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映画の話:「穢れなき悪戯」Marcelino Pan y Vino

幼い頃に見たある映画について書いておくことにしました。おぼろな記憶なので勘違い間違いが混在するかもしれませんが、あえて実際どうであったかを調べることはせず、記憶をそのまま辿ります。


私の母は日夜熱心に内職をしていました。夜になると、母は内職の手を休めることなくテレビで放映される映画を見る、あるいは聴いているのが好きでした。私は母の呼吸の音が聴こえるほどの至近距離で、体操座りになり、ブラウン管の映像に見入っていました。

ある夜、その映画に出会いました。
映画のタイトルは「穢れなき悪戯」原題:Marcelino Pan y Vino 1955年のスペイン映画です。

ブラウン管の中、生まれてはじめてキリスト像を見ました。私はまだ10歳にもなっていなかったように思います。映画の中のキリスト像は私にそれまで知らなかった特殊な感情を与えてくれました。

美しい方でした。哀しそうな眼をされた方でした。

私はキリスト像に恋をし、同時に「世界は言葉によって構成される、しかし言葉によらない世界、世界の向こう側の世界」へ憧れました。子どもの言葉にいいかえれば、にんげんが頭で考えられる世界、心で感じられる世界とはまったく異なる世界への憧れです。

わたしは現在60歳です。
遠い昔に見た「穢れなき悪戯」の中で立ち現れたキリスト像を1日たりとも忘れたことがありません。キリストの生涯、あるいはキリスト教そのもの、キリスト教の歴史、すなわち世界の多くの国々のおそらくは残酷で憎しみに満ちた歴史に対する恐怖心はもちろんありますが、わたしの心に最も鋭く深刻に突き刺さっているのは「スペイン映画穢れなき悪戯で遭遇したキリスト像」です。

わたしはキリスト教徒ではありません。約50年ものあいだ、毎日キリスト像を意識しながらもそれ以上なにかに手を伸ばそうとは思わない、あるいは思わないようにしています。お祈りの仕方も知らないし聖書に触れたこともありません。教会には必ず多くの人が集まります。人が群れをなすと必ず階層が生まれることを私は知っています。神の前においても人間は真の平等を獲得できないと私は考える性質の1個人です。だから教会に行くこともなく60歳になりました。

けれど、おそらく意識と無意識が交差するもっとも奥深い場所、わたしがわたしでなくてもかまわないuniverseにおいて、キリストは十字架から身を起こし、まだ見ぬ母を慕う少年マルセリーノが差し出したパンとワインを口にし、あるいはうすい唇に神の言葉を載せているに違いないと思っています。「穢れなき悪戯」のキリスト像に対してのみ、わたしは50年を越えて恋をしているのかもしれません。




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