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北極星

 目を覚ますと、電車は動きをぴたりと止めていた。窓の外では競うように蝉が鳴き散らしていて、まだ太陽が高いことを知る。どうやらぼくは電車の中で眠りについていたらしい。次の目的地まではまだ延々と先の遠い海の場所にあるはずなのに、まだ山の中ののんびりと走り続けていたようで、ぼくは顔をしかめた。ため息をつくように、電車もまた出発の準備を整える。ドアが閉まり、動き出した電車の窓からぼんやりと次の仕事場のことに思いを馳せた。どうやら、また一緒みたいだね。そう言って笑っていた寺本の顔を思い浮かべながら。寺本は一足先に車でそっちへと向かうと言っていたから、きっと今頃はとうに目的地へと着いていることだろう。古びた工場のタンクを眺めながら蝉のけたたましさを恨んだ。車に乗っておくんだった、と。ただ、どうしても車だと心のバランスが取れないのだ。
 だから、車に乗らないのかい? 訊かれて、ちょっとねと笑って拒んだ。
 分かるよ。じゃあ、また向こうで。そう言って右手を挙げてから、寺本と別れた。
 車に乗らなかった本当の理由は、車は自分で動かさなければ決して動き出すことはないけれど、電車ならば時間通りに行けば勝手にぼくたちを運んで行ってくれるから。それに、車に乗ってしまうとあれもこれもと気を使わなければならない。駅から遠い場所が仕事場だとしても、車だと考える間もなくその場所へと辿り着いてしまうから、ぼくの中の間を取ることが出来なかった。電車ならば、そうした時間も物思いに耽ることができるものだから、気が楽でいいのだ。
 人は心からすがっていたものや、信じていたこと。あるいは失われると困るものが消えてしまった時、心が宙を彷徨う。人の身体でさえも彷徨わせ、自らの場所を求めて歩みを続けることになることだってある。それは2日か3日で終わってしまうようなものもあれば、何年も彷徨ったままたどり着く場所さえ失ってしまうこともある。そうして、ただ彷徨うことが自らの居場所へと変わってしまうことだってある。本当に帰る場所を無くした者は、の話ではあるのだけれど。
 ぼくもまた、彷徨うことが居場所へと変わりつつあるようだった。薫という存在を失ってから、今に至るまで。

 最初は魂だけだった。それは次第に肉体にまで影響を及ぼした。ぼくという存在を彷徨わせないために。何度も染め直した金色の髪の毛、左耳の耳たぶに丁寧に並んだ赤・青・黄のピアス。左肩に入れた薫の墓標。
 彷徨う資格を持つことができるのは、帰る場所がある者だけ。そして、その彷徨いは誰にでも期限がある。タイムリミットは誰も教えてはくれない。そして、その帰るべき場所がどこにあるのかさえも、誰も教えてはくれない。知りたければ、帰るべき場所へと帰ること。そして、その存在に気が付くこと。
 根無し草のような生活を始めてから何年経っただろうか。ちょうどあの時と同じ春の始まりの事。ここよりももっとずっと暖かい場所だった。
 すっかり、お姉ちゃんになっちゃったね。遥からそのように言われて初めて、ぼくは鏡を見た。それまでは鏡を見ることも怖くて、目を合わせることさえできなかったのに。そこには薫が立っていた。思うように立つことが出来なくなっているように感じさせたぼくの代わりに薫が憑りついているように感じられた。ただ、薫はぼくよりもずっと華奢で、目の奥に狂いがあった。ぼくの目はまだぼくのままで、まだそこだけが唯一違うところではあったのだけれど。とはいえ、確実にぼくという存在を彼女が浸食しつつあることは確かだった。頬を触る。手のぬくもりをもまるで感じないほどだった。それは昔、冷たい感触をしていた薫の手そのものだった。
 本当にお姉ちゃんみたい。遥はぼくの頬を触る。すらりと綺麗な指が首筋を通り、肩へと達した。ぼくのほうが骨ばっているように感じられるはずなのに、まるでそこに薫が生き返ったかのように、遥はぼくを眺める。ぼくは抱き寄せる。それが正しい、とでも言わんばかりに。薫は戻ってこないよ。ぼくはサトルなんだから。言葉がこぼれた時、遥は何かを発しようとして止めた。代わりに目で言葉に対して何かを返した。それはとても悲しそうな目だった。
 旅に出てから、何度か同じ夢を見る。向こうの方で薫が手を振ってぼくを呼んでいる夢。ぼくはそれに応えて手を伸ばそうとするのだけれど、大体がその瞬間に目が覚めて終わる。さっきもそれを見ていた。ぼくは今もなお、薫へと近づきそしてぼくと薫は一つになろうとしている。

「今どこにいるの?」遥からメッセージが入っていた。
 遥は薫の妹だ。だから姿形がとても薫と良く似ていたのは自然のことだ。血を分けているのだから当たり前と言えば当たり前なのだろう。ただ、それにしても良く似ていた。コピーではないか、と思ってしまうほどに。もし遥が髪の毛を金色に染め、ピアスをしていれば薫と見間違えていたかもしれない。ただ、遥は薫と全く違うところが一つあった。それは目の奥に狂いがない、ということだった。
 薫はぼくだけを見ていた。純粋に、そして真っすぐに。それ以外の物事や景色、風景。存在している何かなど無いかのように。実際にはあるのだけれど、それ以外の物事を見ようとすることもしなかった。だからこそ、目に重大な狂いがあった。
 薫はぼくしか見えていなかった。ぼくも薫も、世界の中からぼくたちという存在を切り取り、そうすることで二人にある世界を愛でていた。それはわがままが許されず、自由に振舞うことが出来たのはぼくの前でだけだったから。本当の自分を知っているのはあなただけ。そう言って、薫はぼくという存在で欠けていたものを埋めていた。やがて、それさえも自らの身体の弱さのせいで叶わなくなると、薫は自らの時間を止めることで、ぼくに存在するようにした。
 ぼくもぼくで、薫からの愛を受け止めていた。それは誰からの愛情も知らなかったから。だから、初めて誰かから求められていることを知った時に、ぼくはそれしか出来なかった。ただ、あまりにもぼくへと向けられた目に怯えながら。その世界の中で、ぼくたちはずっと完結をしていた。だから、それ以外の世界をぼくはまるで知る気さえ無かったのだ。それも彼女が時間を止めてしまったことで、ぼくは自ずとその世界から出ざるを得なくなった。
 ただ、遥が見ているのはぼくだけではなかった。それは家族であり、友達であり、学校の先生であり、部活の先輩であり。それが普通だということをぼくは知らなかった。極めて普通でかつフラットに見る目。そして、薫のことを知っているようで知らなかった。家では「良い子」でいて、お父さんやお母さんの言いつけを守る出来の良いお嬢さんだということも分かっていた。そのことも分かっていた。だから、どうしても遥はそれだけが薫そのものだと感じていなかった。
「私、お姉ちゃんが分からないの。いつも優しくて、頼りになるお姉ちゃんだったけど、お姉ちゃんが分からない。まるで仮面を付けているみたいで、本当のお姉ちゃんがどんな顔をしていたのかさえ、思い出せないの」
 初めて遥と向き合ったファストフード店で、遥は言葉をこぼした。悲しそうな顔で。かつて、薫と二人で向き合っていた店だった。多くの学生たちでガヤガヤとしていた。
 人にはいくつもの顔があって、そのいくつもの仮面が人という存在を複雑にしているように見せかける。ぼくは隠すものが最初からなければ、さらけ出すことができる相手さえいなかった。薫はさらけ出すべき相手にも、仮面を取ることもしなかった。それは遥でさえもさらけ出すことができる存在ではなかったことの証だった。その仮面を外していたのは、ぼくにだけだった。どうしてなのかは、今も分からないのだけれど。
 それから、遥とぼくは度々会うようになった。同じ姉妹でも、顔が似ている以外にここまでも違いが現れるのか、とは思っていたけれど、気が付くと遥もまたぼくの空白を埋めていた。狂いのない目の中は、彼女が普通である事を示していた。精密機械のようで、綺麗で丁寧で。ファミレスに入っても、お冷を取りに行くことが無いくらいには隙が無いくらいに。
 そのたびに、左腕に刻んだはずの薫の印を忘れそうになる。望んでもいないはずなのに。遥の中にある薫の色が濃くなればなるほど、それが怖くなる。そして、ぼく自身にもそれが浸食されていくのを感じて、ますます怖くなった。その時はただの兆しのようなものだったのだけれど、ここから飛び立とう。そう感じた最初の瞬間だった。続けざまにメッセージが入っていた。「そろそろ帰ってきたら」。そんな言葉。電源を切る。

 一度の乗り換えを終え、たどり着いた駅はトンネルの中にある真っ暗な駅。銀色をした引き戸を開けると、誰一人としてそこには居らず人の匂いさえしない。水の流れていく音以外に、物音さえ聴こえない。ひんやりとした空気を振り払うかのように、一段一段ゆっくりと階段を登っていく中で、やはり電車はいいと思った。ゆっくりとじっくりと、色々なことに思いを馳せながら、時間を愛でることができるから。長い階段を登りながら、ぼくはふと思う。
「君って結構、詩人だよね」
 なんとも長い階段だなと思いながら辟易としていた駅の出口で待っていたのは寺本だった。蒸し暑さとはほど遠いさわやかな笑顔に辟易としながら下宿先へと案内されていく道すがら、そんな話をしていたらに開口一番言われたのがそれだった。相変わらず変な奴で、不気味だとさえ思う。言葉にどこか、体温がない。ただ、あまりにも言葉の端々が穏やかだからその体温の無さに却って安堵する。着替えやら何やらを詰め込んで、悲鳴を上げそうになりながら登っていた階段を思い出す。人の体温の無い、ひんやりとしている駅の構内。寺本にも薫と同じで、どこか人の体温が無い。何度も行動を共にしてきたけれど、度々言葉から感じるのだ。君、と呼んでいるときは大体そうだ。というよりも、寺本が本心で何かを語ってくれたことは、限りなく少ない。大体が生まれてくる現場の人の悪口や、次の現場の仕事の話。そうしたこともしないし、世間話程度の会話をしながらやがてけもの道のようなところから所狭しと三階建ての家が立っている集落が見えてきた。
 あっちこっちと電車を乗り継いでは様々な仕事に就いた。畑仕事にスキー場、海の家に観光地のカフェ、そして漁場。次第にぼくの中で、どうしても接客は向いていないと感じて、畑仕事や漁港へと流れていった。会話をする事もなく、ただ言われたことを黙々とやるだけの仕事。そうすれば「自分が誰か」なんてことを忘れることができるから、ぼく自身にとって都合が良かった。
 その過程で一緒になることが多かったのが、寺本だった。最初は特段話す仲でもなかったし、華奢な男だという印象以外には取り立てて覚えが無かった。ただ、流石に半年以上も同じ現場で働いていると、嫌でも顔と名前は覚える。その中で次第に、寺本は極めて異質な男だということに気が付いてからは、どうしても頭から離れなかった。それは寺本という男があまりにも普通過ぎる、ということだった。それに、接客のほうが圧倒的に向いていそうなのに、肉体労働を優先して選んでいたこともまた、あまりにも印象深かったからだ。
 こういう季節労働をしている面々はだいたいがいくつかのパターンに分かれる。その日暮らしをする者か、あるいは借金返済のために生活をしている人とは親近感は覚えてもどうにも話が合わなかったし、農業が休みの時の出稼ぎに来ている人とはそもそも交流もなかった。職業がバックパッカーのようなやつはどちらかというとパソコンと会話をしているような面々ばかりで、どうにも鼻持ちならない。その日暮らしというほど生活にも困っているわけでもなく、誰かのためでもなければ自分のためにも金を稼がないぼくのような理由もなく漂うような人間は、まるで話が合わないのだ。決して悪い人たちでは無いのだけれど、心から打ち解けることが出来ない。どうしても奥底にある人柄や、自分と見ているものが違うから。時たま休憩中にタバコを吸っていても、誘われて酒を飲みに行っても。ぼくの心はそこから消えていく。
 その消えていこうとする刹那、思わずぼんやりと辺りを眺めた時、いつも寺本はぼくの視界の中に入ってきた。彼もまた、周囲から浮いている人間の一人ではあった。こうした労働をしている人にありがちな生活が切羽詰まっているわけでも、一時的な稼ぎのためでもなく、取り立てて旅が好きだというタイプでもない。何やら夢があるようにも思えない。ただ、周囲に自分が近寄らないように意図的に遠ざけているようにも感じられた。休憩時間になればぼんやりと空を眺めているか、本を読んでいるし、定時になれば爽やかな笑顔と礼儀正しくお辞儀をして帰っていく。まるで新人サラリーマンかのように。時々は接客などを行う仕事だと、それがとても印象良く感じられるのだけれど、肉体労働の現場だと一瞬気を取られてから、思わず寺本と同じように挨拶をしてしまう。大体がいい加減な挨拶で済ませられるはずなのに、まるで優等生が折り目正しく挨拶する様を誰もが見とれてしまう。
 それからその姿が消えてしまうまで、周囲は常に怪訝そうな目で見られた。そして、それはここでもそうだった。大体顔を知っている人はいつものことだという雰囲気を出すし、ぼくもその一人なのだけれど、かつてはぼくもまた不思議な目で見ていた人間の一人だった。ただ、仕事は誰よりもできるし誰よりも抜かりなくやるので、誰一人として彼に難癖を付けることさえできなかった。
「どうしてそんなこと訊くのさ。そんなにぼく、変かなあ」
「変。めちゃくちゃ変」
 そういう会話をしたのは、海が時化で出られなくなって、漁が休みになった日のこと。1年ほど前の冬のだっただろうか。他の面々はそれぞれがパチンコを打ちに出たり、家族に電話したり、ブログを更新したり。自由に行動していた中でぼくと寺本は、下宿先の家でテレビを見ながら会話をしていた。びゅうびゅうと吹きすさぶ風の音と、元気が空回りしているようなアナウンサーの声がBGMになっている。
「だけどさ、君も十分変だと思うよ」
 テレビに視線を向けながら、寺本はぼくへと返す。
「どうして」
「心がここに無いみたいじゃない」
 核心を突かれた気がした。寺本は一つとして確証が無いのに、人の心を見抜くのが上手かった。初めてまともに会話をしたその時、ぼくは思わず沈黙してから本音をこぼした。
「なんか、周りと話が合わないんだよな」
「生きてきた世界が違えば、そんなものさ」
「お前はどんな世界を生きてきたのよ」
「逃げ出したくなる世界」テレビから目を離して、寺本を見た。寺本は寂しそうに笑っていた。彼はぼくと良く似ていた。「君もそうなんだろ?」
 響いた言葉は、例によって心が無い。だけれど、ひどく穏やかでもあった。初めて、寺本から本音を引き出すことができた気がした。ぼくは曖昧な頷きで寺本に返した。じゃあ、ぼくらはきっと今日から仲間だね。その言葉をもらってから、ぼくは今も寺本と仲が良いと思っている。遥もまた、ぼくと仲が良い。という感情以上のものを抱いていたのだろうかということを心の中で考えながら。

 そこには何が眠っているの? 遥がぼくに訊ねたことがあった。あれは、ぼくが左腕に薫の墓標を彫った後のことだった。金色になった髪の色と、左耳のピアス。まだ、身体の右半分はぼくのままであった頃の話だ。ここに眠っているのは薫だよ。そう返した。昔、言われたことがあるんだ。ぼくの左腕を刻みたいって。ふうん。遥はそう返すと、ふんわりと左腕を触る。じゃあ、ここにはお姉ちゃんがいるんだ。言われて、ぼくは頷きながら言葉を返した。
 どうしてそんなことしたの? 他に素敵な人が現れたら? 潔癖な遥の言葉はあまりにも正しい。ぼくはそう思う。ただ、正しいからと言ってそれが正解とは限らない。どうしてだろうね、と言葉がこぼれる。それから言葉を紡ぎだす。まるで難しい数学の問題の答えを出そうとしているかのように。そうすれば、帰ってくると思ったのかもしれない。最適解とは言い難いけれど、その時のぼくが精いっぱい伝えられる言葉で。
 じゃあ、きっとお姉ちゃんはサトルのところに帰ってくるね。遥は目を細めて、口で笑った。その奥は、少し悲しげだった。あえてそれを無視してぼくは言葉を続けていく。そうかもしれないね。旅立ったって、帰ってくる場所はきっとあるんだよ。待っている人が居ればね。だから、ぼくは帰る場所を用意してあげただけなんだ。思うと、薫の夢を見始めたのは、この頃からだった。
 帰ってこなかったら? 訊かれて、ぼくは逡巡する。そうか、帰ってこなかったときのことを考えていなかった、と。その時になってとっさに出てきた言葉は今でもぼくの言葉だとは思わない。
 きっと帰ってくるさ。確証はないけどね。ただ、もしそうなったとしてもぼくは待ってるよ。あの時にはもう、ぼくの中に薫が戻ってきていたのかもしれない。そして、次第にぼくを浸食していったのだろう。そうなった時、遥はぼくのことをどう思うのだろうか。いつかぼくという入れ物の中に薫という魂が入り、ぼくはただの所有物であることが露呈した時に。遥がぼくへと刻印できる場所は、一体あるのだろうか。それなのに、意地でも泣こうとしない彼女はやはり、薫とは違っていた。

「君は何から逃げているの? いつも遠くを見て悲しそうな顔ばっかりしているけれど」
 唐突にそのように言われたのは、新幹線が通る大きな駅の近くにあるサウナにでも行こうよ、そう言われて電車を待っていた日のことだったか。寺本はいつもと同じように待合室のベンチに座って本を読み、機械的な音声が流れる場所で表情もなく座っていた。銀色の引き戸の前に、体温のある姿を見て安堵するのだけれど、いつも早く寺本は来ていた。すっかりと季節は秋めいてきていた。感情が喜びから、少し悲しみを帯びてくる匂いがするよね。寺本が言っているのを見て、寺本のことがますますわからなくなる。
「逃げている? ぼくが?」
「いつもどこか遠くばかり見ていて、自分は帰る場所なんてないって自分で決めているみたい」
「帰りたくないんだよ。そうしていた方が、気持ちが楽だから」
「帰りたくないって思っているうちが幸せだよ。誰かに期待されているってことだから」
「期待ねえ」
「それにね、人の期待って裏切りづらいものだからね」
 ははは。寺本が笑って話す姿を見て、ぼくは彼がどこから来たのだろうと思う時がある。そして、不意に遥を思い出す。思い浮かべた物こそが、逃げてきたものそのもの。その日も薫の夢を見た。きっと、ぼくは薫と一つになる瞬間を見られたくないのだと思った。次第にガタガタと風で引き戸が揺れ始め、ぼくたちはそろそろ電車が来るね、と会話をする。トンネルの中に不気味な風の音が聴こえ始め、電車が来るのをただ待ちわびている。
 寺本はぼくと薫だけの世界にいた時には知りうることさえ出来なかった人で、多分これからも交わり合うことは、決して無い。それが断言できてしまうほど、知り合うことが出来たことが、奇跡的な事だと感じてしまう。変な奴と思われていても、仕事はきっちりとやるし要領も良い。そして、人当たりも良いし物怖じもしない。周囲にどう思われていようとも、一向に意に介さないように行動をしていている。ぼくのように、余計なことも考えてさえもいないのだろう。
「なあ、お前は誰かに期待されていたのか?」
「うーん、サトルほどじゃないだろうけれどね」
「ぼくが? 誰に期待されているのさ」
「帰ることができる場所で待っている人、にさ」
「今は?」
「もう、誰もぼくになんて期待はしていないさ」
 笑って、寺本はオレンジ色のユニフォームを着たサッカー選手が笑顔でポーズをとっているポスターを睨んだ。ぼくはぞっとした。ぼくは誰からも期待されなくなる、という恐怖を知っていたからでもある。習い事で認められずに、後ろで呆然と立っているとき。定期テストで結果を出すことが出来ずに、両親から突き放されたとき。多くの友達が、ぼくを突き放して居なくなった時。ただはっきりと言えるのは、ぼくはその時ただ誰からも期待されない悲しみに打ちひしがれただ一人だけで存在していた。寺本は今、まさしくそのように振舞っていた。誰からも期待されずにしんと立ち、眺めているだけの存在として自分を置いていて、自分以外の一切が最初から存在していないかのように振舞っていた様を思い出したから。ただ、そこに至るまでに寺本もぼくも誰かが期待をしていて。それらから逃げて、裏切って。ただ誰も居ない場所へと踏み入れようとしている。
 ぼくは知らず知らずのうちに、寺本は自ら望んで。ただ、そんな様を楽しんでいるかのように。自分がいる場所こそが、世界の中心として鎮座しているかのように。そして、他人の思惑など関係などなく自分がそうしたいから。時たまぼくと会話をしては、ただそれに笑ったり穏やかに返したり。ただ、自己主張など一つもせずにそんなものなど最初から無いと言わんばかりにそこにいる。こんな労働をしているから目立ってしまうのだろうけれど、そうでない所ではきっと、一つも影など無いように最初から存在していなかったかのように振舞っているのだろうか。
 旅人風情の男が職場から逃げたという話を聴いたのは、その次の日のことだった。それから何事もなかったかのように、一週間も経たないうちに新しい人員が補充された。

 遥の折れそうな脚を眺める度に、もう少し肉を付けろよと言うと、ひどーい、それセクハラー。と心にも無いような言葉で怒る。折り目正しい彼女はいつからか、毎日ぼくのところに来るようになっていた。いつも決まった時間に決まった時間だけ。それは少しだけ見ていて痛々しささえ感じていた。必死に遥はぼくのために妹としての遥を演じている。どう頑張ってもなることさえ出来ないのに。ただ、その原因を作り出しているのがぼくだということを分かっていた。左腕の刻印、金色の髪の毛、赤青黄のピアスを付けたぼくもまた、薫のふりをしていた。そして、次第にぼくは薫のようになりつつあった。二人で姉妹ごっこしているだけ。一人は姉を失い、もう一人は恋人を失った。それでもそうして二人して相手と自分を偽ることで二人の時間を埋めていた。そうすることでしか、埋めあうことが出来なかった。そうでもしていないと、この関係は壊れるとも思った。
 遥は、誰よりも冷めた目で物事を見ている。自分が最初から期待などされていない事、そして両親ともに薫を失った辛さから立ち直ることさえできていないという事。だからね、私が一人暮らしするって言ったときはきっと、二人ともホッとしたと思うよと遥は笑う。お姉ちゃんに似ているけれど、お姉ちゃんじゃない私になんて最初から期待さえしていないんだから、と。お姉ちゃん、という言葉に力を込めながら。だから、本当に甘えたい時に甘えられるのはサトルだけ。お兄ちゃんは? と訊くと、お兄ちゃんも早くに家を出ちゃったからと返される。遥もまた、自らの仮面を脱ぎ捨ててあるがままの自分でいることを求めている。薫と同じような顔をしながら。なあ、嘘ついているでしょ。嘘なんてついていないよ。遥は首を大きく横に振る。私、サトルに嘘なんてついてない。じゃあ、どうしてそんな冷たい目をしているの。
 それはサトルも同じでしょ。さみしく、悲しい顔をして言葉が返ってくる。
 ぼくが? どうして?
 知ってる。どんなに頑張っても私はあなたの妹にはなれない。サトルもお姉ちゃんと同じ格好をしても、お姉ちゃんにはなれない。私たち、ずっと嘘を付き合っているだけ。分かってるの。
 二人だけの空間から赤色の空が見えた。ああ、薫と最後にあった日も同じ空をしていたと思う。初めて遥の芯の部分に触れた気がした。似ている、と思う。薫の中にあった本質的な芯。遥はぼくに期待していた。ぼくならば、きっと自分の中で失われた心の隙間を埋めてくれるということを。そして、それはぼくも同じだったはずだった。だけれど、そんな出来レースのように、誰かに操られているかのように。お互いを埋めあう様を果たして幸せと呼ぶことができるだろうかとも思った。あの時と似ていた。
 あなたが好きなの。距離が近くなる。遥の中に眠っていた薫が目を覚まし始めているのが分かる。ギイ、という音を立てて閉ざされていくような音がした。それはかつて切り取られた世界へと旅立つ瞬間の音。先ほどまでは開いていた扉が閉まる音。ダメだ。このままではいけない。頭の中で考えていても、もう一つの感情がぼくをよぎる。その言葉が溢れてくる前に、遥から言葉がこぼれた。
 あなたが好きなの。その言葉にぼくの中から溢れ出て来そうな程の感情をただ必死にこらえながらも、それでもこらえきれずに決壊して抱きしめてしまう。好きという感情を伝えるとき、どうして人は悲しみの感情も抱いてしまうのだろう。たちが悪い、と思う。思うと薫の告白もまた、悲痛さを強く感じさせるものだった。ぼくたちの中で薫が消えない。それをどこか遠くから無邪気な顔で薫はきっと笑っている。笑っているはずの薫の顔が、どこか嘲っているようにも感じられて不気味ささえ覚える。まるで全て薫の手で転がされていたかのように。
 それは本当に遥の言葉なの? 口をついて出た言葉は、疑いの言葉だった。そうして遥をぼくは傷つけてしまった。ひどい、という言葉と共に。遥が薫と重なる。だけれど、まるで薫と同じようにいつかどこかで壊れてしまうのではないかという恐怖を覚える。だけれど、ぼくもまた言葉がこぼれる。どうしよう、遥。ぼくも君が好きなんだ。それはぼくも同じくらい悲痛な告白だった。目を見た。幸福な目と悲しみの目の二つの目が見えた。薫と重なる。そして、目の奥に見えたぼくもまた薫と重なった。そこに二人だけの世界が生まれようとしていた。薫はそれを永遠のものとするために自らの命を絶った。遥はどうするのだろう。不意に、また恐怖が生まれた。
 旅に出たのは、その運命の鎖を断ち切るためだったのかもしれない。ただそれは、向き合おうとしていた遥から逃げていただけだったのだ。それなのに、遥からのメッセージを見る。そこには「待ってるから」と書かれたメッセージがしんと画面にただ浮かんでいた。薫の夢を思い出した。ぼくに手を振りながら、いつも薫は「待ってるから」と言っていたのだろうか。そうすると、ぼくは薫からも逃げていたことになる。一つになるという事を恐れながら。

 借金返済のために働いていた男が、漁船から突然飛び込んだのは冬の寒いある日のことだった。突然、何の脈絡もなく叫び始めると服を脱いで海へと飛び込んでしまったのだ。聴いたところによると、どうにも借金で首が回らなくなり、おまけに借り入れに借り入れを重ねた結果、自らの首を絞めていたようだった。帰る家さえも差し押さえられ、女房からも離婚届を出されてしまい、自らの過ちにようやく気が付いてしまったというのが実情のようだ。何度か話したことがある仲だったけれど、いつも背中には何か暗く雲のようなものが立ち込めていて、時々それが彼を不安定にしているようにも思えてならなかった。
「しかしまあ、今どきあんな奴がいるもんかね」
 線路沿いを寺本と歩きながら、そのように訊くと肩をすくめて寺本も返す。
「人が一番怖いのは、何もかもを失った時だからね」
「どうしてさ」
「だって、守るものも帰る場所も、誰かの期待も。全部全部消えてしまったんだから」
 そうだろう? 寺本はぼくの顔を眺めた。その目は一つも曇りが無い。そして、今まで以上に寺本の体温を感じさせた。
「それにさ、あの人ずっと俺みたいなやつは死んだ方が良いんだ、って言っていたじゃない。念願叶ったってことなんじゃないの?」
 道すがら新幹線が見える。あれに乗って行けば、きっと遥の下へと帰ることができる。そういえば、遥からあれからまた、LINEが来ていた。とても短く、そして強い意志のこもった言葉。「私、待ってるから。ずっと」。まだ、返すことは出来ない。
「でもさ」寺本は言葉を続けた。「そうして自分を拒絶して、目に見えている物を拒絶して。振り切るように駆け出して行った先はそこで良かったのかな」
「どういうことだよ」
「何もかもを失った時が、一番人間にとって可能性が生まれる時なんだよ」
「どうしてさ?」
「誰からのしがらみもなく、誰からも期待されないで、自分自身っていう存在だけが残るんだから」
「お前ってさ、意外とポジティブだよなー」
「そうかな? 客観的にそう思っているだけなんだけれどな」
 それからじっとぼくを見る。ぼくもじっと寺本を見る。遠くで電車が到着するディーゼル音が聴こえた。それから数分して、電車が駆け抜けていく。その間もじっとぼくは寺本を見ていた。寺本の口は笑っていた。だけれど、目の奥が笑っていなかった。切実さも狂いもなく、何の感情さえもないただのガラス玉のような目。
「サトル」寺本が口を開いた。「君、もう帰った方が良い」
「急になんだよ。今から帰るところじゃないか」
「違うよ。もう、ここに居ちゃいけないよ。帰るべき場所に帰った方が良い」
「どこだよそれ」
「ぼくは知らないよ。ただ、サトルはもう分かっているんじゃない? 期待してくれる人がいるってこと」
 心の奥を見られた気がした。遥の短いメッセージを思い出してしまったのだ。「私、待ってるから」。その言葉を思い出したとき、初めて寺本に話をしようと思った。薫とのこと、遥はその妹のこと。二人で過ごせば過ごすほど、薫が消えない事。ぼくという存在が次第に失われて行きそうになっている事。同じように遥も、後戻りできなくなるかもしれない恐怖を覚えた事。結局それから自分は逃げただけだったのかもしれない。最後にそうこぼした。話してしまえば、ぼくは死んだ彼女に似ている女から逃げたヘタレのような話になってしまい、なんとも情けなかった。
 それを熱心に聞いていた寺本は、ひとしきり聴き終わると目を閉じて深くうなずいた。
「ま、今の話は忘れてくれよ」
「どうして? 君にとってとても大切な話だったんじゃないの?」
「それはそうだけどさ」
「でも、その遥ってのが今でもそうやってサトルの事を待っている」
「のかな?」
「きっと、今も彼女は空っぽなんだよ。突然君が居なくなってしまったから」
「どうして」
「それだけさ、君って存在が大きくなったんだよ。君もそうだったんだろ?」
 言葉が無かった。そんなことは嘘だ、と言い返したくなるほどに。ぼくも遥も、所詮はお互いに欠けている物を埋めようとしていただけで、そこに何も無かったはずなのに。
「人はさ、そうやって欠けている物同士を埋め合わせることが出来る存在って稀有なんだよ。それがたまたまどういう経緯、どういう形であったにせよ巡り合うことが出来たのは幸せなことなんだと思う。君はきっと、最初から幸せだったんだ。だから、サトルは帰った方が良い。今からなら、まだ帰れるから」
「いやいやいや、仕事はどうするんだよ」
「君、意外と真面目なんだね」驚いたような顔で寺本が笑い、返す。「何とでもなるだろ。あのバックパッカーが居なくなってもすぐに補充されたじゃないか。ここではさ、誰も何も期待なんてしていないんだから。海に飛び込んだ人も、きっとそうだったんじゃない?」
 その顔はあまりにも寂しく、そして今にも消えてなくなりそうな程脆く感じた。寺本がこんな顔をしたのもまた、今まで見たことが無かった。
「じゃあ、約束してほしいことがある」
「何だい?」
「寺本、お前も帰れよ」
「……オウム返しか何かかい?」
「お前もまだ、帰れる場所があるんじゃないのか?」
「どうかな」寺本は上を見た。口だけで笑いながら。「もう無いかもしれない」
「そんなの、俺だって同じだ」
 寺本は吐息だけでそうかもしれないね、と呟いた。それからまた笑った。寒空はすっかりと薄暗い色に姿を変えようとしていた。どちらにしても前へと進まなくてはならない。
「ずいぶんと長い彷徨いだったな」
「そうだね」
「あっさりと終わったけどな」
「案外そんなもんだよ」
 電車の時間が近いね。そろそろ行こうよ。そう言われて、ぼくと寺本は無言になった。そういえば、もうそろそろここでの仕事も終わる。せいぜい、期待されていない物を期待通りに片付けてから終わりにしよう。そうしたら、帰ろう。ぼくは幸せだった。だが、それは決して目に見える形ではなかった。お互いに欠けていた物を埋めることができる存在だということに気が付けて、やっと。トンネルを出てから遥に電話をかけた。
 海に飛び込んだ男は一命を取り留めた。人は寿命でしか死ねないんだね。寺本が笑っていたのをどうしてだろう、今思い出す。

「ずいぶんとご無沙汰だったじゃない」
「まあね」
「どういう風の吹き回しかしら」
「うーん、向き合いたくなった」
「誰に」
「遥に」
「それは結構なことで」
「もう、待ってない?」
「素敵な男が見つかっていればね」
「じゃあ、最初で最後になるかもな」
「かもしれないわね」
「土下座でもすれば気持ちは変わるかい?」
「それで変わるようなものだとでも?」
「いや、一切思ってないよ」
「じゃあ、ずっと前から変わっていなかったら?」
「最高のシチュエーションだね」
「誰にとって?」
「ぼくにとって」
「そうやって自分のことばっかり」
「それと、君にとって」
「どうかしらね」
「なんとなくだけどね」
「……」
「待っててくれるかい?」
「しょうがないわね」
「じゃあ、一週間したら」
「先延ばししないで」
「もう少しで終わるんだ」
「分かった。じゃあ待ってる」
「うん」
 電話が切れて、星空を眺めた。どこまでもバカ真面目なんだなあ、とぼくはぼく自身を悔いる。いや違う。結局今も、立ち止まる時間が欲しいだけなのだ。彷徨っているのは、前へも後へも進めずに、ただ立ち止まっているだけ。ぼくは今の今まで、向き合うことなく逃げ続けて立ち止まっていただけなのだ。苦笑いする。冬の星を見ながら、集落へと続く道を歩いた。はっきりと形作られていた。立ち止まれば、風や川の流れに身を任せるしかない。遥はそれでも、待ち続けていてくれているのだろうか。それが、まだ良く分からない。それからしばらく、薫の夢は見なかった。

「寺本はそっちなのか」
「新幹線に乗って帰るよ」
「ぼくは鈍行でのんびり行くさ」
「せいぜい逃げられないようにね」
 この野郎。と言って小突こうとしたのだけれど、うまい具合に逃げられてしまった。その時、トンネルから列車の案内が鳴り響く。
「そろそろ行かないとね」
「そうだね」
「また、どこかで会えたら」
 心に無い事を言った。多分、ぼくと寺本は二度と会うこともないだろう。そんな感じがした。きっとすれ違ったとしても、寺本という存在にぼくは一生気が付かないかもしれない。それが、正しい別れなのかもしれない。
「なあ」
「どうしたの」
「ありがとう」
 寺本はそれに対して微笑んでから、反対側のホームの階段を降りて行った。トンネルの中に風の音がガタガタと鳴り響く。列車が辿り着こうとするあと少しのところのようだ。ぼくも低い警報音の鳴るトンネルを見た。ごお、という音を立ててディーゼル車がホームにちょこんと辿り着く。それに乗り込み、反対側を眺める。電車は行ってしまったのか、それともまだあいつはあそこにいるのか。引き戸の奥側で湿ったベンチに座りながら、いつものように本を読んでいるのだろうか。すっかりとぼくのことを忘れてしまったまま。やがてトンネルが外に出て海に別れを告げ、山間を走っていく中でそんなことを考えていた。
 隣の駅に辿り着いた時、騒がしいアナウンスが聴こえた。どうやら事故だか何かで電車が止まったらしい。安全の確認のために電車を一度止めるとのことだった。どちらにしても、次の列車までは時間があるようだった。急ぐべきその道のりでふと立ち止まって、考える。思うと、ぼくはいつも立ち止まってばかりだ。そして、失ったものばかり数えている。その景色に見とれて、何かに向き合うことさえも忘れてしまっていた。向き合うべきものを遠ざけていた。それが逃げていることと同義だったのだ。寺本が吐息で返事した時の事を思い出した。あの時寺本は、薫と同じように今にも壊れてしまいそうな顔をしていた。
 本当に寺本には帰る場所がないのかもしれない。ぼくもまた、同じように帰る場所など無いのかもしれない。それが分かってしまった時、ぼくはまた彷徨い続けることになる。諦めていれば、どれだけ楽なのだろう。それでも、向き合い終わった時。待合室のベンチに座り、目を閉じる。短い時間、薫の夢を見た。彼女は手を振り、ぼくに笑いかけているのだけれど、全く意味が分からない。ただ、なんとなく夢の中で言葉が出た。もう少し待っててほしい。ちょっとそっちへ行くの、先になりそうだから。言葉が終わり目が覚めた。向き合う恐ろしさはまだあった。だけれど、ぼくは向き合おうと思う。左腕の墓標と共に。姿形だけ、君に似せたままで。
 やがて全てを失った時、ぼくは初めて薫に一つになると約束できるだろう。

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