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麻酔-痛み

↑の子を初めて見た時、痛みをテーマにしたものを書きたくなりました。そういうわけなので、何卒。


本編

 求めても逃げられ、そのあとに残った痛みを癒す方法をぼくは知らない。あれはいつの頃だっただろうか。おぼろげなのは手作りの看板と張りぼてだらけの校舎、そして制服を来崩しても怒られない空気。
 あの時ぼくは野球場かどこかで買った千葉ロッテのTシャツを着ていて、遊びに来ていた錨のロゴが印象的な制服のあの子はぼくを見るなり全速力で駆けだしていく。呆然と立ち尽くしたぼくはいくら求めても想いは届かない事だけを知る。
 先日その子が結婚したという話を聞いて、ぼくは一人で夜に想いを馳せていた。山手線も西武線も走って行ってしんとした大久保公園。夜空を眺めると真っ暗な空に米粒のような星がただ浮かんでは消えている。
 肩を叩かれて後ろを振り向いた先にいたのがハルキだった。
「それでよお前、なんであんなところで一人黄昏てたのさ」
「考え事だよ、そっちこそいきなり青ざめた顔で死ぬなってなんだよ」
 連れていかれた安い居酒屋のあん肝はもみじおろしが効いていなくて、ポン酢の味しかしない。安い日本酒はどうにもアルコールの味がつんとする。一杯飲むとため息をついてハルキは口を開く。
「大体お前のような陰キャが、一人であんなところにいるのが悪い」
「体中グラフィティアートみたくなってるお前がそれを言うか」
「やかましいわ」
 会話が途切れて、全然声の出ていない野球部のような居酒屋の喧騒が戻ってくる。ハルキは確かに全身にタトゥーが入っていた。スカジャンから見える左肩にはUFOや雲にブラックホールが、右腕にはモノクロのそれは見事な錦鯉とその上になぜかキティちゃんが入っていた。首の真ん中には蜘蛛の巣が描かれ、それを覆うかのようにキングギドラの絵が刻まれている。胸元には三日月。おそらくは背中も腹もぼくが今見えていないところも。すべてが肌色のキャンバスを埋め尽くすようにグラフィティアートのように壁画が描かれているのだろう。
「なんだ人をじろじろと眺めて。スケベか」
「なんで欲情する方向に話を進める?」
「男なんだから相場は決まっているだろ」
「勝手に決めんなや」
「ならなんで眺めてた」
「タトゥーだよ」
「これ?」
 全身を誇示するかのようにハルキはぼくにアピールをする。ぼくはうなずいて、ハルキの言葉を待つ。
「ま、色々とあってだな。人とのつながりが切れた時やふいに入れたくなった時に入れた。それだけだ」
「男と別れた時とか?」
「言わせるなそんなこと」
 言って、ハルキは酒に口をつけた。飲み屋に映える女だ、と思う。酒とタバコの組み合わせが実に合い、そして一人で飲んでいてもどこも違和感のないような。姿のきれいな女だと感じた。顔のビジュアルもまあいいからなのかもしれないが、一人でいることをまるで畏れていないような。そういう姿を強く感じた。遠くでは、野球部のような声とにぎやかな会話の声がまるでボールのようにぽんぽんと弾む。
「タトゥー、気に入ったか?」
「全然。痛そうだし」
「痛いのは嫌いなのか?」
「まあね。好きじゃないな」
 そうか、とだけハルキはこぼしてから肩を揺らした。そこからはお互いに何も言わなかった。そういえば一度だけ、シールを入れたことがあった。だが、シールはお風呂で擦るとすぐに消えて後には何も残らないまま。ハルキは決して擦っても落ちることがないその汚れを身体にいくつも付けている。今でも。
 何も語らないまま酒が空になったのをきっかけにして、その日ハルキとは別れた。

 痛いことが嫌いなのは何も今に始まったことではない。誰かに酷く叩かれたとかそういう物理的なことだけじゃない。それ以上に心を酷く痛めつけられてきた。ぼくは人よりも心が痛くなることがあるのか、それとも一度痛められると回復が遅いのか。
「ああ、あなたが。お話はあいつから聞いてますよ」
 その言葉で会場の視線がぼくと男に向く。少し首を上に向けて眺めた彼は、確かに体つきががっちりとして自信に満ち溢れている。女はこういう男に惚れて靡くというのをめいいっぱい詰め込んだようなその様に嫌気が差す。だが、会場は違う。嫌気が差そうが差すまいが、ぼくは彼と対峙することを求められていた。
「そうですか」
 それだけ返す。感情を殺す。まだその子のことが好きだった時の話だ。はた迷惑だ、と思う。観衆の奥には下卑たような目で笑う女の顔が見えた。お前か仕組んだのは。目で話す。しかし、言葉にならない言葉はきっと届かず、そして吸収されていくだけだ。冷めた目線でただ眺める。蝉の音がけたたましい外で、冷えた空気と目線だけがぼくの言葉となる。
 空間そのものが下卑ていた。逃げ出すことさえ許されず、ただぼくを痛めつけられるために作られたその空間でぼくは嘲笑を浴びながら痛めつけられ続けていた。その夜の西武新宿はやけに人が多くて、ぼくはただ空を見上げたまましばらく呆然と立ち尽くすだけだったな。そんなことを思い出しながら、ぼくは心に付けられた傷を一人でなぞった。そんなことをしていた戸山公園午後10時。半袖短パンでも過ごせるようになってきた少し肌寒い季節に急に缶チューハイだけ差し出された。
「相変わらず黄昏るのが好きなんだなお前は」
 声をかけられて振り向くと半月のような目でぼくを見下ろしたハルキが立っていた。
「うるせえよ」
「何考えていたんだ」
「昔の事さ」
「そりゃあ結構なことで」
 そういって缶チューハイを片手で開けると、ハルキは図ったかのようにチューハイを飲み始める。
「うーんまずい」と言いながらハルキは新作のチューハイに悪態をつき始める。そういえばこの前食べた大根おろしの目が粗いだし巻き卵を口に運んだときにも、同じようなことを言っていた。その時はまだ氷が付いたビールで口を洗い流していたっけか。あの時のことを覚えているかと聞いたらそんな細かいことまで覚えてられるかと返される。お前あの時酷く酔っぱらって隣の奴に悪態ついてたぞと言われると、知らんと返されてぼくは閉口してしまう。
「しっかし覚えてないのに、よくまたぼくと飲もうなんて気になったな」
「甲斐性無しの金なしくんと飲んだことないからね」
「どういうことよ」
「割り勘でバイバイしたの、あんたが初めてくらいだよ」
「は?」
「大体こんな格好してても、酒をおごってくれる男は多いってことさ」
「じゃあ、そっち行けばいいじゃん」
「大体そういうやつは私の身体目当てだ。そういうのは好かん」
 そういってまずいと悪態つきながら缶チューハイを飲む。遠くでは電車が走り抜ける音だけが聞こえている。右隣に座ったハルキの右首には蜘蛛の巣が描かれていて、見事な錦鯉とキティちゃんが書かれた右腕。掌に至るまで埋められたそれらは、そこはかとなく雑多さを感じさせるのだ。まるで何かを覆い隠しているかのように。
「またこれか」
「まあ、そんなに入れている人はいないからね」
「だろうなぁ」
 遠くを見ながらハルキは笑う。時間的に見てもう電車はあと数本往復しあえばしんと静まった夜になる。
「なんで入れようと思ったの?」
「何を?」
「タトゥー」
「ああ、これね」
 どこか眠たそうな顔をしてハルキは両腕を見せつけた。
「なんでだったけなー」
 言葉をはぐらかそうとして、またハルキは遠くを見た。それから小さく下を見てからぼくを見てまた話し始めた。
「痛みを求めているからかな」
「痛み?」
「そうそう」
「またどうして」
 それから白い手首を一瞥した。そこにはバラのタトゥーが入れられていて、目を細めてみれば凸凹とした傷跡のようなものが無数に散らばっている。
「手首を切れば、親がかまってくれる。友達がかまってくれる。見ず知らずの人が私に声をかけてくれて愛をくれる。私を誰かとつなげてくれるから、じゃない?」
 それまで皮肉をもって酔っていたハルキの顔はどことなく寂しそうで孤独を求めているような顔に変わる。
「それでできた繋がりは、今もあるの?」
 何も言わずに肩をすくめたハルキ。それは繋がりなんてとうに捨てたと言わんばかりの態度で、ぼくは思わず泣きそうになる。だが、それもハルキは自らの業だと言い切るかのようにぼくから目線をそらして、もう電車さえ走らない遠くの線路へと目線を移していた。ぼくとは真反対なように見えて、同じようにしてぼくもまた痛みを訴えては周囲からの同情に言葉を投げかけてもらうようにコトバや心を運んでいる。
 しょうもない奴だ、と自分で自分を吐き捨てながら夜の街へと消えていくハルキを眺めてぼくは独り言ちた。こうして何度となく、帰り道の西武新宿駅を眺めてはため息をつくのだろう。本当は一番自分が自分のことを分かっているくせに、周りから「そんなことないよ」と言われることを期待しながらずるく懺悔する醜い自分を振り返っては西武新宿のレンガ造りの建物の上を眺めて帰る。思うと、あの時もそうだったのだ。
 あの時も、あの時も、もっと遠い過去も。ぼくはそうやっていつもずるく懺悔を吐き出しては心に一人で傷を作り続けているだけなのだ。
 それからしばらくは西武新宿のあの道を通ることさえしたくなくなって。一人で「心の傷」を作ることさえもしなくなっていた。そうしないと、また勝手に構ってほしくて心の傷を作ってしまいそうだから。
 そうやってぼくは同情だけしかされないまま、ぼくという存在を消費させていく。気が付いたらぼくはまた一人になり、ハルキと同じように傷を同情してくれる人を捜し求めて歩く。

 本当は知っている。傷を作ったところで本当の自分に誰も見向きもしてくれないのだ、ということには。きっとそれを、ハルキも知っているはずなのだということを。

「そんなの誰だって知っているだろ」
 続けて馬鹿じゃないのかお前は、と続きそうな剣幕でハルキは新宿駅近くの安い居酒屋でビールを一気に飲み干す。相変わらずの飲みっぷりの良さに辟易としながらもぼくはその変わらなさが羨ましくさえ思う。男が女に強さをアピールするように、女が男にだけ見せるか弱さを誇示することが当たり前のように。また自らが弱くそして、傷がついたから同情をもらうことそのものは人として当たり前なのだ、と。
「それで?」
「いや……自分が醜いなって思ったというか」
「馬鹿か君は」
「なんでそうなる」
「人間なんてみんな醜い生き物だろ」
 また遠くに目を向けてハルキはビールを飲む。そういえば、ハルキはぼくに向けて目線をくれたことがほとんど、ない。
「だから痛みを嫌うのか」
「うん」
「私とは真反対だな」
 鼻で一度笑ってから、ハルキは俯いた。どこか寂しそうな顔をして。
「そうなのかな」
「お前は傷を作ることを嫌うようになる、だが私は傷つけ続ける。真反対にもほどがあるだろ」
「その痛みで同情が続かなかったとしても?」
「仕方ないさ。それまでだったんだよ」
「どうしてそんなこと言うんだよ」
「他人はコントロールできないからさ」
「それだけの理由で、君は繋がりを手放すの?」
「たいしたことない理由でも、私にとっては繋がりを手放す理由にはなるよ」
 左手に描かれた梵字を眺めながらハルキはまた言葉をこぼした。左手にもいくつも刻まれた無数の傷跡。ハルキは肉体に、ぼくは心に。同じように傷を描いては誰かからの愛をさらおうとする。それからハルキはぼくを眺めた。
「君と私が似ているところはそんなにないよ」
「そうかな」
「あるとすれば、君と私はやり口が似ているだけのことさ」
「一緒にすんなよってこと?」
 口角を上げてハルキは笑う。
「そういうことになるかな。でもちょっと違う」
「何が?」
「私は誰かに依存したりはしないってことさ」
「誰かの心だけを消費させるってことはないのね」
「まあ、そういうことだよ」
「その割には何人もって言ってるじゃん?」
「同じように消費できる人間なんてこの世に存在しないさ」
 お代わりでやってきたジョッキをそのままごくごくと飲み干してからハルキは寂しそうな顔をした。
「寂しいの?」
「まあね」
「どうして?」
「誰も私の事なんてわかってくれる人はいないと思っているから、かな」
「じゃあぼくと同じだね」
「一緒にすんなよ」
「だって寂しいからさ」
「はっ」
 鋭くぼくを睨んだハルキは右手をぼくの頬に触れて言葉をこぼした。
「つらかったか」
「まあね」
「何がそんなに?」
「ハルキと同じように痛みを苦しんでいても、本当の意味で寄り添って一緒にいてくれる人がいないからかな」
「人間の時間は限られているし、心のエネルギーも同じだけ限られているからね」
「だけど女の子はいつもそういう時には誰かが手を差し伸べてくれるじゃん?」
「男は強くあれ、世の常だからな」
「それがふざけているなって」
「はっ」
 またさっきと同じように笑ってハルキは頬を撫でた。
「じゃあ、今だけ言ってやる。『よく頑張った』。以上だ」
「かるいなあ」
「言ってやるだけましだと思え」
「わかった、ありがとう」
 ハルキはようやく笑った。それからぼくも言葉をこぼす。
「ねえ、ハルキもつらかったんだろ?」
 その言葉にハルキは一回だけ目を丸くして、小さくうなずいただけだった。それから空が白むまで酒をお互いに飲んでその日は別れた。ひどく冷めた顔で歩く西武新宿は多くの人が行倒れのようになっていて、シャッターが開くのを今か今かと待ちわびている。

 ほとほと自分が嫌になっていた。そしてそれによっている自分さえをも嫌になっていた。そうした念が渦巻いて、ぼくは今もまた西武新宿の前でぼんやりとまた同じように上を眺めている。

「よう」
 かけられた声のほうへと振り向く。西武新宿駅ではなくて、小田急線の改札前。相変わらず、どこか寂しそうな顔をしたハルキがいた。どことなく幼い顔をしたハルキの体中にそうして顔を掻いてハルキは言葉を続ける。
「飯、まだか?」
「うん? そういえばそうだね」
「じゃあ、行こうよ」
「どうしたんだよ、今までみたいな元気がないぞ」
「はっ」
 俯きながら笑うハルキ。左手に赤く新しい傷が見えてぼくはそれとなく察した。ぼくにもまた、同情を引こうとでもしているのだろうか。
「ま、お前のこともその構ってくれる奴の中に入れてやる。それだけだよ」
「それって何? 告白?」
「頭悪いのか」ため息をついた。「そうだよ、だから付き合え」
「どこに」
「私の酒に」
「結局それか」続けてぼくがため息をついた。「いいよ、付き合う。でもぼくはそんなに誰かと付き合ったことなんてないからね」
「え、じゃあお前童貞?」
「言うな恥ずかしい」
「それでまた傷ついたふりか」
 言い返せないままぼくは俯いた。カラカラとハルキは笑ってそれからぼくを見た。
「いいよ、傷つかない方法は知らないが、慰め方なら知ってるから」
 じっとハルキと向き合った。両目には涙の絵に首筋に書かれた酒クズを体で表したそれ。遠い目をしていたハルキの視線はいつもよりも近く見えた。
「その代わり、いつ居なくなったって良い。耐えられなくなったら逃げてもいい」
「そんなことはしないよ」
「お前は優しいからすぐに傷ついたふりして庇護を求めるからダメ」
「ひでえなあ。しょうもないくそったれじゃん、ぼく」
「そうだよ。だからいいんじゃん」
「どうして」
「見てみろよ」
 くるっと回って一回転。そこには肌というキャンバスに落書きのように描かれたタトゥーがいくつも。
「こんな格好した女が高望みすると思うか?」
「そんなことないよ、って言ってほしい?」
「山田亮一かお前は」
「誰だよ」
 そんな言い合いをしながらぼくらはまた夜の街へと歩いていく。安い居酒屋でまた安井酒と安いつまみを食べながら、誰かを罵り互いを罵り、そして自らも罵りながらただお互いにお互いを懺悔して許しを乞うている。やはりぼくとハルキは似ていると思った。それともそういう風に仕向けているということなのだろうか。それさえもハッキリと分からないまま、ぼくとハルキは飲んでそして気が付いたらまた空が白んでいた。
「お前明日仕事は?」
「ないよ、ハルキは?」
「ない」
「泊っていい?」
「死ねお前」
「酷い言いようだなぁ」
「そうやって寝込みを襲うくせに」
「童貞がそんなことできるとでも?」
「はっ」
 お互いに負った傷をどこか麻酔のようなもので紛らわせて、それでも何とか何かをつなぎとめて生きている。とはいえ、それでもお互いに気分が悪くなって足取りもハッキリしなくて。青いゴミ収集車が駆けまわる中でぼくたちは段差に躓いて転んだ。その横には散らばったガラスの破片。きれいな色をして尖った先をぼくは気が付くと思い切り突き刺していた。それをハルキはただ眺めているだけで。立ち上がろうにもどうにも気分が悪くて立ち上がれないぼくは視線を遠くに移していた。白んだ空の先には西武新宿か見えて、電車が走り抜ける音がする。起こされてハルキと目が合った。目の奥はどこかうるんで茜色が浮かんでいる。遠くで山手線が走り抜けていく。

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