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大学時代に書いたレポートを見直してみた①

まずは、大学1年生の頃に書いたレポートの一部をそのまま抜粋。

「オリンピック」をはじめとする世界大会は、自国民のナショナリズムを掻き立てる絶好の機会である。日本人の場合で考えると、日本に住む日本人はもちろんのこと、日本国外で生活する日本人が「自分は日本人である」という認識をこのときほど強く感じることはない。誤解を恐れずに言うと、母国で生活している限り、このような全世界の人間が注目し、競い合う世界大会などのときにしか、「自分は日本人である」と感じることはないのかもしれない。

だからこそ、政治目的の利用としてはこの上ないイベントであり、メディア(芸術)を受け手中心の社会構築に利用している点では、W・ベンヤミンが唱える「アウラの消失」が行われるのではないだろうか。オリンピックに夢中になり、テレビやインターネット中継に釘付けになる人々も実は「主体的に選ばされた」情報を受容していることに過ぎないのであって、そこには現実界に存在する実体の真正さは失われてしまう。

報道の編集者の手が加わった時点で、全ての権力・情報はその人間によって支配される。

大衆に広がる「常識」は編集者自身の「偏見」に塗り固められたものに過ぎないのかもしれない。物事の本質を見極めることは果たして、実現可能なのであろうか。はたまた、自分自身の五感で直に受容した情報であったとしてもそれが確実に正しいと判断してよいのだろうか。「言語」という限られた枠組みにはめ込んで物事を処理しようとしている時点で、既に本質はその形を変え、あくまでも受容者にとって都合のよい形式につくりかえられているに過ぎないのではないだろうか。

どうやら、社会とのつながりを求めていたらしい。

…うーん。大学入学当初の前田くんは、当時何とかして「ひとと違うモノの見方」をしたかったようです笑。

いま改めて見返すと、少し恥ずかしい気もしますが、ところどころではなかなか面白いなぁと感じるところもありました。

大学入学と同時に地元を離れ、環境が一転したことで、自然と「あ、何かしなきゃ。」って思ってたのかもしれません。

必死で社会とのつながりを求めようとして、自分を取り巻く社会をみつめようとしていたのかもしれません。

書くこととか、(好きなことを)学ぶこと・勉強することは嫌いな方じゃないかなぁと自分では思っていますが、最近はなかなかじっくりと時間をかけて取り組めていないので、もどかしい気持ちに苛まれたりもしてます。

いまの社会状況では「専門家の先生方」から「若者へのメッセージ」も出されていることですし、

大学時代のレポートとか論文とか、教科書とかノートパソコンとか見返してみようかなぁと思います。

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