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神崎川-風

PK Shampooというバンドの存在に感謝しながら、最後書きました。これで短編集のすべては作成完了です。

↑は前に作ったやつです。ではどうぞ。

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 ぶるぶると震えるスマートフォンのけたたましさと、そこから流れる流行りの音楽が目覚めを促す。無機質なその音はいつだってぼくの眠りを妨げる。目を開ける。
 無機質なテーブルの上には灰皿があって、安いタバコの吸い殻が積もっている。しょぼいビールと缶チューハイ。コンビニの袋に安いスナック菓子のガラ、つけっぱなしのテレビには泣くためにあるダサい映画のチャプター画面が延々と表示されている。お互いのおでこをぶつけながらその寂しそうな切ない画面を延々と音楽をリピートさせていた。
 頭をかくと、近くに煙草を探す。クシャクシャになっている煙草の箱には一つとして煙草はなくまたぼくは頭を掻いた。頬には涙が伝っていたのだろう。チープに酔える缶チューハイが、まだ少しばかりぼくを苦しめている。ぐるり、と回る世界が、少しばかりぼくを右へと動かす。
 チープに感情が動かされるのがあれほど嫌いなのに、僕はチープに感情が動くものを愛している。安い缶チューハイ、女優さんだけがかわいい、恋人が死ぬ映画。本当はこんな映画なんて嫌いなくせに、わざわざ泣くためだけに買ってはいつも一人でわあわあ泣いているふりをする。

 昔のぼくだったらそんなことを笑い飛ばしていたかもしれない。人は一人で生きるし、それがよっぽど楽で娯楽は娯楽らしく楽しくて。人よりは器用ではないけれど、それでもまあまあ人生を楽しんで生きている感覚はずっと強い。たかだか30年も生きていない自分が生き方を語るのはおこがましいかもしれないけれど、これで自分は良いんだと納得できるくらいには、それなりに楽しんでいるつもりだった。
 別に誰かを好きになるということがないわけではない。言ってしまえば久々に運動したら筋肉痛になってしまったようなもので、まあ度々抱いては、自分の中でやっぱり違うのかと折り合いをつけて終わりになってしまうことが圧倒的に多かった。この前、飲み屋のあの子に恋していなかったかとか、めちゃくちゃ美人の先生をナンパしていただろうとか。そんなことを言われては、ぼくは快活に笑い飛ばしていた。周囲からは理想が高すぎるとか、本当に大切な人を見つけなきゃいけないよとか。ぼくは決まってこう返していた。
「それが誰かのものでも良いの?」って。
 もちろんそんなことをしたことはこれまでも無かったし、またするつもりも無かった。ただ、あえて言うならばその時が来たとしても。きっとジャンクで、瞬間的な。そんな一夜で終わるのだろうと心から思っていた。
 それなのに、いつからこんなに狂ったような生活をするようになったのか。心当たりがあるとするなら、サオリという女が大きく関係していることに間違いはなかった。何か大きな勘違いがあるとすれば、きっとそこから歯車は狂っていたんだ。といっても、彼女のせいにするつもりは全くない。
 思うと、誰かのものをちょっと悪戯して隠してやろうという子供心のような物だったのかもしれない。

 とてもジャンクで、とても刺激的だった彼女は、ぼくの胸の中を悲しみで満たし、寂しさを作り出すことに大きく手助けをしていた。いや、そうすると彼女はとうにぼくの中ではもう彼女という存在がジャンクではなくなっていたことを既に示しているのだろうと思う。少なくとも彼女は、缶チューハイで酔うようなジャンクな女では決して無かったことをぼくは知っている。
 どこで知ったのだろう。彼女と出会ったという状況、天気、そういったものが全く記憶から抜け落ちているほど、ぼくはその存在だけが大きくなっていた。ただ、夏が始まる前くらいで、そして初めて入った飲み屋。ぼくはいきなり試されていたのだと思う。真っ先に記憶にあるのは、それだった。私には旦那もいるし、子供もいる。それでも良いのかしら? サオリはぼくにそう話していた。まるでテレビのクイズ番組のようにお手軽で、軽妙で。真剣身のない言葉のように感じられた。目の前にある、ドラフトビールを飲みながらぼくは遠い目をして考えるふりをした。それは破綻するという恐怖ではなかった。自分の立場を慮っているわけでもなかった。
 単純にその時を楽しみたい。ぼくはその時にあった気持ちは、これだけだった。細い目と切りそろえた前髪が次第に揺れ動くのが、良く分かった。そこからの記憶ははっきりとよく覚えている。まるで子供のようにふるまうサオリの横で微笑みながら酒を飲むぼく。左はぼくで、右はサオリで。ぼくとサオリの右手と左手は、カウンターテーブルの下でぎゅっと握られている。酒の力を借りるにしては、どこかクールで。少しばかりぼくは視線をサオリから外して考える。
「今何を考えていたの?」
 足でサオリがぼくのことを小突きながら、訊ねる。
「君のことを考えていた」
「じゃあ、私のほうを見て」
「見ていられなくなるほど、君を好きになったとしても?」
「今だけでいいから」
 柄にもないことをしていると思い、ぼくは思わず笑ってしまう。いや、本当は照れ隠しのために下を向いてこらえていただけなのかもしれない。今どき、こんなことをして楽しんでいるのは野暮ったいことなんだろうかと思う。まるでジャンクフードのように消費されていく関係だったとしても、今だけでもいい。明日“筋肉痛”になっても構わないと思いながら、サオリを眺める。

 初めてサオリをちゃんと見たと思った。気取ったバーにはおおよそ似合わない、くたびれたような顔をしていた。確かに、旦那と子供を抱えて、どこか辛そうな顔をしているようにも見えた。それなのに、不意に吸い込まれる感覚と美しさが両立している。顔には「私を愛して」と書いてあるような気がした。
「大好きよ」
「どうしよう、ぼくもだ」
「どれだけ私のことが好きなの」
「君から教えて」
「全部が好き。あなたの目も、長くて後ろに縛った髪の毛も、ここの空間も。全部が好きよ」
 やっぱりそうだった。サオリはぼくのことがとても好きで、その好きな感覚がどこかよく似ていた。
「どうしよう」目を泳がせた。それから、彼女に目を向けた。「ぼくもだ」
 一本吸っていいかな? そう聞いたぼくに彼女は右手を差し出す。ぼくの右の手と彼女の左の手は、まだ繋がれたままだ。安いタバコに火をつけて、煙を吐き出した。
「それが恋なのよ」
「知ってるの? サオリは」
「もちろん」
「何年前の話?」
「もう過去のこと。忘れちゃったわ」
 肩をすくめながら、彼女はぼくに伝える。
「じゃあ、その時の感情をすべて思い出させてあげる」
「それは素敵ね」
 ようやく、初めて微笑からお互いを笑いあうようになった。本当にこれが刹那的な物なのか、ジャンクなのか。全く分からないほどに。彼女がぼくへと向けてくる視線からは心があふれていた。それがぼくはとても、とても好きだった。クールで、真剣で。それは彼女がぼくよりも年上だからなのか、それともぼくとは違った経験があるからなのか。ただ、ぼくはその彼女から目を逸らすまいとしていた。今だけでもいい。彼女を目に入れていたい。安っぽい感情だと思う。電車はすでにない。夜もどんどんと更けていく中で、ぼくとサオリは二人で歌を歌いあいながら街を歩いていく。
 今どきの会いたくて震えたり、顔面からあふれ出る偽物の歌じゃなくて、子供のころに聴いていたアニメの歌。こんなこっといーなーできたらいーなーとか、いつもいつでもうまくいくなんてほしょーはどこにもないけーどとか。ぼくらはその時だけの楽しい感情を声に出しては消費していく。駅とは真反対の方向に来てしまったと思いながら。
 だいぶ歩いた先にあった、夜の神社でぼくとサオリは二人きりになる。
「いやー、歩いたね」
「なんか、すごくいい。久々に恋してる感じ」
 サオリの言葉に、思わず笑ってしまう。
「今までは恋してなかったの?」
「川にずっと流されていた感じ。その川から降りられた感じ」
「降りた感想は?」
「最高よ」サオリは笑い、続ける。「ねえ、なんであなたはあんな所にいたの?」
「それはサオリがいた理由と同じさ」
「遊び人だと思っていたわ」
「遊び人という点は間違ってないかもね」苦笑いしながら、そう答える。「だけれど、今はサオリだけを見ていたい。だからぼくも川から降りたんだ」
「私もよ」
 暗い境内のベンチで二人きり。ぼくとサオリは身を寄せ合いながら秘め事を囁きあう。次第に距離は縮まり二人でもたれあう。そして、彼女の耳元で囁く。
「二人きりになれるところ、行く?」
 サオリがぼくの言葉に察したのは、それからすぐだった。
「グッドアイディア」
 初めて会い、どういう経緯でそこまで距離を縮めたのも分からないまま、こうして交じり合うのはとてもいやらしくて最高だと思う。本当にジャンクで、だけれど真剣で。お互いが臨界点を超えるかのように最後その瞬間までかかわりあうのが、とてつもなく心地いい。
 終わってから、もう一度安いタバコに火をつけた。それが一夜の終わりであることを示していた。ここから先を二人で深入りしてはいけないんだ。そう告げているかのように。安くて、それでも真剣で。だけれど、結局すべてを知る前に迫る朝を前にぼくたちは別れを告げた。
「子供が待ってるし」
「うん、分かった」
「じゃあ」
 別れのキスさえないまま。時間にして1分も無かったかもしれないけれど。

 その夜から、ぼくはどことなく狂って行った。それは彼女とのその関係に罪悪感を抱いたからだとか、別れが唐突すぎたからとか、そういう短絡的な物ではなくて。彼女があまりにも弱々しく感じられたからなのかもしれない。ただ、一瞬で駆け抜けていった風のようだった。
 また会えば、もしかしたら彼女への印象は変わるのかもしれない。ただ、その変化を感じ取ってしまいたい。彼女という川から感じる「流れ」ごと、すべて。だけれど、連絡先もSNSさえも知らないぼくとサオリが再び会うことは、きっと絵本の中からウォーリーを探すくらい難しいことなんだろうと思う。それだけぼくは彼女に心を狂わされていたのかもしれない。
 灰皿に積もっていた安いタバコの吸い殻を片付けると、ぼくは吸い殻を洗い、そして綺麗にする。こうして、灰皿のように綺麗になってくれれば良いんだけれど、ぼくの心はどうしてか今も薄汚れたままで。まるで片付けられないままの過去をずっと引きずっているような気持ちになってくる。
 それと同時に、まだ会えるんじゃないか。そんな期待が無いわけではなかった。いや、むしろその期待しかなかったような気がする。きっと会えると心から信じていたからこそ。そんなことを思いながら、映画のチャプター画面を閉ざす。映画は繰り返す。ぼくの物語は所詮一つのワンシーンでしかない。もちろんサオリもいわゆるワンシーンなのだろう。そういう淡白な気持ちでいられたら良かったのに、と心の中で思い、外へと出た。

 泣くためにあるダサい映画を返せたら彼女に会える気がする、と心の中で感じていたのはなぜだろう。レンタルストアの返却ボックスに返却しながらぼくは一人ごちる。泣くためだったり、陶酔するためにあるものを捨てることができれば、本当に心からものにしたい存在を手にすることができると思ったから。
 ただ、サオリはやっぱり姿を表すことはなかった。それはそうだ。彼女は働いていて、旦那がいて、子供がいる。昼下がりからグダグダと出てくる人間と差はやはりありすぎる。こうしている間にも社会に貢献する彼女、何も貢献していないぼく。程度の低いロミオとジュリエットに、めまいがしてくる。
 こうしている間にも世の中は着実に時間を進めていて、空はどんどんと落ちて行くし、空はどんどんと黒くなって雲がかかる。雨が降るのだろうと、コールタール色していく空を眺めながら外へ出て残った安いタバコを吸った。悪いものをすべて吸いつくされた煙は、どこまでも白くなっていた。

 気がつけば夏は終わろうとしていた。それからも、安くてダサい映画とタバコで時間を消費し、ただただ生きるために生活をしているのだけれど、やっぱりサオリという存在が欠落したままたった一人で、しょぼいビールと缶チューハイでジャンクに涙を流している。アダルトビデオや画像で一人で抜いている高校生と、一体何が違うのだろう。唯一違うのは、多分年齢だけだった。
 自分がよほど滑稽だった。それなのに、溺れるほど酒を飲むほど動揺もしていないし、まただからと言ってクールな気分で女を待つようなそこまでの遊び人でもない。今日はドラフトビールではなく、かといって洒落たカクテルでもなく。安いタバコと一番近くにある安い酒で。
 白のカッターシャツに黒のストレッチパンツ、色だけはド派手なスニーカーのぼくはあのバーで語るようなものは無い。カウンター越しにマスターは日本の文化を語りつくしているのだけれど、どこか耳には入らない。ここで待っていれば、きっと彼女がやってきてくれるはずだと。あの時のどこまでも飛んでいけそうな感情をまた、思い出すことができるのだろうと。
「あの女とはどうしたんだい」
 横に座った、ロイド眼鏡の男がぼくに訊ねる。彼はピースを吸っている。
「さあね。ワンナイトってやつだったんだろう」
「どうかな。お互いに手と手をつないで、素敵だった」
「見ていたのかい」
「きっとこのまま、二人は二人だけの世界に行く。そう思っていたよ」
 そういうと、また男は煙を吐く。缶入りのピースをわざわざ持ち歩いているのかとぼくは思いながら、ピースの煙が行く先を眺める。彼が吐く煙もまた、すべてを飲み込んだように白かった。
「愛しちまったんだろ」
「そうだと思う」
 一本、ぼくも缶ピースをもらって、煙を吐き出した。肺は汚れる。だけれど、吐く煙はとてつもなく白い。根元まで吸い終わると、男はポンと背中をたたいた。
「あの女じゃないか?」
 切りそろえた前髪と細い目をした女は、サオリだった。

 カウンターテーブルから、二人きりになれるバーテーブルに席を移した。酒が運ばれてきて、二人で乾杯した。
「また会えるとはね」
「会いたかったんでしょ」
「なんで?」
「顔に出てるわ。あなたの目はおしゃべりすぎる」
 下を向いて苦笑いした。そんな格好のいいものではないはずなんだけれど。安いタバコも安い酒もない。ようやく、心が満たされてきたというのに。彼女はブランデーで、ぼくはちょっとした洒落たカクテルで。
「サオリはぼくと会いたくなかったの」
「会いたかった」サオリの目はうるんでいた。「だけれど、それは今のあなたじゃない」
「どういうこと」
「今のあなたはきっと、何かを失うことを恐れている。あの時のように風を起こして、たった一人でどこか遠くを見ている目線が好きだった。だけれど、今のあなたはどこか一人になることを恐れている。それは私が好きだったあなたじゃない」
「どっちも本当のぼくだとしたら?」
「最低ね」
「そうか、最低か」ぼくは遠い目をした。きっとそういうことではないとしても。「だけれど、好きになってしまったんだ」
 サオリは泣いていた。ただ、目じりから涙を流しながら。それは悲しみではなく、怒りでも無く、困惑の涙。言葉が滞る。ぼくたちはきっと今日この瞬間から、もう二度と会うことはない。
「ぼくに何をしてほしい」
「もうあなたにできることは無いわ」
 そうして、ブランデーを一気飲みしたサオリ。ばつが悪く、ぼくはその姿を見つめるだけだ。どうして早くに彼女とのアフェアを作り上げることが出来なかったのだろう。
「今日、ここへ来るんじゃなかった。あなたに会うんじゃなかった。そうすれば私の事ずっと忘れないでいてくれたのに」
 サオリは悲しそうな顔でぼくを見た。本気でぼくのことを好きだったのは、彼女もだったんだ。そう思うと、ぼくからも涙があふれてきた。それはあのダサい映画ではなくて、心の内側から生まれた、悲しい涙。
「それにね、今は大切にしたい事ができたの」
 サオリは自分の腹に目を向け、それからぼくを見た。その言葉はぼくにはあまりにもチープだ。目じりに流れる涙を隠しながら、ぼくはサオリの話を黙って聞いているしかなかった。不意に、彼女はぼくの顔を無理やり向けさせた。それから、口づけを。
 お互いに愛していた。それだけは変わらなかった。だけれど、流れた涙が乾いた頃。サオリはぼくの前から居なくなっていた。いくばくかの金を置いて。
 格好悪いな、と思った時。がたっと立ち上がったロイド眼鏡の男が両切りタバコを差し出した。そして、それと安い酒も合わせて。ぼくの肩に軽く手を置くと、笑う。それから彼も店を去って行った。良いやつだな、あいつはと思いながら下を向いて苦笑いする。忘れることがすべてじゃないんだぜ、と言われた気がして。

 もう夏が終わる。酒を飲んだら、とりあえず家へ帰ろう。それから、秋が近づいてきたから、しばらくはあの夜のことを覚えていよう。今度はもう少し高貴な映画を見ながら、酒を飲もう。

(了)

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