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母と捨てられたカレー

母がカレーを作ってくれた思い出の味を振り返る話ではない。
消化しきれていない出来事で、母を恨む側面もあり、それは深い愛なのかもしれないと感じる側面もある。

私の母はずっとフルタイムの仕事をしていた。障害者施設の職員として、大学卒業時から定年まで働いた。ちょうど第一次ベビーブーム最後の世代、そしてその頃の多くの女性が社会に進出して、男性同様に働くという流れに差しかかった時代背景がある。まさに母も男女雇用均等法に背中を押され、自己実現に向けて強い意志で働いていたようである。

友人の家も共働きが多かった。学童に通う友達が多かったからそう感じたのかもしれない。みんな学童から自宅に帰っても、自分で鍵を開けて親の帰りを待つ生活だった。私の場合、置き手紙で「お好み焼き屋で、好きなお好み焼きと焼きそばを買ってきてください」とお金、お皿が置いてあったことも記憶にある。夕飯を作る余裕もなく働いていた母。もっと言うと、それより遅くなったり、保育園の弟、妹も迎えに行けない時間になる時は「血のつながっていないおばあちゃん」が迎えにきてくれる。血のつながっていないとは、両親が市役所にお願いして今でいうベビーシッターを頼んでいたのだ。タクシーで迎えにきてくれたおばあちゃんの家に一旦帰り、そこに両親が迎えに来るという流れだ。

思い出すだけでも、メチャクチャな生活だったと思う。でもその時は、それぞれの場所が楽しかったし、小学生の自分がお好み焼き屋で注文することは冒険だった。「1人で来たの?えらいねー」と言われるのも嬉しかった。

ただ忙しい両親のもとで育ったけれど、週末は自然の中にも連れて行ってくれたし、山登り、スキー、長期休みは新幹線に乗って山口県や静岡県の田舎にも帰っていた。不満は取り立ててなかった。

少し変化が出たのは高校生になった時だ。高2の夏前に体調を崩した。風邪の症状はないが熱が出た。原因はわからなかったが微熱は下がらなかった。動けない程でもないし、親に言うほどのことでもないように思っていた。だから学校には登校していた。でもやっぱりだるさがあり、保健室へ通うようになる。そこから始まった保健室登校。クラスに行く気力が湧かず、半年ほど保健室に通い、無の時間を過ごした。先生たちはそんな私を見守ってくれ、時にはゆっくり私の絡まっている心の糸をほぐしてくれていた。なんとなく家に帰りたくない日は保健室の先生宅に泊めてもらう日もあった。先生のご主人と2人の小学生、保育園児の息子に迎えられて安心して寝たこともある。

ただ両親もそんな娘の状況を口うるさく言わず、問いたださず見守ってくれていたと思う。家に帰っても、私のやりたいようにさせてくれた。一度だけ母が私に言ったことは、「ずっと仕事が忙しくて、しわ寄せだったね。仕事やめようか」。
確かにそうなのかもしれないが、母が仕事をライフワークにして忙しくも充実していたことを知っていたし、その背中を見るのを嫌いではなかった。だから私は「いや、いいよ」とだけ言った。

高3になり、私は少しずつ心が軽くなっていた。保健室登校も卒業して、通常に戻った。そんなある夏の日だったか。

夕方7時頃、家には父、妹、弟がいたと思う。なんだかお腹が空いてきたと思い、冷蔵庫を覗くとカレーができそうな材料が揃っていた。母が帰宅して夕飯ができていたら嬉しいだろうと思った。大したお手伝いをした記憶もなく、いっちょ母に褒めてもらうチャンスかもという下心もあったかもしれない。

気分良くカレーを作り始めた。そして、最後のルーを鍋に投入したところで、ちょうど母が帰ってきた。
「わー、いい匂い!」と嬉しそうにキッチンへ入ってきた。
私はそれきたと、「カレーだよ」と言った。

と、次の瞬間、
「あ、え!何の肉を使った?」と聞きながら、バタバタとカバンを置く母。
なんのための質問かよくわからなかったが、
「冷凍庫にあった牛肉」と答えた。
それを聞くなり、冷凍庫を開けて確認している。私はよく分からないまま後ろで不安だった。そして母は言った、
「あかんわ、あの牛肉。いま狂牛病が流行ってるやろ」
狂牛病…確かにその頃のニュースでは連日その話題が報道されていたのは知っている。ただ、家にあった牛肉、これが狂牛病の肉かどうかは分からないが、ほぼその確率はないだろうと高校生ながらに思ったし、そしてそれなら冷凍庫に置いておくなよと思った。
「まあ、これから気をつけたらいいやん」と言った私の言葉が届かなかったんだろう。いや、届いたとしても目の前の光景は変えられなかったのかもしれない。
母が流し台に鍋に入ったカレーを流し始めた。今、作りたてのカレーを。私が作ったカレーを。喜んでくれるだろうと思いながら作ったカレーを。

言葉が出なかった。私はそのまま二階の自分の部屋に行った。その後のことは覚えていない。泣いたのか、呆然と過ごしたのか。

その後、母がまた違うカレーを作ったことは覚えている。牛肉の入っていないカレーを。なぜかそれを食べている自分のことも覚えている。心はズルズルに向けた皮膚に塩を塗っている気分だったことも覚えている。

それ以来、カレー事件について触れたことはなかった。母は家族の健康を守ろうとしてやったことだと理解しようとしていたし、しょうがない行動だった、残念だった話、と思っていた。母は何を犠牲にしても、病気で家族が死んだり苦しんだりすることを避けたかったんだろう。その時の母には余裕がなかっただけで、やり方に驚いたが、そこに愛はあったのだろう。

ただ、恐ろしいことにこの時の気持ちは消えるどころか、大人になっても燻り続けていることに気が付く。そして未だあの時の母に少なからず恨みを持っている。モヤモヤと悲しさが続く。今更言ってもしょうがないと思うが、なんでそんなことをしたのか、今ならどうするのか、そもそも覚えているのか聞いてみたいと思った。まだ聞けてはいない。

今の私にできることは反面教師的な行動か。気持ちと生活にしわ寄せがくるような働き方は避けて、余裕を持って子供と接する。こんな模範的な行動ができているのかと言えば、自信はない。その時その時が必死、親であれ振り乱して生きている。時には大人と言えど、子ども心に「あれ?」と思う行動に出るかもしれない。完璧にはなれないと今ならわかる。

ただやっぱり言いたい。
「捨てなくてもよかったんじゃない?」



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