、彼はコミュニティ拘置という措置を受け、現在はシドニー近郊の都市で生活している。いくつかの施設を転々とさせられてきたが、いまだに彼の望むヴィザは与えられていない。彼の経験、何度も大きな変化を遂げてきたオーストラリアの難民受け入れ政策の変遷を体現するものだ。今回は、ムルタザの置かれている「コミュニティ拘置」という措置に至るオーストラリアの難民受け入れ政策を概観したい。
 日本と同様にオーストラリアでも、必要とされるヴィザあるいは認可された理由が無い状態でやってきた人々は庇護申請や第三国への出国などといった手続きを行うことになるが、その結果が出るまでは強制拘留の対象となり入国者収容所に収容される。これが日本の場合には、各地方の入国管理局の施設であったり各空港にある出国待機場所、あるいは「牛久収容所」と呼ばれる入国管理センターなどであったりする。つまり、とりあえずは日本国内に入国させ、手続きが終わるまで専用の施設に収容し続けるという形になっているわけだ。
 だがオーストラリアの場合この点が大きく異なっている。たとえば中道右派政党オーストラリア自由党のジョン・ハワードが首相在任中の2001年にはじめた「パシフィック・ソリューション」と呼ばれる政策がその典型例だ。これは庇護を求めてやってきた人々をオーストラリア本土には入れず、離島であるクリスマス島や隣国パプア・ニューギニアのマヌス島、ナウル共和国などの施設に収容するというもので、事実上の入国拒否であり強制収容所への収監であった。これは難民がオーストラリアを目指すインセンティヴを下げると同時に、国内法の適用されない場所に庇護申請者たちをとどめ置くものでもあった。これにより収容者たちはオーストラリアの弁護士や支援団体へのアクセスが途絶され法による保護も全くない状態にとどめ置かれることになる。実際にそれぞれの収容施設での人権蹂躙は甚だしく、この政策は国内外から強い批判を受け、労働党政権となった2008年には中止されることとなった。
 その中でもとりわけナウル収容センターは悪名高いものであった。そもそもナウルは19世紀末にドイツ領となってからというもの、豊富なリン鉱石が近代的多肥農法に必要な化学肥料の原材料として注目され、第一次大戦以降はイギリスによって採掘が続けられるも、乱掘で資源は枯渇し「島の土地の9 割が採掘で荒廃し、環境面で破産したことに加え、少なくとも8 億ドルの債務を抱えて財政面でも破産に直面」する事態となった(ナオミ・クライン著、幾島幸子・荒井雅子訳『これがすべてを変える 上』、226頁)。さらに地球温暖化による海面上昇で国土消失にも直面しており、遠くない将来に環境危機難民を出す側となる可能性が高い。この、危機的状況に置かれ外貨と海外からの支援に頼らざるを得ないナウル共和国に対してオーストラリアは、16億円にも上る支援と引き換えに非人道的な収容施設を委託したのだ。後には「死の工場」とすら呼ばれたこの収容センターは労働党政権となった2007年に公式には閉鎖されるものの、一部の人びとは収容されたままとなり、2012年には施設が再開され、その翌年には大規模な暴動が発生している。
 ムルタザが収容されていたクリスマス島の収容施設でも2011年に大規模な暴動が起き、2014年には400人近い収容者がハンガーストライキが実施されている。そのうち7 人が自ら唇を糸で縫い合わせるという決死の抗議行動を行い、そのショッキングな姿はそれをひた隠しにしようとする政府の努力にもかかわらず、広く報道され大きな抗議運動につながった。2018年にはいったん閉鎖されるものの、はやくもその翌年、2019年2 月には再開が決定されている。クリスマス島収容センターでの経験についてムルタザは多くを語ろうとしないし作品でもほとんど取り上げていない。庇護を求めて来たのに牢獄のような場所に閉じ込められ人権を蹂躙され、ほとんど英語も分からず、まだアートを介した表現方法もなかった彼にとって、この時の経験はいまでも語り得ないものとなっているのだという。当時のことを描いた数少ない作品の一つ「牢獄の窓」は、窓であるにも関わらず窓の外の世界は描かれていない。
 だがオーストラリアと日本の違いはこうした収容施設の在り方のみにあるのではない。確かにオーストラリアの難民収容政策は比類ないほどに非人道的で許されざるものではあるが、同時に、それに対する、日本からは想像できない規模の強力な抗議活動と収容者らへの支援活動が継続的に行われているのもまた事実なのだ。それも、草の根の市民団体からアムネスティ・インターナショナルなどの国際NGO、そしてオーストラリア人権監視委員会のように法的に認められた第三者機関まで、多様な団体が相互に協力しながら活動している。これらの団体が世論形成に強く働きかけることで、難民受け入れ政策に少なからぬ変化がもたらされてきた。その成果の一つが、「コミュニティ拘置」と呼ばれる措置だ。
 迫害を逃れてやってきた庇護申請者たちは、収容施設で長期にわたって拘留されることで心身ともに疲弊し、傷つき、精神疾患をはじめとした健康上の問題を抱えることになる。しかも日本と同様にオーストラリアでも申請手続き終了までの拘留期間に上限が設定されておらず、制度上は半永久的に収容することが可能となっている。これは収容者のその後の人生設計を白紙のまま宙づりにするものであり、未来への希望を奪い去るものだ。収容所の劣悪な住環境や職員による暴力もさることながら、この未来の剝奪は収容者の精神に激烈なインパクトをもたらし、ときには衝動的な自殺の主要因になるとも言われている。この長期拘留に対する強い抗議活動がきっかけとなり、オーストラリアでは2010年代初頭から「コミュニティ拘置」と呼ばれるプログラムが開始されることとなった。
 コミュニティ拘置では、庇護申請者は収容所から出て一定の生活保護を受けつつ医療のアクセスも保障され、政府の指定した地域に住むことができる。とはいえ指定された担当者との定期的な面会や夜間外出禁止、外泊の禁止、他人を泊めることも禁止、さらには一定時間以上の就労も禁止されており、自由とは程遠い。それでも、昼間は比較的自由で、支援団体や地域住民との交流も可能となっている。ムルタザが難民アート・プロジェクトに出会いアートに没頭することができたのも、まさしくこの措置を通じてのことだった。アートは迫害された過去と剝奪された未来のはざまで宙吊りにされていたムルタザに、すべてを忘れて没頭する「現在」をもたらしてくれた。そして、アート制作を通じ、彼にとってかけがえのない友人たちのコミュニティをもたらしてくれたのだった。
 日本にはこれに相当する人道措置は存在しない。日本にいる庇護申請者たちの多くは、ムルタザの描いたものと同じような、先の見通せない窓の内側にとどめ置かれたままとなっている。

Murtaza Ali Jafari《牢獄の窓》

西 亮太(にし りょうた)
中央大学法学部准教授。ポストコロニアル批評。

Murtaza Ali Jafari(マターザ・アリ・ジャファリ)
アフガニスタン出身。ハザーラと呼ばれる少数民族であり、タリバンによる圧制から逃れるために難民となった。

難民アートプロジェクト Refugee Art Project
シドニーを拠点にして、芸術家らを中心に2011年に立ち上げられたプロジェクト。シドニー近郊のヴィラウッド移民収容施設を中心に、近隣の難民コミュニティを回りながら、難民や庇護申請者らとともに芸術制作を行っている。今回の連載はこのプロジェクトの協力により可能となった。団体のホームページは現在休止中だが、フェイスブックページは見ることができる。https://www.facebook.com/TheRefugeeArtProject/

掲載誌 『KOKKO』35号(2019年4月発売)
[第一特集]  ここが争点 公務員の働き方2019
[第二特集]  アベノミクス偽装と消費税

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